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『中国野良人大図鑑』 13億人みんなイイ顔-たくましく生きる物乞いのイノベーション-

 異国を旅していると、必ずといっていいほど物乞いと巡り合う。むしろ、自分の場合は積極的に彼らを探して歩く。なぜなら、その出会いは時として世界遺産や美しい光景より、よっぽど心に残る思い出になることもあるからである。
 物乞いとは、その国のある一部分を映し出す鏡のようなもの。救いの手を差し伸べるわけでもなく、己は単なる傍観者に過ぎないにしても、彼らの悲惨な姿から目を背けずにあえて鏡の中を覗き込むことで、見えてくる世界がきっとある…といったことを20代の頃から思い続け、物乞い観察を続けて十数年。目をつぶると今でも鮮明に思い出す殿堂入りの物乞いは、もはや数えきれないほど。というわけで本日のお題は、海外の物乞い、特にお隣中国の物乞い事情である。

<執筆者プロフィール>
●もがき三太郎
出版業界に編集者として従事する中で、やがて趣味と実益を兼ねた海外風俗遊びがライフワークとなる。現在はアジア諸国と日本を行き来しながら様々なメディアに社会問題からドラッグ事情まで、硬軟織り交ぜたリアルなルポを寄稿している。

||大国・中国の物乞い事情||

 物乞いの有り様は、国によってさまざまだ。アジアに限っても、インドのような世界一の物乞い大国もあれば、貧しいけれど「ザ・物乞い」といった風体の人は少なく、いたとしても意外に礼儀正しいミャンマーのような国もある。また、物乞いが本業ではないのに外人を見たらとりあえず「1ドルちょうだい」とか言ってくる人(もしくは子供)が少なくないカンボジアみたいな国も存在する。
 だが、こと物乞いに関していえば、中国ほど興味深い国は他にない。誤解を恐れず言えば、中国の物乞い(中国語で「乞丐(チーガイ)」)は、時代の先を行っている。道行く人に施しを乞うという行為の中に、他の国には見られない創造性を感じるのだ。世界にもし物乞いのオリンピックがあるとすれば、表彰台は間違いなく中国代表が独占するだろう。

 基本的に中国人には、見知らぬ誰かに理由なく金をくれてやるような甘さはない。それでも、北京や上海といった大都市で遭遇した物乞いの空き缶を覗き込むと、意外にも多くの小銭が入っていたりする。
 自分がこれまで見た中で最も稼いでいたのは、上海の中山公園駅で見た両手のない路上詩人である。デパートや高層マンションが立ち並び、日本人も多く住む市内一等地の路上に陣取り、手首の部分でチョークを持って一字一字に魂を込め、地面に己の境遇を漢詩のごとく綴っていた。
 屈原しかり、杜甫もまたしかり。漢詩の世界で後世に名を残したのは、多くが不遇に置かれてなお世を憂い、故郷を想って詩作に励んだ者である。両手のない路上詩人の作品が人々に読まれ続けていくかというとその可能性はゼロで、おそらく次の日には掃除のおっさんに消されてしまっただろうが、少なくとも自分の心を打った。もっと正直に言うと、一本取られた
 それは道ゆく中国人たちにとっても同様であるのか、空き缶の中は紙幣で溢れんばかり。中には100元札(中国の最高額紙幣)も混ざっていた。その金が全て彼の物となるのなら、下手な中国のホワイトカラーよりもよほどの高級取りである。しかし悲しいかな、当然ピンハネする物乞いの元締め(中国語で「丐帮(ガイバン)」)がいるのは疑いない。

