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アラサー女が将棋始めてみた 第13回

第13回 「高校生と小学生とわたし」


 今回は道場にくる「若い人」のことを書こうと思う。

 道場に集まってくる人の大半は「おじさん」や「おじいさん」なのだが、何回もこのエッセイに登場している「青年」というのがいる。たぶん二十歳になるかならないかの、とても明るくてべらぼうに将棋の強い青年である。

 その青年は昔から道場に来ているようで、おじさんたちとも親しいし、なによりアマ四段の腕前である。わたしのような初心者への指導は的確だし、よく支部長さんとチェスクロックをばちばち叩きながら高度な将棋をしているのを見る。

 その「青年」ですら「わかぁい……!」と思うのに、もっと若い人がくるようになった。高校生の男の子である。彼は初心者なのだが、臆することなく青年やおじさんたちと平手で指して、敗北してはなにが悪かったか熱心に聞いている。いろいろな戦法を試して、その若くて回転が速くてやわらかい脳みそにどんどん知識を蓄積していく。

 その男の子と青年が喋っていることを聞いたところでは、男の子は高校に将棋部がなくて、教えてもらえるところを探した結果、公民館に落ち着いたらしい。初心者だけど将棋部に入って勉強をしたかった、というタイプなのだろう。

 おじさんたちも青年も、熱心に勉強する若い人というのが好きなようで、どんどんその男の子に知識を注入する。

 男の子は平手で強い人と指してどんどん学習していってどんどん強くなっていく。わたしはその横で、駒落ちでヒイコラ言っている。あっという間に棋力を追い抜かれるのだろう。

 おじさんたちはときどき、自分たちの将棋が楽しいと「まあ二人で指してなよ」と、きわめて無責任に、わたしとその男の子に平手で指すことを勧めてくる。わたしは駒落ちで勉強しているばっかりに、うまいこと囲うことも攻めることもできないながら、どうにか勝負になる、という程度の勝負をする。

 初めてその男の子と平手で指したとき、始まる前に支部長さんは「まあ●●君のほうが勝つと思うけど」と、男の子のほうに分があると判断したようだった。そりゃそうだ、その男の子は日頃平手で勉強しているわけだし、脳みその回転速度が違いすぎる。アラサー女はもうすぐ築三十年になる凝り固まった脳みそである。そもそもそこから違いすぎるのである。

 それでもなかなかいい勝負になって、うんうん唸りながら指していると、勝負の終わったおじさんたちが群がってきて、わたしとその男の子の局面を見て、

「この手の変化はこうでどうだ」とか、「いやこっちのほうが速い」だとか、勝手なことをべらべら言いだした。

「こう来てこうなってこうでどうだ」「いやその手にはこれが厳しい」みたいなことを、おじさんたちは真面目に論じはじめて、勝負が終わってすらいないのに感想戦が始まってしまうという謎の現象が起きるのである。

 そして男の子も「自分はこういう手を考えたんスけど」と言って駒を動かしてみせて、おじさんたちは「それじゃあこの悪形をとがめるどころか立てちゃってる」と、わたしの囲いが悪形であると指摘するのだった。

 また別の日も、その男の子と指すことになった。わたしの勝勢で、これは詰みまであるんじゃないか、というところまで来た。しかしわたしもその男の子も、「この状況は何手で詰み」と判断できるほどの知識はない。わたしが無言で盤を睨んでいると、男の子は隣で指していた支部長さんと青年に、
「これって詰みありますか」と訊ねた。支部長さんは盤面を見るなり、
「ひと目の詰みだね」と答えて、どうなれば詰みか三手詰めくらいで説明してくれた。わたしの勝利である。

 いまのところ、その男の子とわたしの棋力はそれほど大きな差はないように思えるのだが、きっとあっという間に棋力に差が開くのだろう。

 その男の子の、ひたすら強い人と勝負して勉強する、というやり方は、もう引退された棋士の森けい二先生(『けい』の漢字は特殊な漢字で、日本将棋連盟のサイトでもひらがな表記にされている)の勉強法を彷彿とさせる。

 森けい二先生は「楽しく将棋を指したいから奨励会に入った」という変わった方で、奨励会というのはとにかく熾烈な争いの繰り広げられるプロ棋士の養成機関である。とてもじゃないが「楽しく将棋を指したい」という動機で行くところではないと思う。

