【医療ミステリー】 裏切りのメス─第3回─
【前回までのあらすじ】
医療コンサルタントとして活躍していた下川亨は、詐欺で訴えられ東京拘置所に収監された。退屈な拘置所生活の中で思いがけず、天才外科医・吉元竜馬を見かけ声をかけた。時代の寵児がなぜ拘置所にいるのか。「教授にはめられたんです」、彼はそう呟いたのだった。
陰謀渦巻く病院ビジネスを舞台とした【医療ミステリー】連載。毎週火曜日更新!
-著者プロフィール-
●田中幾太郎/ジャーナリスト
1958年、東京都生まれ。『週刊現代』記者を経てフリー。医療、企業問題を中心に執筆。著書は『本当に良い病院 悪い病院』『三菱財閥最強の秘密』(以上、宝島社新書)、『日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊/本日より時間外・退職金なし』(光文社)ほか多数。
<天才同士>
吉元竜馬が所属していた脳神経外科の教授の名は若山悠太郎といった。40代のころまでは天才と呼ばれるにふさわしいパフォーマンスでライバルたちを凌駕。吉元と同じく、脳腫瘍グリオーマの手術を得意とした。自ら術式を編み出し、そのために専用の手術器具まで開発するという伝説の外科医だった。
「僕は若山先生に憧れて、脳外科医を目指すようになったんです」
東京拘置所の運動場で吉元は私に打ち明けた。若山が教授になったのは40代前半。吉元が脳神経外科に入局する10年以上も前のことだ。
各医局では医員たちがひとつの椅子を目指し、競争を繰り広げている。その途中で多くの者が振り落とされ、大学病院を去っていく。そして、最後まで残った者だけが教授になれるのだ。そのころにはすでに50代半ばになっているのが普通である。医学部は大学の中でもっとも出世が遅い学部なのだ。40代そこそこで教授の座につくのは異例の早さだった。
若山が医学部長か病院長のポストにつくのは時間の問題と思われていたが、そうはならなかった。病院内の誰もが医師としての技術の高さを認めながら、人間性の評価は別だった。そのエゴイスティックな振る舞いや守銭奴ぶりに眉をしかめる者が少なくなかったのだ。
50代に入ってからは執刀医を務める回数は減ったものの、医療を金儲けの道具と考えている者たちにとって、天才外科医の称号を持つその男の利用価値はまだ十分にあった。製薬各社は競って講演料や原稿料の名目で報酬を渡した。若山の副収入は年間数千万円にも及び、大学内外から医師の倫理を問う声も聞こえ始めていた。
若山を医学部長や病院長に推そうとする動きが出てこないのは、拝金主義だけが原因ではなかった。最高水準の技術が要求される脳外科医は一匹狼が多い。自身の腕だけが頼りと自負しているからだ。ご多分に漏れず、若山もそのタイプだった。大学病院というさまざまな欲望や思惑が飛び交う伏魔殿を取りまとめるには、ときに卑下する場面も必要だが、若山はそれができなかった。
いうまでもなく、手術はひとりで臨めるものではなく、チーム医療である。外科医、麻酔医、看護師、臨床工学技士らが結束しなければ、患者のからだにメスを入れることはできない。ただし、若山は教授になるだいぶ前から、脳神経外科のエースとして特別扱いされてきた経緯があり、手術チームの中ですべてを自分の思い通りにできる立場にあった。若山が意識的にチームをまとめる努力をする必要はなかったのである。手術室では暴君を演じることが許された。
「僕が脳神経外科に入局するころには、若山先生が手術室に立つことはほとんどなくなっていたのですが、たまにメスを握ると、室内はものすごい緊張感に包まれました。先生の一挙手一投足に注目し、ささいな言葉も聞き逃すまいと、全員がいつもの何倍も集中するのです。他の医局ではどんなにポストが上がろうと、そこまでひとりの医師が神格化されることはない。若山先生は別格の存在でした」
こう述懐する吉元自身も、助教という研修医に毛が生えた程度の肩書ながら、医局のナンバー2である准教授以上に大切に扱われていた。突如現れた脳外科医の新星は、大学病院側にとって格好の宣伝材料だった。脳外科医としてまもなく若山を追い越すことになる吉元だが、最初のうちはその技術を学ぼうと、教授が執刀するときは必ず、介助医として手術チームに加わった。そのチームの陣容を初めて見たとき、吉元は驚いた。
「麻酔科に在籍する医師ではなく、フリーの麻酔医を使っていたのです」
<行き過ぎた強権>
吉元が脳神経外科に入局して2ヵ月がすぎようとしていたころ、大学病院では大きな騒動が起こっていた。麻酔科に所属する医員たちのほとんどが一斉に退職したのだ。部下を道具としか見ない同科のパワハラ教授の横暴さや、麻酔医の待遇の悪さが原因だった。