||路上以外に生きる物乞い||

 出会いは、路上だけではない。今は取り締まりが厳しくなったので昔ほどではないものの、かつては地下鉄に乗ると5本に1本は必ず物乞いを見かけたものだった。お年寄りが紙コップ片手に小銭をせびる、ただそれだけの人ももちろん少なくないが、物乞い行為にも競争があり、同業他者よりも稼ごうと思えば演出勝負になる。何の気なしにフラリと乗った地下鉄で、故宮や万里の長城よりも忘れがたい物乞いと巡り合う(かもしれない)のが中国なのである。
 ある日、まぶたがめくれる遺伝性と思しき障害を持った盲目の親子がアンプを背負い、爆音と共に歌いながら手探りで車内を徘徊する姿を目にした時には、自分も思わず財布に手が伸びた。これとて当然誰かが振り付けをしているのだろうが、重いハンディキャップを逆手に取って生き抜こうとする姿はもはや神々しいほどで、歌声が心に響いた。
 と同時に、日本なら様々な保障がなされるような障害を持つ人であっても、己で稼ぐことが求められる中国という国の厳しさに改めて驚かされたのだった。

||物乞い2.0||

 中国の物乞いは世の中の移り変わりに対応し、テクノロジーを取り入れる能力にも長けている。スマホ決済が恐ろしい勢いで普及している今日において、中国人の若者は財布など持たない。よって物乞いに渡す小銭なんぞ持ち歩いていない。
 しかし物乞いサイドも首からQRコードをぶら下げていて、施しを受けられるようキャッシュレスの波に乗っているのである。むろん彼らがスマホを持っているとは考えにくく、受取主は物乞いの元締めであろうが、それでも物乞いとして世界の最先端を行っていることは事実だ。
 稼ぎを1元でも多くしようとアイデアを練り、世の中のイノベーションにも感度を高める。金のため、いや生きるためには、どんなことだろうがまずやってみる。物乞いの世界ですらこんな具合なのだから、中国のあらゆる産業で世界に先駆けたサービスや製品が生まれているのも頷ける…というと、アリババやファーウェイなどから「一緒にするな!」と怒られるかもしれないが、自分は本気でそう思っている。

||物乞いが私たちに与えてくれるもの||

 物乞いとは基本、哀れみを誘ってナンボの生業であり、非道な物乞いの元締めは障害者を集めたり、もしくはわざと障害者にした者を路上に立たせたりする。当然、その境遇は悲惨の一言に尽きる。人権とかそういった視点からすれば、とんでもないことには違いない。いや、人権についていえば、この記事自体も「ケシカラン」という人がいるのかもしれない。
 しかし、ここまで書いてきたこと、そして掲載された写真はすべて自分がこの目で見た事実。書くことをやめたからといって彼らの貧困がなくなるわけではない。それこそ都合の悪いことは表にしない中国的発想に他ならないだろう。
 中国は現在、国家を挙げて貧困撲滅に取り組んでおり、2020年にまでに「貧困ゼロ」という目標を掲げている。その高い志を否定するつもりは毛頭ないものの、なにせ総人口13億以上…土台無理な話である。とはいえ国家の最高尊厳が言い出したことゆえ「実現できませんでした」は面子上、許されない。おそらくは「貧困ゼロ達成! 万歳万歳万々歳!!」と大々的に報じて終了だろうと想像される。
 中国で生きる物乞いにとって、2020年以降は大変厳しい時代になるかもしれない。貧困撲滅を実現したはずなのに物乞いがいては、当然ながら矛盾が生じるからだ。

 中国を旅しながら物乞いに遭遇する度に、いつまで彼らを見ることができるのだろうか…と思わずにはいられない。そして、今は傍観している自分とて明日は我が身、いつ路上で人様の施しに頼って生きるようになるか分からないと心に刻まねばならぬ。
 生まれ持って物乞いを目指す人は、おそらく地上に存在しない。自分が日本人として健康な身体で生まれたのは全くの偶然であり、そこに己の意志が介在する余地はない。もし突然路頭に迷ったその時、自分は彼らのようにたくましく生き延びることができるのだろうか。

 読者諸兄におかれては、ぜひそのようなことにも思いを馳せつつ、この中国野良人大図鑑をご覧いただければ幸甚の極みである。

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