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【医療ミステリー】裏切りのメス―第60回(最終回)―

【前回までのあらすじ】
 チーム小倉のリーダー下川亨は、吉元竜馬について調べるうちに、真犯人であると確信していった。そんな中、チームの湯本利晴から「佐久間さんが襲われた」との連絡が入った。急いで病院に駆け付けた下川は湯本と落ち合った。
 湯本によると、自分の部屋で犯人とかち合い、ワインボトルで殴られ、意識を失う前に駆け付けた湯本に「ヨシモト先生にやられた」と話したという。佐久間の状況は五分五分。吉元が犯人だと判明したその時、手術中のランプが消えた。
 陰謀渦巻く病院ビジネスを舞台とした【医療ミステリー】連載。毎週火曜日更新!
-著者プロフィール-
●田中幾太郎/ジャーナリスト
1958年、東京都生まれ。『週刊現代』記者を経てフリー。医療、企業問題を中心に執筆。著書は最新刊として『歯医者のホントの話』(KKベストセラーズ)、その他にも『本当に良い病院 悪い病院』『三菱財閥最強の秘密』(以上、宝島社新書)、『日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊/本日より時間外・退職金なし』(光文社)など多数。

<手術成功>

 佐久間君代が治療を受けている手術室から、執刀医の徳山了介が出てきた。会うのは初めてだ。

 安井会グループはいまや、9病院を傘下に持つ巨大組織に成長した。病床総数は約3400床。さらに、この秋には10施設目となる病院が加わることも決まり、グループ外には医療モールも擁している。すべての医師のプロフィールを頭にインプットするのは、もはや不可能だ。顔を合わせたことがある常勤医師は2割にも満たず、非常勤医師にいたっては、どの科に何人いるかすら、正確には把握できていない。

 安井会グループの統括事務長だった蒔田直也なら、人数だけでなく、初期研修医の顔まで一人ひとり覚えていただろう。グループにとっては、私よりずっと有用な男だったが、吉元竜馬に殺されたいま、もう頼ることはできない。

「うまくいきました」

 徳山はこう言って、表情を弛ませた。向こうはこちらのことを認識しているようだ。湯本利晴からは30代半ばと聞いていたが、マスクを外した素顔は20代にしか見えない。どことなく、子どもっぽい感じがした。生家は裕福に違いない。幼いころから医者を目指し、大事に育てられてきたのだろう。

「手術をする前に、湯本さんには五分五分だと申し上げたのですが、思ったより状態はよくて、このぶんなら命にかかわるような心配はありません」

 徳山が採った術式は内視鏡穿頭血腫吸引術。頭蓋骨に小さな穴を開け、チューブを挿入して血腫を吸引する。脳へのストレスを極力、少なくする方法だという。

「脳を傷つけることなく、血腫はきれいに除去できました。頭蓋内圧の上昇も見られず、当面の危機は脱しました」

 私は大きく息を吐いた。この世に生を受けて半世紀、これほど安堵したことはなかった。もし、佐久間がこのまま亡くなったら、生きていく自信はなかった。

 ただ、まだ予断は許さない。徳山はこうつけ加えた。

「手術は成功しましたが、あとは予後がどうなるか。脳の病気というのはさまざまな後遺症が出てくるケースが少なくないのです。とりあえずICU(集中治療室)に移して、様子を見たいと思います」

 徳山が去ったあと、私は湯本の先ほどの「ヨシモトを知っているか」の問いに答えなければならなかった。いまとなっては、吉元竜馬という人物の存在を明かすしかなかった。それが私の破滅につながるとわかっていてもだ。チーム小倉はもとより、安井会グループにも大きなダメージを与えるだろうが、あとさきを考えることが許される段階は越えてしまった。

 湯本が駆けつけたとき、佐久間は薄れる意識の中で「吉元先生にやられた」と洩らしているのだ。もう隠すことはできないと私は覚悟した。だが、湯本に対して私の口から出てきた言葉は違った。

