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【医療ミステリー】裏切りのメス―第11回―

【前回までのあらすじ】
 医療コンサルタント・下川享は元天才外科医・吉元竜馬のスカウトに成功し、看護師長として目をつけていた佐久間君代も取り込んだ。自身が標榜する「病院一大チェーン構想」を実行する最強の病院再生チームを作るべく、さらなるスカウトに奔走する。
 陰謀渦巻く病院ビジネスを舞台とした【医療ミステリー】連載。毎週火曜日更新!
-著者プロフィール-
●田中幾太郎/ジャーナリスト
1958年、東京都生まれ。『週刊現代』記者を経てフリー。医療、企業問題を中心に執筆。著書は『本当に良い病院 悪い病院』『三菱財閥最強の秘密』(以上、宝島社新書)、『日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊/本日より時間外・退職金なし』(光文社)ほか多数。


<事務方の天才>

 病院事務長候補として真っ先に頭に浮かんだのは、医療コンサルタント仲間だった蒔田直也である。私が医療界に旋風を巻き起こそうと画策し始めたのは、東京拘置所での天才外科医、吉元竜馬との出会いがきっかけだったが、そこから構想が具体化していくのは、蒔田という事務方の天才を意識していたからにほかならない。

この男を巻き込むことを前提に、私は一大病院チェーン計画を練り上げていたのだ。逆に言えば、蒔田のことを思い出さなければ、別の計画を立てていただろう。たとえば、吉元を犯罪者に仕立て上げた若山悠太郎教授と、そのバックにいるヤヌース教団から巨額の慰謝料を巻き上げる算段をしていたかもしれない。

そうした後ろ向きの発想をしなくてすんだのは、蒔田がわがチームに加わってくれれば、正面から医療界に殴り込んでも十分に勝算があると踏んだからだ。それぐらいの逸材だった。

 私が蒔田と知り合ったのは20年ほど前になる。一時期、同じ医療系コンサルティング会社に勤めていた。まだ2人とも医療コンサルタントしては駆け出しだったが、蒔田は3歳上の私を「先輩」と言って立ててくれた。会社が神田にあったので、仕事が終わると近くのガード下の飲み屋に入って愚痴を言い合った。

 その会社は医薬品現金問屋の子会社で、コンサルティングとは名ばかり。大手卸の社員が小遣い稼ぎに横流しした医薬品や、倒産した病院から安く買い取った医療機器を開業医相手に売りさばくのが私たちの主な仕事だった。横流しの品など扱っていたら、いつお縄になるかわからない。その上、給料も安かったので、私も蒔田もほどなくして会社を辞めた。

 その後は2人ともフリーの医療コンサルタントとして活動。私は開業医、蒔田は中規模の病院と、商売相手は違ったが、毎月1回は新橋あたりの居酒屋で一杯かわしながら情報交換していた。

 私が開業医相手にせせこましい商売をやっている間、蒔田は地道に実績を積み重ねていた。500床を超えるような大病院ではなく、200床以下の病院が彼のフィールドだったので、ニュースになるような華々しい活躍は聞こえてこなかったが、評価は次第に高まっていた。とりわけ、その実力を見せつけたのが彼が4年前にかかわった埼玉県の総合病院でのパフォーマンスだった。

 そこは創業一族が経営する病院で、病床は200床、標榜する診療科は20科。近くに総合病院はなく、地元の人々にとっては重要な拠点だったが、評判が非常に悪かった。看護師が80人しかおらず、ハードワークを余儀なくされ、病院内の雰囲気も悪化の一途をたどっていた。そんなときに、蒔田が医療コンサルタントとして病院に出入りするようになったのだ。

 それまでその病院では医療コンサルタントを使ったことはなかった。一族で牛耳っている体制に、外部の目が入るのは都合が悪いと考えていたようだった。それでも蒔田が入り込めたのは、大きな問題が起こっていたからだ。看護師の大半と事務職の一部が労働組合を結成。職場環境の改善を求めて、経営陣を追及する構えを見せたのだ。

病院には古くからの顧問弁護士はいたが、年間数万円の顧問料を払うだけの関係なので、無理は言えなかった。しかも、80代の老齢でこうした問題には疎かった。別の弁護士に頼むしかなかったが、一族は高額のカネがかかるのを懸念。ちょうどそのころ、飛び込みで営業に来た蒔田に白羽の矢を立てたのだった。

