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ぼくの田舎「長岡」の話。花火の曲線が亡き人の御霊と重なる。 #母への詫び状 第6回・7回

介護で見つかる幸福もある。
BEST T!MESで好評連載中の「母への詫び状」第1回から第10回をnoteで再掲します。今回は第6回、7回の2本。介護で戻ることになった故郷「長岡」に思いを馳せる。花火、ジュピター、思い出す母のこと。

↑第5回はコチラ。

〈第6回〉直径10センチの三尺玉

 うちの実家がある新潟県長岡市という町について、いくらか紹介しておきたい。

 長岡は花火で有名な町だ。毎年、8月2日と3日に夏まつりの大花火大会が行われ、今や来場者は2日間で100万人を超える。

 三尺玉やフェニックスなどの大型プログラムが並び、近年はNHKやインターネットで生中継されるようになって、全国的な知名度も上がった。地元の人間は「おらんとこの花火が日本一だ」と胸を張る。

 ただし、そう自慢する人に、じゃあ大曲の花火大会は見に行ったか、土浦はどうだと聞いてみると、たいていは行ったことがない。

 地元で日本一の花火が見られるのに、なじょして(=なぜ)よその県まで見に行く必要があるのかと思っているので、長岡市民の多くは他県の有名な花火を現地観覧した経験がない。それでも「おらんとこが日本一」と、迷いなく言い切るのである。

 長岡の花火が他の有名な花火大会と異なるのは、毎年、日にちが決まっていて、曜日がズレるところだ。

 大きな花火大会はほとんど土曜か日曜と決まっている。観光客が来やすいように、カレンダーに合わせて日程が定められる。

 ところが長岡の花火は曜日に関係なく、毎年8月の2日と3日。観光客を集めることを優先するなら、土日の開催にしたほうがいいに決まっているのに、なぜそうしないのか。

慰霊の花火

 それは長岡の花火が、慰霊の花火だからだ。

 昭和20年8月1日。長岡の夜空に米軍のB29が襲来し、2時間近くに渡って市街地が爆撃にさらされた。この空襲で長岡は焼け野原となり、1486名の命が失われた。

 戦禍のどん底から立ち上がるべく、1年後の昭和21年8月1日に開催されたのが、長岡まつりの前身の長岡復興祭だった。

 だから長岡まつりは今も、それが何曜日だろうと8月1日に始まり、空襲と同じ時刻にささやかな慰霊の尺玉(10号玉)が打ち上げられた後、2日と3日に大掛かりな花火大会が開かれる。

 もう70年以上も前の空襲。

 今の長岡花火を楽しむ100万人に、そんな昔の悲しい話を持ち出したところで誰の得にもならないのかも知れない。「戦争を重ねている人は、もう地元民にも減っただろう」という声もある。  

 しかし、それは違う。ぼくの母の母も、昭和20年の空襲で命を落とした1486人のうちの、ひとりだった。

 母は昭和9年生まれ、当時11歳。きょうだいは5人いた。ぼくのおばあちゃんにあたる人は、幼い子供を5人残して、戦争の犠牲になった。

 そんな家庭環境だったから、長岡の花火は慰霊目的という大切な根っこは子供の頃に刷り込まれていたし、8月1日の夜に「白菊」という白一色の追悼花火の音が聞こえると、母は毎年決まって「この花火は空襲が始まった時間に打ち上げられるんだよ」と、繰り返し教えてくれた。

 それでも、母は花火が好きだった。

もっと一緒に花火を見ておけばよかった

 うちは信濃川の打ち上げ会場から3、4キロ離れていたから、近所の土手で“音が遅れて聞こえてくる小さめの花火”を建物越しに見るか、打ち上げ会場まで出かけて大きな花火を間近で見るか。2つの選択肢があった。

 河川敷の打ち上げ会場まで出かけると、帰り道が長い徒歩の道のりになるため、子供の頃のぼくは一度それでグズった。中学や高校に上がると、花火なんてどうでもいいよと、見もしない年もあった。

 今思えば、もったいないことをしてしまったと悔やまれる。あの頃もっと率先して、ぼくが会場まで見に行きたがっていれば、父や母や兄弟も揃って日本一の花火を至近距離で楽しむ回数が増えていただろうに、面倒くさがって近所の土手で済ませたことが多々あった。十代の二郎少年は、地元の花火の価値がわかっていなかった。

 わがままな子供たちから解放され、夫婦ふたりで暮らすようになってからの母は、父と連れ立って信濃川の河川敷までたびたび出かけていくようになった。

 どんな目で花火を見ていたのか。そこに空襲で亡くなった母親を重ねていたのかは、よくわからない。単純にきれいなものが好きだっただけなのかな。

「あんたは河川敷まで見に行ってこいね」 
 母が病気になって以降、花火まつりはテレビで見るものに変わった。

「わたしはうちでテレビ見てるから、あんたは河川敷まで見に行ってこいね」なんて母は言ったけど、そんなことできるわけない。

 開花直径600メートルの三尺玉は液晶画面の中に収まり、遅れて響くドーンという大きな音だけが、この町で打ち上げられている現実感を与えてくれた。

 一度、入院中の病院の小さなテレビで、花火中継をいっしょに見た思い出がある。この頃の母は体を起こすことさえ許されず、半年近く、病院のベッドで寝たきりの生活を送っていた。ぼくも病院に通いつめて食事の介助をするなど、一番大変だった時期だ。