「ヨシモトが誰かは知っています。湯本さんにはちゃんと説明するつもりだし、そうしなければいけないのもわかっている。ただ、少しだけ待ってほしい」

 私は佐久間の容体がどうなるか見届けたかったのだ。もし、彼女がひどい障害を負うような事態になったら、私は自らの手で吉元に復讐するつもりだった。

 湯本は怪訝な表情を浮かべながらも、「そうですか」と言ったきり、それ以上、追及することはなかった。私の鬼気迫る様子に、どうしてもそうしなければならない理由があるのだろうと察してくれたようだ。

「期限を決めておきましょう。明日というか、12時をまわったから、もう今日か。夕方5時にすべてを話します。佐久間には私がつきそうから、湯本さんは自分の部屋に戻って休んでください。ありがとう、本当に助かった」

「くれぐれも早まったことだけはしないでください」と言い残し、湯本は帰っていった。私の態度に、何か危うさを感じた様子だった。

 2017年5月6日(土)午前10時、私は佐久間がいるICUに入った。手術が終わってから、8時間がたっていた。それまで、私は病棟の家族控室で何もしないで、ただじっと待っていた。一睡もしなかった。ウトウトすることすらなかった。極度の緊張に、からだのすべての感覚が失われているかのようだった。体温すら感じなかったのだ。

 安井中央病院の規則では、ICUの面会時間は10時以降と決められていた。自身の立場を使ってごり押しすれば、もっと早く面会できたかもしれないが、それはしたくなかった。そうした話は病院内で瞬く間に伝わっていく。幹部が平気で規則破りをしているような病院は、すべてがルーズになっていく。モンスターペイシェントが現れても、強い態度で臨めなくなる。

 何より、安井中央病院の看護部長であり、安井会グループの看護体制を統括する役割も担っている佐久間の立場もおびやかしてしまうだろう。私と佐久間が夫婦であることは、スタッフの大半が知っているのだ。

 ベッドの佐久間はまだ眠っていた。心地よさそうに寝息を立てている。たくさんのチューブがからだじゅうにつけられているのだろうと想像していたが、左手の甲に点滴が1本つながっているだけだった。

 ICUでの面会時間は10分までと決まっていたが、そこだけは規則を破った。時計に目をやることもなく、私は備えつけの椅子に座り、ずっと佐久間の顔を見つめていた。しばらくすると、執刀した徳山が回診に来た。

「今朝、数値を測ったら、すべて良好でした。CTも見ましたが、まったく問題ありません。まだはっきりとは申し上げられませんが、大きな後遺症が出てくることもたぶんないでしょう」

「ありがとうございます。ほっとしました。先生はまったく寝ていないのでは?」

「2時間以上ちゃんと、仮眠をとっていますから、僕は大丈夫です。むしろ、下川さんのほうこそ、お休みになっていないのでしょう。家族控室で楽にしていてください。佐久間さんが目を覚ましたら、看護師に呼びに行かせますから」

 私は家族控室に戻り、ソファに深く腰かけ、目を閉じた。まもなく眠気が襲ってきたが、それは一瞬にすぎなかった。すぐに現実に引き戻された。湯本にすべてを話すと言ったが、ただやみくもにオープンにすればいいというものではないだろう。事実を知ったとき、元刑事の湯本はどう反応して、どう行動をとるのか。そして、吉元竜馬はいま、どうしているのか。

 不吉な予感に押しつぶされそうになるのを必死でこらえていた。行き場のない不安と葛藤し続けているうちに、自分が何を考えようとしてるのかさえ、わからなくなっていた。迷路から私を救い出したのは、若い看護師の声だった。

「佐久間さんが起きましたよ」

 家族控室の時計の針はちょうど午後3時を指していた。急いでICUに行くと、部屋の外まで佐久間の笑い声が聞こえてきた。ベッドのかたわらには、佐久間より5歳上の看護師長が立っている。

「いやあ、たいへんだったね」と声をかけると、佐久間は「何も覚えていないんだ」と、さらに大きな声で笑った。

「看護師長さん、今日は休みなのよ。私のことを心配して駆けつけてくださったの」

 私は「ゴールデンウィーク中なのに、申し訳ありません」と、看護師長に頭を下げた。

「先ほど、ナースステーションで確認したら、どこにも異常がないので、明日、一般病棟に移ってもらうと言っていました」

「それはよかった」

「2週間は入院しなければならないと思いますけど、そのあとは仕事に復帰できるそうです。佐久間看護部長がいなければ、この病院はまわっていきませんから、本当によかったです」

