【医療ミステリー】 裏切りのメス─第2回─
【前回までのあらすじ】
病院再建屋として世間に知られる存在の「下川亨」。彼と知遇を得たルポライターはある日、「君の好きなように使っていい」と数冊のノートを手渡される。そのノートは、下川と天才外科医・吉元竜馬との出会いから始まっていた……。
陰謀渦巻く病院ビジネスを舞台とした【医療ミステリー】連載。毎週火曜日更新!
-著者プロフィール-
●田中幾太郎/ジャーナリスト
1958年、東京都生まれ。『週刊現代』記者を経てフリー。医療、企業問題を中心に執筆。著書は『本当に良い病院 悪い病院』『三菱財閥最強の秘密』(以上、宝島社新書)、『日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊/本日より時間外・退職金なし』(光文社)ほか多数。
<フォルトゥナの前髪>
私が屋上の運動場に行こうとすると、雑居房で仲良くなった70代の男は「冬の戸外運動はからだにこたえるからな」と部屋に残った。何度も東京拘置所に入っているベテランだ。この季節になると、無銭飲食をして留置場→拘置所→刑務所というのがお決まりのコース。宿無しのこの男は寒さを凌ぐために、警察と法務省が用意してくれた施設を宿泊所代わりに利用しているのだ。
彼の無銭飲食の話がとにかく面白い。食い逃げといっても実際に逃げるようなことはなく、そのまま店でおとなしく警官が来るのを待つのが常だった。捕まるのが目的だから当然なのだが、店ではこのときとばかり遠慮なく豪勢なものばかりを頼むのである。
一着だけ持っている英国仕立てのスーツを着て何食わぬ顔で店に入り、メニューを一瞥したあと、一番高い料理やコースを注文する。前菜、ツバメの巣のスープ、フカヒレの姿煮、アワビのオイスターソース煮と続く中華のフルコース、フレンチのA5ランクの神戸牛フィレステーキ、割烹の大間マグロの大トロ握り……。どのエピソードを聞いていても、口の中いっぱいによだれがあふれ出してくる。
ただ、拘置所生活も1週間がすぎ、この男の話にも少々飽きてきた。戸外運動の時間に運動場に行くかどうかは、入所者自身が決められる。まだ寒波は続いていたが、久しぶりに外気に触れたくなり、その日は思い切って運動場に出てみることにした。これが私の運命を変えるきっかけになるとは思いもよらなかった。
寒空の中、運動場の片隅でうずくまっている男が一瞬、顔を上げたとき、私は気持ちが高ぶるのを抑えられなかった。うつろな目をしていたが、ここ数年、脳外科医として名声をほしいままにしている吉元竜馬であるのは間違いなかった。医療コンサルタントという職業柄、病院や医師の動向に関する情報を収集していたおかげで、すぐにわかった。医療関連サイトでも彼のことは記事や動画でこぞって取り上げ、ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画に出てくる男優のような繊細な顔立ちをよく覚えていたのだ。記憶では、私より10歳近く下のはずだった。彼の前に行き、声をかけた。
「吉元先生ですよね」
彼はぎょっとしたような表情を見せたあと、かすかにうなづいた。私は自分の素性を話しながら、「あなたのファンなんです」とつけ加えた。まだこのときは目の前の外科医をどうかする気持ちはなかったが、近づいておけば何かに役に立つだろうという計算が働いていた。開業医を相手に小銭を稼ぐだけのぱっとしない医療コンサルタントで終わるつもりはなかった。もっとダイナミズムを満喫できる仕事がしたい。私に大きなチャンスが訪れているような気がしていた。
<神の手を持つ男>
脳外科の世界では天才外科医と呼ばれる医師が数多くいる。スーパードクター、神の手、凄腕など、さまざま形容で称賛されるが、そのほとんどはこけおどしだ。病院が営業成績を上げるために、うちにはこんな名医がいますと発信し、それにメディアが踊らされているのが実情なのである。だが、吉元は正真正銘の天才外科医だった。