 その森けい二先生の若いころの勉強法というのが「指して、負けたら相手の手を覚えてそれを真似る。負けた自分の手を覚えておいて、その手はもう指さない」という、あまりにもパワフルなものなのである。まさに「才能」のなせる業だ。

 その、道場によくやってくる高校生の男の子にどれくらいの「才能」があるのかは分からないが、「才能」を上回るのは「努力する才能」であるとわたしは思う。きっとあっという間に強くなって、わたしなんか相手にならないようになるんだろうなぁと思う。

 わたしやその男の子が熱心に通っている様子を見たとあるおじさんが、
「支部長さん、この人たちこんな熱心に通ってるんだから級位も認定してあげたら?」と言っているのを聞いた。支部長さんは笑って何も言わなかったが、こういう日本将棋連盟ナントカ支部、というのの道場というのはアマ三段までは強さを認定してもらえるらしい。となれば段位にたどり着かない級位というのも認めてもらえるのだろう。

 それを聞いた時、なんだか認められたみたいで嬉しかった。

 それから、もっともっと若い人、というか子供もくる。ときどき、隣町から母親に連れられた小学生の男の子がくるのだ。歳はいっててせいぜい三年生とかそれくらいではなかろうか。その小学生は確か全国子供将棋大会に出たとか出なかったとかいう話で、めちゃくちゃ将棋が強いらしい。支部長さんも「この子は強いよ」とおっしゃっていた。

 小学生男児はわたしと高校生の男の子の将棋を見てあーでもないこーでもないと言っているおじさんたちに混じり、「この手は?」などと鋭い知性を発揮する。賢すぎて怖い。

 さらに、いつも棋士の先生が揮毫した(まあレプリカなのだろうが)扇子を持っていて、ときおりぱちぱち鳴らしているのだ。誰の揮毫なのかは確認していないが、小学生にしてはずいぶん渋いなあと思う。

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 この小学生男児は、母親だけでなく妹と一緒にやってくる。妹のほうは将棋に興味はないらしく、落ち着かない様子で母親と遊んでいる。ときどき積んである座布団によじ登ってあぶないよと注意されている。

 でもときどきその女児も、第三回で書いた「純文学のおじいさん」に、「ほれお姉ちゃんも指そう」などと誘われて(方言で女の子はみんな「お姉ちゃん」なのである)あまり興味もなさそうながら指していることもある。「純文学のおじいさん」にとって、小さな子供はみな将棋を教える対象であり、将棋はみんなが好きなもの、なのである。

 この「純文学のおじいさん」をはじめ、おじさん、おじいさんたちは、ボランティアで近所の小学校で将棋を教えたりもしているらしい。いわゆる普及である。

 そういうわけで、公民館の廊下を小学生くらいの子供さんが退屈そうに走り回っていると、おじさんたちは見ず知らずの小学生であっても和室に入れて将棋を教え始め、雑に駒を扱うと正しい扱い方を説明する。どうやら「純文学のおじいさん」に限らず、どのおじさんも頭の片隅には「将棋はみんなが好きなもの」という意識があるらしい。

 将棋、というのは、年齢に関係のない競技である。

 盤を挟めばすべてのひとが対等になる競技であり、年齢はなんの関係もない。それは、2016年の12月に、加藤一二三先生と藤井聡太先生が証明したことだ。最年長棋士と最年少棋士の戦いである。そして、加藤一二三先生も、藤井聡太先生が現れるまでは最年少デビュー記録を持っていた人なのである。

 それと同じ競技を、わたしたちは楽しんでいる。わたしみたいなアラサー女が突然公民館にやってきても、おじさんたちは熱心に教えてくれたし、それは高校生の男の子や小学生男児に対しても同じだ。

 年齢にかかわらず、楽しむこと、が一番大事である。楽しむこと、の延長線上に、強くなること、があるのだとわたしは思うのだ。楽しくなければ努力は続かないからである。

イラスト:真藤ハル

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Profile/金澤流都(かねざわるつ)
平成ヒトケタ生まれ。統合失調症を拾い高校を中退。その後ほんのちょっとアルバイトをしただけで、いまはライトノベル新人賞への投稿をしながら無職の暮らしをしている。両親と猫と暮らしている。
Twitter https://twitter.com/Ruth_Kanezawa

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