 こう言って、看護師長はその場を去った。私たちに気を使ったのだろう。

「悪かったな。埼玉に帰ろうとしていたんだが、すぐに調べたいことがあって、東京のマンションに行ってしまった。そのまま埼玉に戻っていれば、佐久間をこんな目に遭わすこともなかった」

「下川さんのせいじゃないわ」

 何も覚えていないと言いながら、佐久間は事件のことをしっかり認識していた。だが、いまはこれ以上、この話題に触れるべきではないだろう。ダメージを受けた脳に、プラスになるとは思えなかった。私は話題を変えた。

「落ち着いたら、今度こそ旅行に行こう」

 結婚して4年。新婚旅行すらまだ実現できていない。以前、佐久間は北欧でオーロラを観たいと言っていた。だが、すぐに海外に行くことは難しいかもしれない。すべてが明るみになったとき、私が罪に問われるのは必至だ。

「下川さんのふるさとに行ってみたいな」

「オーロラはいいのかい」

「いまはいい。東北って仙台くらいしか行ったことないのよね。田舎の風景を眺めながら、のんびりしたい」

「近くに温泉もあるから、そうしよう。海外はその次だ」

 こうしたたわいない話をしていると、ICUに湯本が姿を見せた。約束の5時になっていた。

「佐久間さん、調子はどうですか」

「まったく問題ありません。いろいろ助けていただいたようで、ありがとうございます」

「湯本さんとは今後のことを話し合わなければならないから、今日は帰らしてもらうけど、大丈夫かな」

「もちろん」と佐久間はウインクをしてみせた。こんな仕草をするのを初めて見た。

「明朝、一般病棟に移ることになるそうだから、そのときまた来る。それまで、ゆっくり休んでくれ」

<告白>

 湯本と一緒に、チーム小倉が借りているマンションの私の部屋に行った。

「話をする前に、ちょっと下川さんの部屋を調べさせてください」

 湯本はかばんの中から盗聴器発見機を取り出した。先月、私と佐久間が都心のマンションで殺されそうになったとき、家電量販店に寄って5000円で購入した機械だ。冷蔵庫のコンセントを差し込んでいる二股プラグに発見機のアンテナを向けると、ピーピーと音が鳴りだした。二股プラグを分解すると、盗聴器が仕込まれていた。

「やはり、そうでしたか。下川さんが部屋で話している内容はほぼ筒抜けだったようです。一昨日か昨日の朝、佐久間さんはこの部屋に入りましたか」

「寄ってはいないけど、一昨日の晩、携帯で佐久間と話した。彼女は明日(5月5日)の朝早くに千葉の病院に行くと言っていた。帰りはどれくらいになりそうかと聞いたら、やっかいなトラブルが起きているから、夜の10時はすぎるだろうと」

「犯人はそうしたやりとりを聞いて、午後9時までなら誰もいないだろうと、ワインに医療用麻薬オピオイドを仕込むために佐久間さんの部屋に入り込んだのです。そして、佐久間さんとかち合った」

 だが、この推理には大きな弱点があることに私は気づいた。携帯の向こう側で話している佐久間の声は、盗聴器では拾えない。

 私は一昨日の携帯のやりとりを振り返った。「夜10時をすぎるんだったら、私が車で適当な場所まで迎えに行くよ」と声に出して言ったのを思い出した。結局、この私の申し出を佐久間は断ったのだが、犯人はそれを聞いていたのだ。

「ところで、犯人と思われるヨシモトとは誰なんですか」

 私はすでに腹をくくっていた。というより、佐久間の回復ぶりを見て、未来に道筋が見えた気がしていたのだ。

「ヨシモトとは吉元竜馬。いまは小倉明俊と名乗っています」

 湯本は驚いた顔を見せなかった。この答えを予測していたかのようだった。

「佐久間さんが襲われたことを小倉に伝えようとしたのです。安井中央病院の病院長であり、安井会グループの理事長ですからね。ところが、今朝からまったく連絡がつかない。携帯にも出ないし、マンションの部屋にもいない。病院に寄った形跡もないんです」