日本の医療界で麻酔医不足が叫ばれるようになって久しいが、この病院でも同様だった。麻酔科では少ない人数をやりくりし、なんとか手術をこなしているような状況だった。必然的に麻酔医たちはハードワークを強いられた。過労死寸前におちいるほど仕事をしても、そこでプラスされる手当は微々たるものだった。
一方、フリーの麻酔医の相場は跳ね上がった。どうしても麻酔医を集められない病院では、1日20万円の報酬を提示するところもめずらしくなかった。そうなると、大学病院の麻酔科に薄給でとどまるのがばからしくなってくる。しかも、手術に必要不可欠な役割を担いながら、その地位は決して高くない。内科医や外科医になりたいと思う医学生は多くても、最初から麻酔医を目指すケースはほとんどないのである。
麻酔医集団離脱が起こったとき、若山教授が率いる脳神経外科でもしばらく手術ができない状態におちいった。1ヵ月後に人的交流のある別の大学病院から麻酔医の派遣を受け、手術を再開したが、脳神経外科にはなかなか順番がまわってこなかった。外科系の医局は全部で8つ。それらの医局同士で数名の麻酔医を取り合うのである。一秒を争う患者は他の病院に転院させるしかなかった。
半年後ようやく、麻酔科に新たな医員が補充され、以前に近い状態に戻りつつあった。だが、脳神経外科の若山教授はそれを無視するかのように、別のアプローチで手術に臨んでいた。自身が執刀するときは麻酔科の医員は使わず、フリーの麻酔医に依頼していたのだ。
「フリーを使いだしたのは麻酔科が機能しなくなってから。若山先生は逃げ出した麻酔医たち、さらにはただ部下を叱りつけるしか能がない麻酔科教授に対しても、その無責任さにひどく怒っていた。一方で、手術における麻酔医の重要性を認識しながらも、どこかで彼らを見下していた気がする。ことあるごとに、あんな馬鹿どもと仕事ができるかと悪態をつくんです。そして、同じ病院にいる人間だから腹が立つんだといって、麻酔科の体制が整ってからも、そのままフリーを使い続けたのです」
フリーの麻酔医が手術室に入るのは若山が執刀するときだけで、吉元など他の脳神経外科の医員がメスを握る場合は麻酔科の医員に頼んでいた。だが、病院運営側にしてみれば、若山のやり方は許されるものではなかった。麻酔科が正常化したにもかかわらず、外の人材を使うといったら、医局同士の信頼関係を損ねかねない。プライドを傷つけられた麻酔科の医員たちが再び反逆に出れば、病院の手術体制は完全に崩壊してしまう。
だが、病院運営側も若山に強い態度で臨むことはできなかった。医局のトップである教授は一国一城の主なのだ。猫の首に鈴をつけることはできず、若山の先輩にあたる医学部長がやんわりと「麻酔科の顔も立ててくれると、ありがたいのだが……」と言っただけだった。結局、若山がフリーの麻酔医を使うという状況は何ひとつ変わらなかった。
<若山教授の蹉跌>
我を通し続けた若山だったが、それは本人に大きなマイナスをもたらした。医学部長や病院長への道が完全に閉ざされてしまったのだ。外科医という立場でありながら、麻酔科ともうまくやれないようでは、病院全体を見渡す立場など到底無理というのが、医学部と大学病院中枢の総意だった。
「そうした意見が交わされていること自体、若山先生は気づいていなかったに違いありません。ちょうど病院長が定年を迎える時期で、次は自分だと信じていたのです。ところが、いくら待っても、一向に声がかからない。じりじりとした時間をすごす中で、病院長に決まったのは心臓血管外科の教授だった。大学ではほぼ同期でしたが、教授になったのは若山先生が10年以上も早い。外科医としての評価もはるかに高い自分がなぜ選ばれないのかと怒り狂ったのです」
ここまで一気に語ると、吉元の端正な顔が少しだけ歪んだ。このまま話を続けるかどうか迷っているようだった。
「精神のバランスを崩す中で、若山先生は病院長になれなかった理由を懸命に探っているようでした。そうして出した結論は、僕が若山先生の技術を盗み、脳外科医としての名声を奪いとったせいで、評価が下がったというもの。妄想でしたが、怒りの矛先は僕に向けられるようになっていったのです」
教授の策略で拘置所に入る羽目になったとは聞かされていたが、なぜ逮捕されたのか、それ以上のくわしい話はなかなか聞けなかった。彼が容疑の内容について打ち明けたのは、運動場で面会するようになって7回目のときだった。吉元は「強制わいせつで捕まったのです」と言った。冬の風にかき消されそうだったが、「強制わいせつ」という言葉だけはしっかり耳に残った。
(つづく)