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【医療ミステリー】裏切りのメス―第58回―

【前回までのあらすじ】
 過去の事件で知り合った友部隆一に会うことにしたチーム小倉のリーダー下川亨。山谷の路上で亡くなった本物の小倉明俊の事件の進捗を探るためだ。
 友部によると、小倉は酒を飲んだうえに薬物も服用しての凍死で、通常、事故死か病死と判断されるものだったが、検出された薬物が日本ではあまり使われないものだったため、殺人の可能性もある、と警察もにらんでいるとのことだった。
 下川は小倉の遺体と対面した際、その薬物の匂いを嗅いでおり、タイで流通しているヤーバーという覚せい剤だと確信していた。そこで下川は、吉元とヤーバーのつながりを調べることにした。
 陰謀渦巻く病院ビジネスを舞台とした【医療ミステリー】連載。毎週火曜日更新!
-著者プロフィール-
●田中幾太郎/ジャーナリスト
1958年、東京都生まれ。『週刊現代』記者を経てフリー。医療、企業問題を中心に執筆。著書は最新刊として『歯医者のホントの話』(KKベストセラーズ)、その他にも『本当に良い病院 悪い病院』『三菱財閥最強の秘密』(以上、宝島社新書)、『日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊/本日より時間外・退職金なし』(光文社)など多数。

<杉本莉緒への聞き込み>

 東京多摩地域の刑事、友部隆一と会った2日後の2017年5月5日(金)、私は都内の閑静な住宅地にある杉本莉緒のマンションを訪ねていた。大学病院の看護師だった杉本は、愛人の脳神経外科の若山悠太郎教授に命じられ、吉元竜馬をおとしいれる策略に加担させられていた。そして、吉元は杉本の証言が決め手となり、強制わいせつの汚名を着せられる羽目になった。彼女なら、吉元の秘密を知っているかもしれない。

 この日は、佐久間君代は連れていかなかった。安井会グループの千葉の病院で、入院患者によるかなりやっかいなモンスターペイシェント問題が起こり、グループの各施設を統括する立場として、早急に対策を立てなければならなかったからだ。佐久間は朝6時前に埼玉県北部のマンションを出て、千葉に向かっていた。ゴールデンウィーク中、佐久間が完全な休みをとったのは一日もなかった。

 4年半前に出所した吉元を連れて、杉本に会ったときは独身だった。いまどうなっているかわからないが、電話の声の感じからすると、まだ結婚している雰囲気ではなかった。女性ひとりの部屋にのこのこと出かけていくのもどうかと思ったが、佐久間に話すと、「この際、吉元先生のことを徹底して調べるべきだわ」と言って、不快な表情は一切、見せなかった。ただ、内心どう感じているのかは知る由もない。

 午後2時すぎにマンションに着くと、杉本は笑顔で私を迎えてくれた。佐久間より1歳上だから、30代後半に差しかかっているはずだが、20代にしか見えない。この数年の歳月をまったく感じさせなかった。最近どうしているかたずねると、近所の内科クリニックで働いているという。

「もう、大学病院はしんどいです。人間関係にも疲れるし、とにかく忙しすぎる。収入はだいぶ減ったけど、定時に帰れるし、当直もない。大きな病院に戻ろうという気はまったくなくなりました」

 吉元に実刑判決が下ったとき、杉本は大学病院を去った。自分のしでかしたことの大きさにやっと気づいたからだ。ひとりの人生を狂わす権利など、誰にもありはしないのだ。

「若山教授はいま、どうしていますか」

「5年前に大学病院を離れてから、一度も会っていないんです。若山先生はまだ、病院には残っているはず。今年11月に定年の65歳の誕生日を迎えますから、来年3月末をもって退官することになると思います。結局、どうしてもなりたかった医学部長にも病院長にも選出されることはなかったようです」

 杉本は大学病院を辞めるとき、所属していた新興宗教団体ヤヌース教団も脱退している。そもそも、杉本が若山教授の愛人になったのも、医療分野に触手を伸ばそうとする教団の命を受けてのものだった。入信した若山はすぐに教団のナンバー2に伸し上がり、その力を借りて部下である吉元の放逐を謀ったのだった。

「ヤヌース教団の矢田慧教祖は2年前に81歳で亡くなったと、風の便りに聞きました。その後は跡目争いが起こり、若山先生をリーダーに推す声も上がったようですが、反対する信者のほうが圧倒的に多かった。結局、組織をまとめられる後継者は現れず、教団は解散に追い込まれたそうです」

 いまの杉本なら、自身の利害に関係なければ、何でも包み隠さず話してくれる雰囲気だった。「吉元竜馬先生のことなんだが」と私は切り出した。

「何かあったんですか。私たちのせいで医師の仕事を失ってしまったから、どうしているか心配していたんですけど……」

「いま、行方不明なんだ」

 当然ながら、吉元が小倉明俊という医師になりすまして、安井会グループの理事長に就いている事実を明かすわけにはいかない。とりあえず、吉元が失踪したことにした。

「吉元先生が2012年12月に出所してから、いろいろ医療関係の仕事を世話してきたんだが、どれも長続きしなかった。医療関係といっても、医者の仕事ができるわけじゃない。天才外科医と持ち上げられてきた人間にとって、満足のいく仕事などなかったのでしょう。そして3ヵ月前、ふいといなくなってしまい、連絡がとれなくなってしまったのです」