 私は東京拘置所で吉元と出会ってから現在までを、脚色することなく、知る限りの事実を話した。すべてを聞き終わると、湯本はその場で、埼玉県北部の警察署で部下だった刑事第二課係長の佐山翔に連絡を入れた。事情を話し、小倉明俊こと吉元竜馬の緊急逮捕を要請した。

<被疑者死亡>

 だが、吉元の身柄が生きたまま確保されることはなかった。5月7日未明、安井中央病院の裏手にある林の中で遺体となって発見されたからだ。死亡推定時刻は6日午前6~7時。赤ワインのボトルを1本飲み、オピオイドを大量服用していた。

 吉元は被疑者死亡のまま、医師法違反、公文書偽造、私文書偽造、詐欺、傷害の5つの罪名で書類送検された。そこに殺人の容疑が加わることはなかった。小倉明俊、蒔田直也と白木みさお、私と佐久間への未遂、いずれも立件は見送られた。佐久間をワインボトルで殴った件だけが傷害として立件されたのだった。

 私が逮捕されるのも時間の問題だった。チーム小倉は解散するしかないが、いまのうちに安井会グループの陣容を立て直しておかなければならない。湯本と佐久間を私の部屋に呼んだ。佐久間は予定より早く10日で退院していた。

「湯本さんにはグループ全体をとりまとめる統括事務長に就いてもらいたい。医療モールの運営もあるのでたいへんですが、あなた以上の適任者はいない。佐久間には新ポストのグループ総看護部長を任せたい。これまでやってきたことと変わらないが、より経営を意識して、湯本さんをフォローしてもらえればありがたい。それと、空席となった理事長ポストには、前理事長の安井芳次さんに就いてもらいたいと思っている。今年12月には68歳になるので、そう長くは続けられないだろうが、この急場を乗り切るには彼しかいない。すでに本人からも了承をもらったので、湯本さんと佐久間で支えてほしい」

 2人は大きくうなづいた。湯本が帰ったあと、私は佐久間に1枚の紙を渡した。自身の必要事項を記入して押印した離婚届である。

「まもなく逮捕されるのは確実だろう。私が安井会グループに戻ってくることはないし、佐久間には自分の人生を歩んでほしいんだ。いままでありがとう」

 佐久間は黙ったまま、目の前の離婚届をびりびりに破いた。1分ほどたって、やっと口を開いた。

「私は決して、下川さんとは別れない。何年つきあってきたと思っているのよ。11年3ヵ月よ。別れるんなら、とっくに別れているわ」

 目に涙を浮かべ、佐久間は抗議した。私はその勢いに気圧されるように「ごめん、いまのは撤回だ」とあやまった。

「それと、安井会グループには何があっても必ず戻ってきてね。下川さんの居場所は私がちゃんとつくっておくから」

<エピローグ>

 ルポライターの俺が下川亨から託された手記はここで終わっている。その後のことを少しだけ補足しておこう。

 2018年2月、下川は逮捕された。容疑は医師法違反、公文書偽造、私文書偽造、詐欺の4つ。吉元竜馬が被疑者死亡のまま送検された際の5つの容疑から傷害を除いた罪名すべてが起訴状に載せられた。2019年4月、さいたま地裁で懲役4年の実刑判決が出て、検察も下川も控訴せず確定した。

 俺が下川と塀の外で最後に会ったのは保釈中の2019年1月。その際に手記を綴ったノートを5冊、渡されたのである。

 その後、下川は栃木県大田原市の刑務所に入った。奇しくも、吉元竜馬がかつて収監されていたのと同じ刑務所だった。俺も何度か訪ねたが、下川からはいつも前向きな言葉ばかり聞かされている。月に2回、佐久間君代が面会に来ているのが元気の源になっているようだ。(おわり)

※60回の長きにわたり、おつきあいいただいたみなさま、ありがとうございました(筆者)。


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