見出し画像

自分の趣味をラノベ風に書いてみたら 最終回『アラサー女が将棋始めてはや3年』

テキスト:金澤流都 https://twitter.com/Ruth_Kanezawa
イラスト:真藤ハル https://twitter.com/shindo_hal

 この趣味のエッセイを書く前に、「アラサー女が将棋始めてみた」というのを連載していたが、最終回となる今回は、それからあとの将棋の事情はどうなっているかという話がしたい。

アラサー女が将棋始めてみた」がどういうエッセイだったかというと、わたしは将棋を教えてくれる人をもとめて公民館の将棋道場にめちゃめちゃ勇気を出して行って、駒落ちといってハンデ戦で将棋好きのおじさんたちから指し方を教わっている、ということについて書いたエッセイである。

 公民館に通い始めたころのハンデの条件は六枚落ちだったが、いまは四枚落ちで教わっている。しかしそれは結局「アラサー女が将棋始めてみた」を連載していたころと何ら変わりない条件で指しているということだ。エッセイの最後を「目指せアマ初段」で締めたとは思えない成長のなさだ。そのうえ駒をカッコよくバチンと鳴らすこともできないままなのだ。

 というわけで結局アマ初段はハチャメチャに遠い目標で、現状、まだ下級の級位者、といった感じだろう。公民館の道場には二月くらいから行っていなかったが、六月からぼちぼち通い始めた。
 さすがにこのコロナ禍のさなかに、顔を突き合わせて将棋を指そうというひとは少ないようで、早い時間に行くと支部長さんが隅っこで詰将棋を解いていたりする。ちょっと遅れていくと、支部長さんが小学生と指しているのも見る。道場にはお年寄りはあまり来ていなくて、子供さんがよく来るようになった。お年寄りはコロナウイルスにかかると重症化するリスクがあるそうだから、家族に止められているのかもしれない。ちょっと残念である。

 で、ときおり支部長さんに「じゃあ金澤さん○○くんと指してみる? ○○くんが勝つだろうけど」と言われて、小学生と平手で指さざるを得なくなる場合がある。そして支部長さんの見立ては正確で、だいたいわたしが負ける。小学生なのに公民館にくるほど将棋が大好きだから集中して熱心に勉強するので、メチャメチャに強いのである。あまりに強すぎて、焦って銀を真横に引っ張ろうとして「銀は寄らない寄らない!」と見ていた支部長さんに叫ばせてしまった。恥ずかしいことである。ブラジルまで穴を掘りぬいて隠れたい。

 家で将棋の練習をする場合、相手は「棋士・藤井聡太の将棋トレーニング」、略して「将トレ」である。要するにニンテンドースイッチのソフトなのだが、あらためて矢倉の組み方を覚えたり、数の攻めを覚えたりと、詰将棋以外のレッスンも充実していてなかなか勉強になる。
 藤井聡太先生が二冠になったら、「将トレ」もソフトのアップデートでオープニングの演出が豪華になった。最年少二冠というのがいかにヤバいのか、テレビで何度も特集が組まれたり、スポーツ雑誌Numberの表紙を藤井聡太二冠が飾ったり、なかば社会現象のようになっているのを見れば、わたしのようなヘボでもすごいことは分かる。というか、ツイッターで話題になっていた「50万円のコンピュータ部品を仕事のために買う高校生」というのがそもそもすごい。50万円。そんなお金、わたしはいっぺんも稼いだことがない。

 でも藤井聡太二冠がすごいのは、ただタイトルを獲ったとか、最年少記録を次々塗り替えるとか、そういうことではなくて、将棋という、どんな人間が始めてもスタート地点が必ずゼロである競技のてっぺんに、あの若さで駆け上がった、ということであるとわたしは思う。
 生まれたときから将棋のルールを知っている人間はいない。やってみようと思ってルールを覚え、詰将棋を解き、棋書を読み、強くなるほかない。それがどれくらいできるかはもちろん個人差というものがあって、その上澄みである天才しかプロ棋士になれないわけであるが、底に溜まっているヘドロみたいなヘボだってスタート地点はプロ棋士と同じなわけである。
 どれくらい努力できるか、どれくらい努力で成長できるか、というところが、プロ棋士と普通の将棋好きの違いなのではなかろうか。努力することが苦でなく、少しの努力からたくさんのことを学べる人間は強くなるのも早いだろうし、そうでない人間はそれなりにしか伸びない、というだけの違いなのだとわたしは考える。
 だから、藤井聡太二冠が成長するのが異様に早いのは、やはり「天才的」に、努力が苦でなく、そのうえ少しの努力からものすごくたくさんのことを学べるからだろう。そこが、彼の天才たるゆえんなのではないだろうか。「努力の速度」が、違うのである。

「努力の速度」のほかにわたしが将棋について最近よく考えていることは、「よく見ること」である。
 わたしは序盤の指し方がヘタだ。それは相手をよく見ないからだ、という気がする。相手がどんな手を指してきたのかしっかり見て、相手の行動に応じて指していく、というのが苦手なのだ。だからいつの間にか銀の割打ちができるスペースを作ってしまったり、王手飛車取りをやられたりする。