「メスを握れなければタダの人ですからね。そこまで追いつめたこちらの責任は重いわ」

「それで杉本さんに聞きたかったのは、吉元先生が行きそうなところがわからないかということ。たとえば海外とか」

「私が大学病院にいたころは、旅行したという話は一度も耳にしたことがありません。学会で海外や地方に行くことはあっても、日程が終わればとんぼ返りで大学病院に戻ってきてしまう。仕事一筋の先生だったから、旅行するような余裕はなかったんじゃないかしら」

 ここを訪ねたのは無駄足だったかと感じ始めたとき、杉本があっという顔をした。何かを思い出したようだった。

「大学6年の2月、医師国家試験を終え、吉元さんは同級生数人と東南アジアに卒業旅行をしたそうです。その中のひとりが大学病院にいたので、話す機会があったんです」

<バンコクでの単独行動>

 吉元は1974年9月生まれで大学には現役合格。留年もしていないから、医師国家試験を受けたのは1999年2月のことである。試験が終わるとすぐに、卒業旅行に出かけている。

 そのとき一緒だった吉元の同級生は、脳神経内科の医師になっていた。杉本が在籍していた脳神経外科と脳神経内科の間で、合同のカンファレンスがしばしば持たれた。そのあとで飲み会になったときのことだ。「タイのバンコクで寺院めぐりをしようとなったとき、吉元君ひとりだけ、別行動をとった」と、杉本の隣の席に座った医師は卒業旅行の話をし始めた。吉元はこうした飲み会には一切、顔を出さず、その日もカンファレンスが終わると、気づかないうちに姿を消していた。

 脳神経内科の医師は、卒業旅行での吉元の行動が脳裏に焼きついているのか、その光景を克明に覚えていた。日が暮れ、寺院めぐりを終えた同級生たちは軽く飲もうと、歓楽街のパッポン通りに繰り出した。店を探して路地裏を歩いていると、吉元がマッサージパーラーから出てきたのである。そこは男性の店員といかがわしい行為をする店として、海外旅行者の間でも知られていた。

 ある目的を持った欧米や日本からの旅行者に人気の店だった。未成年の少年が相手をし、店が提供する違法薬物を使いながら行為に及ぶのである。その違法薬物の中には、東京・山谷地区で亡くなった小倉明俊が酒と一緒に飲まされたと思われる錠剤型の覚せい剤ヤーバーも含まれていただろう。タイではもっとも手に入りやすいパーティードラッグなのだ。

 2010年代になると、タイではこうした店の取り締まりが急激に厳しくなった。吉元が入った店も摘発を受け、まもなく潰れた。客の側もただではすまなくなった。日本人が児童買春でタイ警察に逮捕されるというニュースがたびたび流れ、世界中に恥をさらしている。

「吉元さんが卒業旅行に参加したことなど、まったく忘れていました。というより、吉元さんに対し、取り返しのつかない暴挙を働いたという負い目もあって、あの先生にかかわるエピソードをなるべく頭の中から消し去ろうとしていたのかもしれません。でもいま、下川さんから吉元さんのことをたずねられて、さまざまな記憶がよみがえってきました。吉元さんがそんなところに出入りしていた話を聞き、当時、身の毛もよだつ気持ちになったのを思い出しました」

 杉本の声は少し震えていた。自身のやったことのおぞましさ、そして吉元という人間のおぞましさが彼女の心を圧し潰そうとしているかのようだった。

「教団や若山先生の意に沿って、吉元さんを罠にはめたわけですけど、それは言い訳かもしれない。いま思えば、吉元さんを本当におとしめたかったのは私自身ではなかったのかという気もしてくるんです。でも、それを実行してしまったら、私も人間ではなくなってしまう」

 振り絞るように語る杉本の目は潤んでいるように見えた。かける言葉もなかった。私は一言だけ「ありがとう」と言って、彼女のマンションをあとにした。

 外はすっかり日が落ちていた。ハイエースに乗り、チーム小倉が根城としてきた埼玉県北部の月極マンションに向かった。しかし、10㎞ほど走って気が変わり、都心のマンションに行くことにした。ひどく疲れていた。このまま運転を続ければ、事故を起こすような気がした。

 だが、無理してでも埼玉に戻るべきだったのだ。いまとなっては、吉元竜馬が本物の小倉明俊や、蒔田直也と白木みさおを殺し、私と佐久間君代を殺そうとした犯人であるのは動かしようもない真実だと思われた。なのに、私はまだもう一度、事実をひとつひとつじっくり精査してみようと考えていたのだ。

 しかしもはや、そんな猶予はどこにも残されていなかったのである。
(つづく)


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