 画面の中の直径10センチの三尺玉を見ながら、母とどんな話をしたのか、記憶を手繰っても何も思い出せない。でも、ベッドの上で首だけ横に向けて、じっと小さなテレビを見つめていた母の横顔だけは今もよく覚えている。

〈第7回〉「ジュピター」から思う数知れぬ人々の魂

長岡のテーマソング「ジュピター」

 TBSのドラマ『陸王』を観ていたら、挿入歌で「ジュピター」が流れてきた。歌っているのはリトグリ(Little Glee Monster)。2004年に平原綾香が日本語の歌詞をつけてヒットさせたクラシック曲のカバーだ。

 この「ジュピター」、うちの田舎の新潟県長岡市では特別な意味を持つ歌である。以前、母とぼくのケータイの着メロが同じ曲でぎょっとしたと書いたが、それが「ジュピター」だった。

 ただし、着メロの一致は“親子ゆえのシンクロニシティ”などではないと、あとでわかった。父のケアマネージャー(介護支援の専門家)の着メロも、母の友達の着メロも、みんな同じ。あっちでも、こっちでも、電話がかかってくると高頻度で「ジュピター」が流れる。長岡という町のテーマソングと呼んでもいい。

 なぜ、そうなったのか。これには地震と花火が関係している。

 2004年10月、マグニチュード6.8の新潟県中越地震が起こった。震源地の川口町(現・長岡市)では最大震度7を観測するなど、甚大な被害をもたらした大地震だ。土砂崩れで埋まった車から男の子が救出されたニュースや、新幹線が脱線した映像などを覚えている人も多いだろう。

 うちの家でも、テレビが吹っ飛び、窓ガラスが割れ、母が大事にしていた高価な茶碗もいくつかダメになった。あの地震以来、まともに開かなくなった戸やふすまがある。

 父にも悪影響があった。「おとうちゃんの認知症、地震の後に急に進んだみたいなんだて」と、母がいつか話していた。精神的なショックが大きかったのか。

 大地震の翌年、長岡まつりの花火大会で「フェニックス」という復興祈願の超大型スターマインが打ち上げられた。この花火には音楽が付けられていて、それが平原綾香さんの歌う「ジュピター」だった。

 初めて披露された音楽と融合した花火に、地元民の95%が感動のあまり涙をこらえきれなかったという都市伝説が残っている。災害に立ち向かう意志を示した大掛かりな花火と、それに合わせて流れる歌声が、大地震で弱ってしまった長岡市民の心に突き刺さった。

地震の記憶が蘇る

 フェニックスに「ジュピター」が使われたのは、中越地震の直後、この歌が地元のラジオ局に多数リクエストされたことが背景にある。アメリカの911の後は、エンヤのCDが癒やしの歌として売り上げを伸ばしたと聞くが、長岡では被災者を勇気づける曲として「ジュピター」が選ばれ、町を包んだ。そしてそれが花火にも引き継がれた。

 だから長岡の人間は「♪エヴリデイ~」という歌い出しを聞くだけで、中越地震にまつわる諸々の記憶や、そこから立ち上がろうとした誓い、願い、祈り、さまざまな感情がいっせいにこみ上げてくる。

 フェニックスはその後も、長岡花火の目玉プログラムとなり、規模を拡大しながら打ち上げが続いている。当初は10年で終わりとされたが、10年たった今も、横幅2キロメートルに渡って、壮大な絵巻が夏の夜空に描かれる。

 ちなみにフェニックスという名前は、花火の内容にも反映されている。一連のスターマインの最後に、手塚治虫の「火の鳥」に出てくるような、金色の不死鳥の模様が浮き上がるのだ。ドン、ドン、ドドンドン! と、尺玉が連発されたラストに、きらりーんと何羽もの不死鳥(=フェニックス)が翼を広げて夜空に飛ぶ。

いくつもの曲導が死者の御魂(みたま)に見える

 フェニックスが人の心を打つ理由は、ほかにもある。

 いくつもの曲導が死者の御魂(みたま)に見えることも、涙腺をくすぐる理由になっている気がしてならない。

 花火を打ち上げる際、下からしゅるるるる~と、白い線が夜空に昇っていく、あのイントロ部分を「曲導」と呼ぶ。色は白に限らないが、「昇り曲導つき八重芯変化菊」などというふうに使う。

 フェニックスには、白い曲導がしゅるるるる~、しゅるるるる~と、左から順番に、横一列に上がっていくパートがある。

 ひとつ、またひとつと、夜空へ向かって昇る白い火の玉。ごく平均的な死生観を持った日本人なら、そこに死者の存在を重ねる。旅立った人の魂が天に召されてゆく隠喩として、その光景を受け止める。

 母が亡くなった後、ひとりで見たフェニックスは、最後に飛ぶ不死鳥よりも、空に昇っていった白い御魂の残像がいつまでも焼き付いて消えなかった。

文:夕暮 二郎(ゆうぐれ じろう)
昭和37年生まれ。花火で有名な新潟県長岡市に育つ。フリーの編集者兼ライターとして活動し、両親の病気を受けて帰郷。6年間の介護生活を経験する。ツイッター https://twitter.com/yugure1962

※最新回はBEST T!MESをチェックしてみてください。〈隔週木曜更新〉


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