大学時代、ディベートサークルに所属し、大会でも優勝したことのある蒔田のプレゼンテーションは抜群だった。蒔田は病院の理事長室でさまざまなデータを示しながら、「労使問題は時間をかけずに解決できるし、その結果、必ず経営も上向きます」と淀みなく話した。応対した理事長と病院長は創業者の長男と次男で、2人とも70代だったが、彼らには蒔田の姿が頼もしく映ったようだった。何より、弁護士に頼むより、ずっと安くすむように思えた。一も二もなく、依頼を決めた。

 だが、蒔田は一族が満足する結果をもたらさなかった。一族の利益を守るよりも、赤字続きの病院をどう立て直すかに主眼を置いて動いたからだ。決算書類に目を通して、蒔田はすぐに一族の存在がこの病院のがんであることを見抜いた。何か資格を持っているわけではなかったが、数字にはめっぽう強かった。並みの税理士では到底、かなわないだろう。

 このころも月1回の私との情報交換は欠かさず続けていた。病院近くのマンションに移り住んだ蒔田のアクセスを考慮して、池袋で会うようになった。ホテルメトロポリタンの最上階のバーラウンジで夜景を見下ろしながら、近況を語り合った。

「いやぁ、一族郎党が群がっているような病院は話にならないですね。自分たちの利権を守ることだけに必死で、職員の生活なんてまったく考えていないんですから。看護師たちは過労死寸前だし、このままだと、みんな離れていくでしょうから、放っておけば間違いなく潰れますよ」

 蒔田のこのときの言葉が私の脳裏に強く刻まれていた。私の商売相手の開業医にもカネのことばかり考えている連中が多かったが、それが100床単位の病床を抱える病院になっても、本質は変わらない事実を知ったのだった。

ろくでもない経営者が居座っていては、蒔田の言うように、いずれ病院は閉院に追い込まれる。私たちが奴らの代わりに経営に乗り出すことはできないかと考えるようになっていた。もう少しはましな経営ができるに違いない。そうした思いがあったからこそ、今回立ち上げようとするプジェクトの発想につながっていったのである。


<病院改革>

 蒔田はその病院で荒療治をした。一族が吸い上げている報酬を大幅に減らさせたのである。赤字が続いているにもかかわらず、理事長と病院長だけで合わせて年間1億円近く取っていたのだ。これを半分にさせた。相当な抵抗があったが、病院存続のために最低限必要なことだと説き伏せた。もしここで決断できず、病院を閉めなければならないようなことになれば、これまで地元で築いてきた創業家の名誉はすべて失われると脅した。このあたりの弁舌はディベートで鍛えられてきただけあって、お手のものだった。

 看護師80人と事務職30人に対しては、理事長と病院長に対する報酬の減額分約5000万円を使い、1人平均45万円の年俸アップ。医師に対する報酬アップは見送った。一番の改革は看護師数を増やしたことだった。新たに35人を雇い入れ、入院患者7人に対し看護師1人の体制を実現。これによって入院基本料が上がるので、病院の収入も増えるのだ。看護師雇い入れによる経費増加分は、信用金庫からの借入でまかなった。ここでも、蒔田のプレゼンテーションが効を奏した。

 看護師のオーバーワークが解消されると、病院内の空気も一気に明るくなった。少し離れた地域からも患者が訪れるようになり、まもなく収支はプラスに転じた。ひと仕事を終えた気分だった蒔田は、次の営業先を探す算段をしていた。

まず、労働組合の委員長だった看護師に病院を去ることを告げると、「もう少し残って、私たちの面倒を見てくれないですか」と言われた。「蒔田さんがいなくなると、また創業家が勝手なことをやりだすに違いありません」と不安な顔になった。

 一方、経営側も蒔田を引きとめにかかった。理事長と病院長はそれぞれの40代の息子たちに交代していた。父親たちよりはもう少し洗練された感覚を持ち、創業一族が利益をむさぼるようなことは恥だと思っていた。彼らは蒔田に「医療コンサルタントではなく、事務長をやってもらいたい」と頼んだ。

 労使双方から期待される言葉をもらえば、蒔田としても悪い気がするはずはなかった。4年を期限に事務長を引き受けることにした。それだけあれば、自治体に増床を認めさせる交渉もできる。200床という病床数は、地域にひとつしかない総合病院としては中途半端だった。もう少し規模が大きくなれば、救急部門も充実させられると、蒔田は考えていた。