 わたしがここ最近夢中で読んでいる「錆喰いビスコ」というライトノベルがある。そのライトノベルの主人公は弓で戦うのだが、作中のセリフに「弓に、大事なのは、ふたつ。」「ひとつは、「よく見ること」」「もうひとつは?」「信じること。」というものがある。一巻ラストの圧倒的感動のセリフなのだが、わたしもときどきこれを思い出して、「将棋に、大事なのは、よく見ること」とかなんとか言っている。「錆喰いビスコ」の主人公である赤星ビスコが言うように、よく見ることは大事なのである。
 そういうわけで、食事するときも家族の食べるペースを見ながら、同じタイミングで食べ終えるという変なトレーニングをやっているのだが、一品片付け食いをしがちで早食いしがちのわたしにはこれがなかなか難しい。「食事に、大事なのは、よく見ること」みたいなことを考えつつ、アジの開きをつつくのだ。
 将棋が上手くなりたいという理由でやるにはおかしなトレーニングかもしれないが、よく見ることは大事だと「将トレ」で痛感している。相手がどんな手を指したかよく見ることは、勝利にダイレクトにつながってくる。それにのんびり食べるのはダイエットにもいいかもしれない。

「よく見る」ことと同じくらい大事だと思うのは、「次に何をしたくて指すか」だと思う。将棋は自分が指したら次は相手の番だ。相手が指したら自分が指す。その、自分が指す手は、次になにを指すためなのか、それを考えるのである。
 これが難しい。次にこういう手を指したい、という構想が、わたしのようなヘボにはない。目の前の駒得にごまかされて痛い目に遭うか、なんにも考えないで指して返り討ちに遭って困るかのどっちかである。
 そういうことを考えていたころ、公民館でとあるおじさんに「あの駒がなかったらなあ、って考えるといいよ」と教わった。つまり、「あの駒がなかったらこういうふうに指すのになあ、だったらあの駒はこうすればどかせるな」ということである。詰将棋にもたびたび出てくる邪魔駒とか相手の守備駒とかそういう理屈だ。邪魔な駒をどかしたり取ったりして進めていくということである。

 その具体的な方法を簡単に思いつくなら楽勝なのだが、これがまあ難しいんである。単純に取ってしまえば取り返されるし、追い払おうと歩を打ちこむと横をすり抜けて進んできて、ますます危なくなったりする。
わたしのヘボな脳みそでは追い付かない。本当にわたしの頭にはマルコメ味噌でも詰まっているんじゃなかろうか。

 しかしこれが成功した稀有な例があって、コロナウィルス騒ぎが始まる少し前の、2020年の1月に小学校低学年くらいの女の子と指したときに、この「次にこの手が指したい」というのがうまくいった。支部長さんの見立てでは「実力拮抗ってところじゃないかな」と言われていて、その女の子はお兄ちゃんがガチ勢で公民館にくるのについてきて、しょうがなしに将棋を指していた子だった。あんまり将棋に興味はないけれど、お母さんに引率されているのでついて来ざるを得ない、という感じだ。

 その子の玉には逃げ道があった。ここさえ封鎖できれば一発で詰ませられるんだけどな、と思って、「……これここに金打ち込んで同銀なら逃げ道封鎖できるんじゃね? でも金打っても王手じゃないから取らないかな、ええいいちかばちかだ」と、そこに金をばちんと打ち込んだ。
 そう思っていると、女の子はあまり考えずに、ひょいと金をとったのである! わたしは心の中でデスノートの主人公のように「計画通り!」とおっかない笑顔になった。

画像1


 そこからあとは頭金で詰みである。頭金というのは玉の頭に金をぶつけて詰ませることだ。

 というわけでわたしはその女の子に勝利したのであった。それを見ていた例の純文学のおじいさんが「それ王手でないからとらねくてもいがったんだよ」と女の子に言っていて、そこは生きてきた年数が二十年以上違いますから、と心の中でほくそ笑んだのであった。

 将棋の勉強は果てしなく続く。しかしそれは楽しいことだ。
 先に書いたように勉強の相手をしてくれる「将トレ」であるが、コンピュータなのでときどき訳の分からない手を指してくることがある。飛車先をひたすら交換してくるとか、飛車を歩の前に放置するとか、そういう人間なら絶対にやらないミスだ。まあまだ15級のコンピュータが相手なので仕方がないのだろう。レベルアップしていけばきっとそういうミスはしなくなるはずだ。
 そういうコンピュータ相手に勉強している話をおじさんたちにすると、「コンピュータ相手じゃ強くならないよ」と言われることもあるのだが、一度支部長さんからすさまじい勝負師の意見をいただいたことがあった。

 支部長さんいわく、「コンピュータは悔しがらないからつまんないよね」と。

 悔しがらないって普段将棋で人を悔しがらせたことがほぼほぼないのだが、しかし確かにコンピュータは悔しがらない。この人たちは真剣勝負が大好きなのだ。相手が悔しがっているのが嬉しいのだ。恐ろしい。あまりの恐ろしさに少女漫画のごとく白目をむいた。
 そしてわたしもいつか、相手を悔しがりの境地に追い込んでみたいな、と思うのであった。

Profile/金澤流都(かねざわるつ)
平成ヒトケタ生まれ。統合失調症を拾い高校を中退。その後ほんのちょっとアルバイトをしただけで、いまはライトノベル新人賞への投稿をしながら無職の暮らしをしている。両親と猫と暮らしている。
前連載『アラサー女が将棋はじめてみた』
Twitter:https://twitter.com/Ruth_Kanezawa


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?