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捨てられなくなった「文字の大きな地図帳」 #母への詫び状 第3回

介護で見つかる幸福もある。
BEST T!MESで好評連載中の「母への詫び状」第1回から第10回をnoteで再掲します。今回は第3回。フィギュアスケート好きの母との会話から、衝撃の事実が判明して…。 

第2回はコチラ↑

ソ連がのっていた地図帳 

 母に新しい「地図帳」を買ってあげることにした。

 母はクイズ番組を見るのが好きで、テレビの脇にはいつも地図帳が置いてあった。知らない地名が出てくると、すぐにその地図帳を取り出して調べ始める。知らないことをそのままにしておけない性分なのだ。

 しかし、母の地図帳はすごく古かった。10年前か、20年前か、中学校の社会科の教材として使用されていた地図帳。うちは父も母も教師だったから、職場から余った教材をもらってきたのだろうか。

 その年代物っぷりに気付かされたのは、旧ユーゴスラビアの話題が出たときだ。 

 カタリーナ・ビットがキッカケだったと思う。フィギュアスケートのファンなら知っているだろう。カタリーナ・ビットは東ドイツ出身の有名なフィギュアスケート選手。1984年のサラエボ五輪と88年のカルガリー五輪で、連続して女子シングルスの金メダルを獲得。銀盤の女王として一時代を築いた。

 母はフィギュアスケートが大好きで、グランプリ・シリーズなどの国際大会の中継は欠かさずに見ていた。お気に入りの高橋大輔の演技は、いつもハラハラ見守るように手を合わせて応援していたし、NHKの「オリンピック名場面」のような番組もよく見ていた。

 そんなフィギュアスケートのなつかしの名場面には必ず、ビットの「花はどこへ行った」の演技が流される。かつて金メダルに輝いたサラエボの地がその後、紛争に巻き込まれ、街が破壊されてしまったことへの抗議を込めた反戦メッセージのプログラムだ。

 すると、ビットの演技を見ていた母がぼそっとつぶやいた。
「サラエボとかコソボとか、この辺のことは全然わからないんだて」
 地図帳をテレビの脇から取り出しながら続ける。
「この地図見ても、ちょっと古いせいだろうかね、今の国の名前が載ってなくて」

 母の地図帳を借りて、旧ユーゴの近辺を確かめてみたら、度肝を抜かれた。ちょっと古いなんてもんじゃない。

 地図にはユーゴスラビアという連邦国が記載され、スロベニアやクロアチアも、セルビアやモンテネグロもまだ同じ国だった。それどころか、ほんの少し目を移せば、まだ巨大なソビエト連邦が存在していた。

「これ、いつの地図だよ! ソ連があるよ!」

 国の名前や国境というものは、時代時代の歴史の流れの中で、激しく変わっていく。ユーゴスラビア連邦共和国やソビエト連邦が解体されたのは1991年。母はこの地図帳をそれ以前から使い続けてきたことになる。

 21世紀の今となれば、ユーゴやソ連が載っている世界地図帳なんて、骨董品としてヤフー・オークションや『なんでも鑑定団』に出せるかもしれない。シャレのわかる鑑定士なら「世界の激動の歴史を学べる地図帳」として、3000円くらいの値を付けてくれるだろう。

 これではまずい。新しい地図帳を買ってあげなくてはならない。

 そう思って、ネットのブックショップを調べてみた。実家に帰ってきてからは、本や雑誌の買い物はすべてネット頼みだ。

止まっていた世界の歴史が、一気に20年以上進んだ。「大きな文字の地図帳」

 はたして中学や高校の教材で使うタイプの地図帳が、市販されているのかと手探りだったが、予想以上にいろんな地図帳が売られていた。なかでも興味を惹かれたのがこの本だった。

「ルーペ付 大きな文字の地図帳」(帝国書院)1800円(税別)

 文字の大きさを売りにした地図帳だ。なるほど、そんな地図帳まであるのか。さすがは高齢大国ニッポン。お年寄り向けの商品が充実している。老眼の年齢になっても勉強熱心な人がたくさんいるということか。さっそくポチっと購入してみた。

 数日して商品が届いた。結論から言うと、この地図帳は当たりだった。母に渡してあげると、「いいねえ。字が大きくて、見やすいねえ」と、第一声から好感触。目を輝かせ、ページをめくっている。

「ルーペ付」のルーペとは、平たいシートタイプの拡大レンズだった。これがまた手頃で、しおり代わりにも使える。

 ぼくもパラパラとながめてみたところ、確かに見やすい。文字が大きいだけではなく、地図の縮尺も大きいようだった。だから通常の「北ヨーロッパ」や「中東」といった、ざっくりした区分ではなく、「スカンディナヴィア半島」とか「ペルシア湾周辺」という、よりズームアップした区分になっていて、全体的に迫力のある地図帳ができあがっている。

 カタリーナ・ビットが嘆き、哀しんだサラエボも、ちゃんとボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都として掲載されている。止まっていた世界の歴史が、一気に20年以上進んだ。

 その日以降も、文字の大きな地図帳は順調に、母の活用アイテムになった。

 世界地図だけでなく、日本地図も大きめの縮尺で掲載されており、京都や奈良のお寺の名前が網羅されているところも、母のお気に入りのようだった。

 母は旅行が好きで、元気な頃は京都のお寺巡りなどによく出かけていた。地図を見ながら、旅の思い出をたぐっていたのだろうか。
         *
 こんなに気に入ってもらえるなら、もっと早く買ってあげれば良かったな。
 あらためてそう思ったのは、母の遺品整理をしていて、この地図帳がベッドの下から出てきたときだ。

 寝ている間に、ベッドの脇の隙間から滑り落ちてしまったのだろう。気付いていれば拾ってあげたのに、一体いつから落ちていたのか。

 母が最後に活用した「文字の大きな地図帳」は今、東京のぼくの部屋にある。ニュースやクイズ番組でわからない地名が出てきたときに、すぐ調べられるよう、テレビの脇に置いてある。

 ぼくもいよいよ老眼に悩まされるようになった。先日、新しく作ったメガネはついに遠近両用だ。

 おかげで今は、文字の大きな地図帳がとてもありがたい。母のために買ってあげたものが、こうして自分の役に立つなんて。

 どうせなら、この地図帳をボロボロになるまで使い込んでやろうと思っている。もしも今後どこかの国が分裂して、国境が変わっても、もうこの地図帳は捨てられない。

文:夕暮 二郎(ゆうぐれ じろう)
昭和37年生まれ。花火で有名な新潟県長岡市に育つ。フリーの編集者兼ライターとして活動し、両親の病気を受けて帰郷。6年間の介護生活を経験する。ツイッター https://twitter.com/yugure1962

※最新回はBEST T!MESをチェックしてみてください。〈隔週木曜更新〉


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