 蒔田が事務長に就いてからは、私との月1回の情報交換も中断していた。彼があまりにも忙しくなったからだ。会わなくなって2年近くが経過した2013年2月中旬、無理を言って時間をつくってもらった。その2週間前には看護師の佐久間君代と会い、プロジェクトチームへの参加を取りつけていた。最後に蒔田が加われば、パズルのパーツはすべて埋まる。


チーム結成

 ホテルメトロポリタンに現れた蒔田は、前よりも精悍な顔になっていた。まだ寒さが残っているというのに、かなり日焼けしている。「自治体の担当者と雪山に登っているんです。接待ゴルフならぬ接待登山です」と笑う。私は骨格が見えてきた自身の計画を話し、「蒔田君がいて初めて成り立つプロジェクトだ」と強調した。

「埼玉の病院のほうがようやく軌道に乗ってきていて、あとひと押しなんです」

 どうも煮え切らない。断りたいということか。しかし、蒔田がいなければ始まらないのだ。これだけの事務長適任者はほかに見当たらない。「ところで、増床の件はどうなった」とたずねた。

「300床に増やすことが正式に認められ、この4月から入院棟を増築する工事に入ります。秋には完成するでしょう」

「そこまできているのなら、あとは任せても大丈夫じゃないの。こちらとしては3月中にスタートさせたいんで、なんとか来れないかな」

「あと2年はいまの病院にいる約束なので……」

 これはあきらめるしかないかと思っていると、「でも、本当は下川さんとやりたい」と蒔田が呟いた。

「正直に言うと、いまの病院ではやり切った感はあるんです。これ以上いても、おもしろいことはないかなという気がしています。ただ、切りのいい3月末まではいないとまずいので、4月初めから合流するというわけにはいかないでしょうか」

 もちろん、大歓迎だった。ただし、2月と3月中も事前の打ち合わせにだけは参加してもらいたいと話した。といっても、同じ場所に集まるのではない。インターネットを使ったWeb会議を開くのだ。これなら、離れていても相手の顔は見えるし、ネット環境さえ整っていれば、どこにいても参加できる。

 会議は毎週土曜日午後10時からと、日曜日午後5時から開くことに決めた。参加するのはチームの中核をなす私、小倉明俊こと吉元竜馬、佐久間君代、蒔田直也の4人。第1回目の会議は2013年2月23日(土)に開かれた。吉元は私の部屋で食事をするのが常だったから、一緒にいてもよかったが、彼が隣の自分の部屋のほうがリラックスして話せるというので、そうしてもらった。

 まずは、それぞれ自己紹介をした。私以外の3人はまだ会ったことがない。画面を通じてだが、この日初めて顔合わせをした。自己紹介が終わると、私は提案をした。

「蒔田君と佐久間さんにも事情はすでに話してありますが、吉元先生は今後、小倉明俊という名前を名乗ることになります。そこで、呼び方はこの会議も含め、日常でも小倉先生で統一したい。へたに吉元先生と呼んでしまうと、そこからほころびが出ないとも限らない。なお、吉元先生が小倉明俊になった経緯を知っているのは私たち4人だけなので、絶対に口外しないでいただきたい」

 3人がうなづくのが画面に映った。専用の高性能カメラを事前に各自に渡しておいたので、それぞれの表情も鮮明だ。さらに私は続けた。

「私たちのチーム名も決めておきたい。単純だが、『チーム小倉』というのはどうでしょうか。小倉先生にはこれから傘下に収める病院の理事長を務めてもらうことになるので、この名前が一番ぴったりくるのではと思う」

 3人に異論はないようだった。

「チーム小倉の最初のターゲットは北関東を中心に病院を展開する安井会グループを考えている。理事長の安井芳次の乱脈経営で病院は瀕死の状態にあると聞いています」

「なるほど」と声を上げたのは蒔田だった。

「いま僕がいる病院にも、安井会グループの病院から転院してくる患者が多いんです。評判も最悪ですし、いまの体制が続けば、数年のうちに潰れるのは確実です。ぜひ、やりましょう」

 力強く語る蒔田の声に押されるように、小倉こと吉元と佐久間も大きくうなずいた。
(つづく)

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