彼の名を高めたのは脳腫瘍の分野だった。得意とするのは脳組織そのものにできる悪性腫瘍グリオーマの手術。このがんは周辺組織に染み込むように増殖し、正常細胞との境がはっきりしないため、手術では非常に高度な手技が要求される。腫瘍を多くとり残すと進行が早まる。その一方、腫瘍をしっかりとり切ろうとすると、脳を傷つけて言語や運動機能にさまざまな障害が出てしまう。そのジレンマをどう乗り越えるかが悩ましいのである。執刀に当たる医師には手技の確かさに加え、繊細さと大胆さを同時に発揮できる心の強さが求められるのだ。
グリオーマのグレード3の5年生存率は30%台。グレード4にいたっては数%にすぎない。だが、吉元はグレード3では90%、グレード4でも30%を超える驚異的な実績を残してきた。グレード3の場合、彼が執刀すれば、腫瘍のとり残しがほとんどなく、術後の放射線や抗がん剤による治療も通常よりも少なくて済んだ。まさに神の手という形容に値した。
吉元に一生懸命話しかけたものの、反応は薄かった。塀の外に出た際にこの天才をどう活かせばいいのかはまだわからなかったが、せっかくの機会を逃してはならないと、私の本能が反応していた。翌日からも戸外運動の時間には必ず、運動場に出ようと心に決めた。
拘置所では月曜から金曜まで毎日30分ほど、戸外運動の時間が設けられていた。寒さは相変わらずだったが、吉元も欠かさず運動場に姿を見せていた。雑居房の入所者の中に反社会的勢力の男がいて、乱暴な喋り方で周囲を威圧するので、少しでも顔を合わす時間を減らしたかったらしい。私が繰り返し話しかけているうち、吉元も次第に心を開くようになっていった。頃合いをみて、最大の疑問である、なぜここにいるのかをたずねた。
「教授にはめられたんです」と抑揚のない声で吉元は呟いた。それが何を意味するのか、最初はよくわからなかった。彼が断片的にしか話さないためだ。その全容が浮かび上がってくるのは、それから10日がすぎたころだった。
<教授の嫉妬>
吉元は首都圏にある大学病院の脳神経外科に在籍していた。医学部を卒業すると、その付属病院で2年間の初期研修を受け、3年目から後期研修期間に入ると、脳外科医としての素質を早くも見せ始める。その手技の見事さは誰の目にも明らかで、まもなく介助医から執刀医に引き上げられた。30歳になるころには「脳神経外科のエース」との声が病院内だけでなく、関連する学会などからもちらほらと聞こえてくるようになった。
「もてはやされるのは嬉しかったんですが、それほどいい気になっていたわけでもないんです。やっかみも多い世界であることはわかっていたので、浮き足立たないように相当、気をつけていたつもりでした」
にもかかわらず、脳神経外科の医局内では微妙な立場に立たされていた。大学病院の各医局では教授を頂点とする強固なヒエラルキーが築かれている。准教授、講師、助教、研修医と続くピラミッド構造の中で、トップに君臨する教授が人事や研究費の分配などの決定権を一手に握っている。
「僕は10人近くいる助教のひとりにすぎませんでした。そんな下っ端が時代の寵児みたいに扱われるのは、上の先生たちからすれば面白くなかったに違いありません。医局内の雰囲気はだんだん悪くなり、しまいには教授からも疎まれるようになっていったのです」
この教授もかつては天才外科医と持ち上げられた人物だった。だが、すでに60歳近くになり、自らメスを握ることもなくなっていた。外科の中でもとりわけハードとされる心臓外科や脳外科はピークが短い。経験を積んで技術が磨かれ、肉体的にも長い手術に耐えられる30代終わりから40代半ばまでが外科医として一番、脂が乗っている時期だ。
若手の吉元が30歳そこそこで脳外科医として頂上まで登りつめたのは天性の才能を備えていたからにほかならない。自身の医局からたぐいまれに見る外科医を輩出したことは誇るべき話なのに、教授はそうではなかった。外科医としては引退状態であるにもかかわらず、20歳以上も年の離れた弟子に対抗意識を燃やしたのだ。吉元の名声が上がれば上がるほど、教授の嫉妬の炎は大きくなっていった。
「もはや、医局に残るべきではなかったのでしょう。しかし、教授がそこまで僕を憎悪していたとは気づかなかったのです」
教授が打って出た手段はあまりにも悪辣だった。ひそかに吉元を犯罪者に仕立て上げる算段をしていたのである。
(つづく)
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