【医療ミステリー】裏切りのメスー第32回ー
【前回までのあらすじ】
安井会グループ・安井芳次理事長襲撃事件の主犯とみられる尾方肇を追う埼玉県警の湯本利晴刑事は、彼と行動を共にしていた中国人少女ジャイーの養母にコンタクトをとった。養母との話の中で、ジャイーが尾方と会ったお店の名刺を手に入れ、聞き込みに向かった。そのスナックのママから、尾方の住むマンションを聞き出し、現場に向かったのだった。
陰謀渦巻く病院ビジネスを舞台とした【医療ミステリー】連載。毎週火曜日更新!
-著者プロフィール-
●田中幾太郎/ジャーナリスト
1958年、東京都生まれ。『週刊現代』記者を経てフリー。医療、企業問題を中心に執筆。著書は最新刊として『歯医者のホントの話』(KKベストセラーズ)、その他にも『本当に良い病院 悪い病院』『三菱財閥最強の秘密』(以上、宝島社新書)、『日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊/本日より時間外・退職金なし』(光文社)など多数。
<静かな逮捕劇>
「スナックのママに教えられたマンションに行ってみると、郵便受けのひとつに『尾方』とあったのです。その界隈ではヤマガタと名乗っているのに、頭隠して尻隠さずというか、切れ者の尾方肇としてはちょっと間が抜けている気がしました」
湯本利晴刑事は尾方逮捕の前夜のことをこう振り返る。尾方がたびたび訪れていたスナックがある中野の雑居ビルから3分ほどのところに、その賃貸マンションはあった。築20年4階建て、25戸ほどの小規模マンションだ。その3階に尾方は住んでいた。エレベーターはなかった。
尾方が自分の名前をそのまま、郵便受けに掲示していたのは、契約の際に見せた運転免許証と違う名前を使うのはまずいと思ったからだろう。管理人に不審がられるのは避けたかったに違いない。
「もうひとつ理由があったのでは」と言ったのは安井中央病院の事務長、蒔田直也だった。チーム小倉の頭脳とも呼べる男である。分析力は誰にもまして鋭い。
「尾方は逃げ回っていてもしかたないと考えたのではないでしょうか。この際、一度捕まって、再度、出直しを図るほうが得策と判断したのだと思います」
「といっても、殺人未遂の教唆となれば、すぐには出てこれないんじゃないか」と口を挟んだのは私だ。
「そうかもしれませんが、このままではらちが明かないのも事実。刑務所の中で充電しながら、じっくり次の計画を練る腹ではないでしょうか」
蒔田の言葉に、湯本刑事は大きくうなづいた。
「たしかに、このまま逃亡を続けていても、尾方は何もできない。周囲の環境も激変しているのです。鈴代組のナンバー2で、尾方の一番の理解者である木村恭二郎は逮捕されている。鈴代組の内部もガタガタになっていて、たとえ警察に追われていなくても、次の病院乗っ取りに動くことはきわめて難しい情勢です。だったら、いまは雌伏のときとあきらめ、我々警察の軍門に下ろうと、奴が考えてもおかしくなかった」
尾方の部屋の窓から光が洩れているのをマンションの外から確認した湯本は自身の警察署に連絡。明朝、刑事4人を中野に寄越すように手配した。マンションの構造上、逃げるルートはなく、自分を含め5人で十分と踏んだのだ。
湯本は近くのビジネスホテルに宿を取り、500mlの缶ビールを1本だけ飲むと、布団に潜り込んだ。どこでもすぐに寝られるのが湯本の特技だった。
翌朝6時半、尾方のマンションの前に集まった刑事たちと打ち合わせをした。といっても、それほど綿密な段取りは必要なさそうだった。オートロックだったら、管理人を呼んで、いろいろ説明して開けてもらわなければならなかったが、その必要もなかった。
「7時に尾方の部屋のベルを鳴らし、インターホン越しに警察を名乗ったら、『そうか』と言って、あっさり出てきた。抵抗することもなく、我々が用意した警察車両のハイエースにそのまま乗り込んだんです」
周囲の住民も、このマンションで何かあったのか、まったく気づかなかっただろう。あまりに静かな逮捕劇だった。
<狐と狸の化かし合い>
午前9時すぎに埼玉県北部の警察署に到着すると、写真撮影と指紋採取のあと、さっそく取り調べが始まった。その17日前に逮捕された木村恭二郎は当初から完黙を続け、雑談にもまったく応じていなかったが、対照的に尾方はよく喋った。
病院乗っ取りはある意味、喋りがすべてである。医師のプライドをくすぐりながら、相手の弱みにつけ込んでいくのだ。尾方はホストクラブでアルバイトをしていた時代に、話術が磨かれていったのだろう。さらに、鈴代組の企業舎弟となり、木村恭二郎に金融の世界のさまざまなノウハウを叩き込まれた。話術というのは単にテクニックだけでなく、相手に合わせた知識も欠かせない。尾方は元医学部生としての専門性を生かしながら、資金を調達したい病院経営者を言葉巧みに落としていったのである。
