【医療ミステリー】裏切りのメス―第38回―
【前回までのあらすじ】
「チーム小倉」の蒔田直也と白木みさおが不審死した事件で、リーダーの下川亨とチームの一員であり妻の佐久間君代は警察で事情聴取を受けた。聴取を行ったチーム小倉の湯本利晴の後輩、佐山翔刑事から警察も事件性があると考えていることを聞かされる。
その晩、湯本と落ち合った下川はより詳しく警察の見解を聞くことができ、より殺された可能性が高いことを知ることとなった。下川の胸には約4年前にチーム小倉の前に現れた尾方肇の姿が浮かんでいた。
陰謀渦巻く病院ビジネスを舞台とした【医療ミステリー】連載。毎週火曜日更新!
-著者プロフィール-
●田中幾太郎/ジャーナリスト
1958年、東京都生まれ。『週刊現代』記者を経てフリー。医療、企業問題を中心に執筆。著書は最新刊として『歯医者のホントの話』(KKベストセラーズ)、その他にも『本当に良い病院 悪い病院』『三菱財閥最強の秘密』(以上、宝島社新書)、『日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊/本日より時間外・退職金なし』(光文社)など多数。
<尾方肇の所在>
「尾方肇はまだ、刑務所の中ですか」
私の質問に、埼玉県警所轄署の刑事だった湯本利晴は「あっ」という顔をした。
「すみません、確認していません。正直、僕の頭から尾方の名前は抜け落ちていました。そうか、奴が狙う可能性もあるわけだ。刑務所の外に出ていればの話ですが」
病院乗っ取り屋集団「HOグループ」のリーダーの尾方が湯本の手によって逮捕されたのはいまから3年8ヵ月前、2013年5月27日のことである。取り調べにあたった湯本は殺人未遂での立件を目指していたが、検察が起訴した罪名は傷害罪。地裁で尾方側の弁護士は争う姿勢を見せず、半年後に懲役4年のスピード判決が出て、検察も被告も控訴せず、そのまま確定した。
「安井会グループを乗っ取る寸前までいきながら、最後はチーム小倉に持っていかれたわけだから、尾方は相当、私たちを恨んでいるだろうな。もっとも、最初にグループ総帥の安井芳次と接触したのはこちらなんですがね」
「尾方がチーム小倉を逆恨みしている可能性は十分考えられます。実際、安井さんを子分の鹿間凌に襲わせているわけですから。自業自得とはいえ、そのせいで刑務所に入る羽目にもなった。元をただせば、自身が進めてきた案件をチーム小倉に横取りされたからだと、塀の中で怒りが増幅していき、復讐を誓ったとも考えられなくもない。自分本位の勝手な理屈ですが、尾方には元国立大医学部生とは思えないような凶暴なところがある」
湯本がこう指摘する理由は、すぐにわかった。尾方の病院乗っ取りデビュー戦で起こった事件が、喉に刺さった小骨のように、いまだに湯本の心に引っかかっているのだ。
それは、湯本が尾方をマークし始めるより、ずっと前の事件だった。2007年、尾方に乗っ取られ閉院に追い込まれた群馬県の小規模病院の理事長兼病院長が、山中で遺体となって発見されたのだ。群馬県警は自殺として処理したが、不審な点がいくつもあり、湯本は他殺を疑っていた。
だが、他県の警察署がすでに捜査を終えた事件を蒸し返して、別の結論を導くのは、警察組織の中で生きる者にとって非常に勇気がいる。湯本は尾方の関与を強く疑いながらも、結局、この事件にタッチすることはなかった。
このとき、もし本当に尾方が殺人に関わっていたのなら、チーム小倉のメンバーを殺すこともいとわない気がした。けれど、刑務所の中にいては、実際に手を下すことはできない。安井芳次を鹿間に襲わせたように、手下を使えば別だが、尾方が企業舎弟を務める広域暴力団の鈴代組が手を貸すことはないだろう。
鈴代組はいまや内部分裂を起こし、ガタガタになっている。その一因となっているのが尾方と鈴代組ナンバー2だった木村恭二郎となれば、組織として加担して得なことは何ひとつないのだ。
安井襲撃事件で逮捕された木村は、取り調べだけでなく法廷でも完黙を貫き通し、そのせいで裁判官の心証を悪くした結果、尾方より長い懲役6年の判決を食らっている。東大経済学部出身のインテリやくざながら、筋金入りの武闘派の木村が、仮釈放のために刑務官におもねっているとも思えない。いまも刑務所に入っているのは間違いないだろう。
「安井襲撃の実行犯の鹿間凌はどうしているんですか。一時、尾方に憧れていたようですが」
「判決は尾方と同じく、懲役4年。まだ受刑しているとしたら、函館少年刑務所に入っているはずです」
少年刑務所というと、20歳未満の未成年者が対象と思われがちだが、26歳未満の受刑者も受け入れている。近年はむしろ、未成年者より成人のほうが多いくらいだという。鈴代組の準構成員だった鹿間が安井襲撃に及んだのは22歳のときだった。