わがチーム小倉の蒔田もたぐいまれなプレゼンテーション力を持っている。大学のディベートサークルで鍛えられた面もあるが、やはり、豊富な知識がその能力を数倍にも押し上げている。
取調室で湯本は、尾方の弁舌をより滑らかにするべく、医療の話題に積極的に触れるようにしていた。
「刑事になったばかりのころ、護衛のために半年間も安井芳次に密着していましたからね。まだ、安井も50歳になる前でバイタリティもすごかった。病院をどうやって運営するのか、間近で見ることができたので、医療界の知識も自然と頭にインプットされていきました。おかげで、尾方の好みそうな話題をいくらでも振ることができたんです」
30代そこそこだった湯本が安井会グループの創設者である医師・安井芳次の護衛に当たることになったのは、病院進出によって出店計画を潰されたパチンコチェーンのオーナーから殺人指令が出されたからだった。そのオーナーが逮捕され、護衛業務から外れたあとも、十数年にわたって湯本と安井の交流は続いていた。
その安井を襲った尾方を目の前にしながらも、湯本は冷静だった。尾方が実行犯の鹿間凌に襲撃を指示したのかどうか、それが殺すことを意図したものかどうかが焦点である。湯本は当時、顕在化し始めていた医療崩壊を話題にして、本当なら医師になっていたはずの尾方の虚栄心を満たしながら、事件への関与を引き出そうとしていた。
「雑談には応じても、事件のことになると口を閉ざしてしまう容疑者が少なくないのですが、尾方はそういうタイプとは違った。安井襲撃に関しても、知らぬ存ぜぬを通すのではなく、事件のあとに話は聞いたと、こちらの振りに乗ってくる。ある意味、サービス精神が旺盛なんです」
だが、核心部分について、尾方が言質をとられるようなヘマをすることはなかった。狐と狸の化かし合いのごとく、とりあえず相手の土俵に乗りながら、際どく俵の上に踏みとどまるのである。
自発的供述をとれない以上、湯本も奥の手を出すしかなかった。鹿間が安井を襲う前、何度も尾方と連絡をとっていたことをぶつけたのである。
「鹿間が持っていた携帯にも、あなたとたびたび連絡をとりあった履歴が残っている。しかも、犯行直前にも鹿間はあなたから『しっかりやってこい』と言われたと供述している。安井を襲えと命じた証拠だ」
この湯本の言葉を、尾方は真っ向から否定した。
「僕は鹿間が安井先生を襲おうとしていたなんて、まったく知らなかった。急に連絡をとりだしたわけではなく、普段から奴とはよく話をしていた。僕のことを慕っていたからね。しっかりやってこいというようなことを言ったかもしれないが、それは奴がやっているベルファイナンスでの取り立てを頑張れという意味ですよ」
「犯行後、鹿間は熊谷から新宿まで出て、歌舞伎町のネットカフェであなたと会っていますよね。安井襲撃の労をねぎらったんでしょ」
「それも違う。僕はかつてのホスト仲間で、いまは実業家になっている男とビジネスの話をするために、新宿に来ていたんだ。すると、鹿間から会いたいと連絡が入って、ネットカフェで落ち合ったにすぎない。そのとき初めて、奴が安井先生を襲ったことも知ったんだ」
<軽くなった罪状>
結局、湯本は尾方から自白を引き出すことはできなかった。しかし、状況証拠は揃っていたので、尾方が殺人未遂で起訴されるのは確実と湯本は自信を持っていた。実行犯の鹿間と、教唆の木村恭二郎はいずれも、殺人未遂や銃刀法違反などで、尾方に先立って起訴されていた。
「ところが、検察から尾方に送られてきた起訴通知書には罪名が『傷害罪』としか記されていなかったのです。鹿間や木村が殺人未遂なのになぜと思い、知り合いの検察官にたずねたところ、たぶん彼らも傷害罪に訴因変更されるだろうと言っていました」
チーム小倉のメンバーの前でこう語った湯本は少し悔しそうな顔をした。
「鹿間は木村から拳銃を渡されていますが、実際に使うことはなかった。『安井をやれ』と渡されたと当初は言っていた鹿間ですが、検察官に対し、護身用にあずかったものだと供述をひるがえしているんです。拳銃を使おうとしていたとなると、不利になると考えたのでしょう。結局、ゴルフクラブで安井の頭を殴っているわけですが、検察官はそれでも殺人未遂は十分に成立すると当初は見ていたのです」
それが尾方を起訴する段になって、なぜ傷害罪に変わったのか。
「安井が社会生活に復帰したことが大きかったのです。殺意があったのなら、もっと徹底的に殴り、命を落とさないまでも、かなりの痛手を負っていないとおかしい。なのに、安井は2週間足らずで医療現場に戻っている。検察は殺人未遂で公判を維持するのは難しいという判断に傾いたようです。もっとも、傷害罪だって15年以下の懲役なのですから、重罪であることには変わりないのですが」
安井会グループ現理事長の小倉明俊になりすます天才脳外科医・吉元竜馬の見事な手技が尾方の罪を軽くすることになろうとは皮肉だった。
(つづく)
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