「もし出てきていたとしても、鹿間が尾方のために犯罪に手を染めるようなことはもうしないでしょう。捕まってから、事実をいろいろ突きつけられて、いかに自分が利用されてきたのか、思い知らされたんです」
当時、別室のモニター画面で取り調べの様子を眺めていた湯本は、鹿間の心の変化が手に取るようにわかった。出所しても、尾方や木村と二度と会おうとはしないだろうと湯本は見ていた。
<嫌な予感>
チーム小倉のメンバーをもし殺るなら、尾方自身が動くしかないのだ。いま、尾方の所在はどうなっているのか。
「前橋の刑務所に入ったところまではわかっています。主に再犯者と暴力団員が送られる施設です。尾方に前科はないので、暴力団員とみなされて入ったことになる。ただ、正式な組員ではなく、『メディカルHOコンサルティング』(通称HOグループ)の名前で法人登記されている、れっきとした会社の代表です。法務省は裁判資料から同社を鈴代組のフロント企業と見て、尾方を組の準構成員と判断。前橋送りを決めたのでしょう」
尾方にとって、受刑先が暴力団員が多い刑務所に決まったのは不本意だったかもしれない。病院乗っ取りで億単位のカネを儲けても、吸い上げるばかりの鈴代組は、出所後の出直しを図る尾方には、もはや邪魔な存在でしかない。すでに、病院乗っ取りのノウハウは十分、頭に入っている。暴力団の威光を笠に着る必要はまったくないのだ。この約20年の間に染み付いた反社会的勢力のにおいを落とすには、収容された刑務所はあまり適切な場所とはいえなかった。
「尾方の場合、未決勾留日数が5ヵ月ほど算入されていますから、刑期満了まで務め上げるとすると、今年7月に出所日を迎えることになります。仮釈放になれば、さらに早まることになりますが、最近は昔より厳しくなっていて、なかなか認められなくなっている。彼が暴力団の企業舎弟であることを考え合わせると、さらにハードルは高くなってきます」
私は尾方が出所していないことを願った。ずっと、塀の中に閉じ込めておいてほしいというのではない。いまだ顔を合わせたことのないこの人物に対して恐怖はあるし、チーム小倉のプロジェクトを進めていく上でも、目の前に現れてほしくないのは事実だ。
しかし──。そうではないのだ。現時点で蒔田直也や白木みさおの死が殺人かどうかはわからないが、その犯人が尾方であってほしくないという思いが、私のどこかにある。刑務所に入っていれば、殺人を実行に移すことはできない。なぜそんな気持ちになるのか、自分でもわからなかった。
「いずれにしても、僕はいま、尾方が中にいるのか、出てきているのか、まったく把握していないんです。僕もいまや民間人。刑務所に直接、問い合わせるわけにもいかないので、佐山翔刑事に頼んで調べてもらいます。明日、同じ時間にこちらにうかがってもよろしいですか」
「それはありがたいですが、次から次にいろんなことを押しつけて大丈夫ですか。医療モールのほうも大詰めにきて、目の回るような忙しさだと思うのですが」
「入居する開業医10人それぞれと、細かい打ち合わせがすべて終わり、あとは3階の健診センターの工事が少し残っているくらいです。それを蒔田直也さんに報告する約束だったのです」
<増幅する不安>
話が一段落し、酒を出そうとしたら、湯本は首を横に振り、「今日は早めに横になりたいので」と、自分の部屋に戻っていった。やはり、かなり疲れているのだろう。
湯本も私も、同じマンションに住んでいる。いま、チーム小倉が借りている6つの部屋のうち、2つは誰も帰ってくる当てがない。蒔田と白木みさおの部屋である。2人の遺体が発見されてまだ3日しかたっていないというのに、遠い昔の出来事だったような気がする。
翌2017年1月25日(水)午後9時、湯本が約束通り、私の部屋を訪ねてきた。昨晩も顔色があまり優れなかったが、今日はさらにどす黒い感じがする。腎臓でも悪いのだろうか。検査を受けさせたほうがよさそうだ。
「尾方は昨年11月に出所していました」
テーブルについて少しを間をおき、心を落ち着かせるようにしてから、湯本は口を開いた。私はそれほど驚かなかった。尾方が犯人である可能性を消してくれと願いながらも、希望的観測は打ち消される気がしていたのだ。
「反社会的勢力とみなされる受刑者の4年の刑期が8ヵ月も縮まるなんて、いまどきではめずらしいと、調べてくれた佐山刑事も驚いていました」
喜びも悲しみも怒りもなかったが、私は酒を飲まずにはいられない気分になっていた。棚からラム酒の「ロンリコ151」を出してきて、飲ませてはいけないと思いながら、顔色の悪い湯本にも勧めた。アルコール度数75・5度。さすがにそのままでは危ないと、トニックウォーターで割って出した。
私のほうはといえば、ショットグラスに注いだロンリコをストレートであおっていた。喉から食道、そして胃まで焼けるような熱を感じた。
(つづく)