【医療ミステリー】裏切りのメス―第25回―
【前回までのあらすじ】
「チーム小倉」のリーダー・下川亨は佐久間君代との結婚することとなった。
婚姻届の証人には、佐久間の看護専門学校時代のレズビアンサークル仲間2人になってもらうことになり、その席で下川は、今回の病院再建計画のため、看護師確保の協力も頼んだ。
苛烈になりつつある病院再建計画中の下川にとって、ひと時の安らぎとなった。
陰謀渦巻く病院ビジネスを舞台とした【医療ミステリー】連載。毎週火曜日更新!
-著者プロフィール-
●田中幾太郎/ジャーナリスト
1958年、東京都生まれ。『週刊現代』記者を経てフリー。医療、企業問題を中心に執筆。著書は『本当に良い病院 悪い病院』『三菱財閥最強の秘密』(以上、宝島社新書)、『日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊/本日より時間外・退職金なし』(光文社)ほか多数。
<束の間の休息>
佐久間君代と正真正銘の夫婦になったものの、日常にほとんど変化はなかった。そもそも、私たちが結婚したことを知っている者は、当事者以外ではこの世に2人しかいないのだ。婚姻届の証人になってくれた佐久間の以前のパートナー白木みさおと、看護専門学校の同級生、立山葉子だけである。2人には当分の間、口外しないでくれと頼んであった。
「レズビアンは口は堅いわよ。どんなことがあっても、私たちは仲間を必死で守る」
佐久間は自身も入っていたレズビアンサークル「毬子(まりこ)会」の絆を強調する。
「せっかく夫婦になれたのに、誰にも喋れないというのも淋しいよな。いつか、盛大に結婚式を挙げよう。君のゴージャスな花嫁姿をみんなに見せつけてやろう」
「子どものころから、ウェディングドレスとか白無垢とか、憧れはないのよね。落ち着いたら、新婚旅行とかは行きたいけど」
「どこか行きたいところある」
「北欧かな。オーロラを観てみたい」
「だったら、ノルウェーがいいな。マスを塩漬けにして発酵させた本場のラクフィスクを肴に、キンキンに冷やしたアクアヴィットを飲りたいね」
北欧やドイツで造られるアクアヴィットはジャガイモを主原料とする蒸留酒だ。香草で風味付けをして蒸留したあとはすぐにビン詰めするのが一般的だが、ノルウェーのアクアヴィットはじっくり樽で熟成させるので、濃厚で複雑な味がするのだ。10年以上前、土の香りがするこの酒にはまっていた時期があり、行きつけの銀座のバーでストレートを何ショットもお替りした思い出がある。
だが、新婚旅行に行ける日など、すぐに来るのだろうか。誰にも知られずに、2人だけ何日も留守にすることなど、当分できそうもない。チーム小倉のプロジェクトがスタートした以上、突っ走るしかないのだ。
「必ず行こうね」と言うと、佐久間は「あまり期待せずに待っている」と笑った。いまのところ、こうした他愛ない話をしながら、夫婦であることを忘れないようにするぐらいしか、できそうにない。
プロジェクトのほうは順調だった。ゴールデンウィーク明けに期日を迎えた安井会グループの手形も、私が遺産相続で手に入れたカネでしっかり決済できた。もちろん、供出したカネは資金繰りが改善したら、私に戻ってくる。
手形を落とすために高利のカネを借りるようなことを続けていたら、いつまでもたっても泥沼から抜け出せない。銀行をはじめ金融業者を儲けさせるだけである。どこかで一度、この悪循環を断ち切る必要があるのだ。
それが今回だった。放っておけば、安井会グループは破綻し、傘下の7つの病院が立ち行かなくなる運命にあった。だからこそ、私たちチーム小倉に入り込む余地を与えたともいえる。同様に、元国立大医学部生で鈴代組の企業舎弟の病院乗っ取り屋、尾方肇までがひと儲けをたくらみ、介入を試みたわけだが、見事、撃退に成功した。
その結果、安井芳次が襲われ、重傷を負うという事態を招いたものの、小倉明俊になりすます天才外科医、吉元竜馬の手技によって無事生還。現在は名誉理事長として、現場に復帰している。といっても、かつて絶対君主として君臨していた安井にあまり存在感を出されても困るのだが、いまの立場をわきまえているのか、病院の運営に口を出すことはない。
<語り始めた実行犯>
2013年5月11日(土)午後6時、安井中央病院の理事長室でチーム小倉の会議が開かれた。安井が襲われた4月21日以来だ。私(下川亨)、佐久間君代、蒔田直也、小倉明俊こと吉元竜馬の4人に加え、埼玉県警の所轄署に勤務する湯本利晴刑事もオブザーバー参加した。報告したいことがあるという。部外者の湯本が同席する以上、間違っても吉元の名前は出してはまずい。「小倉先生」もしくは「小倉理事長」と呼ぶことを徹底するように、事前にメンバー同士で確認し合った。
「安井襲撃実行犯の鹿間凌は当初、指示したベルファイナンスの木村恭二郎や尾方肇について一言も喋ろうとしなかった。ところが、今月3日に勾留延長が決まると、態度に変化が現れるようになった。自分だけ責任を取らされるのが馬鹿らしくなってきたのか、木村らから命じられたと少しずつほのめかすようになってきたんです」
塀の中で成人式を迎えた鹿間凌が少年院を出たのはその年の6月。それからまもなく、人不足に悩む広域暴力団の鈴代組にスカウトされ準構成員になった。その後は、組のナンバー2の木村恭二郎が代表を務めるフロント企業のベルファイナンスで取り立てをやらされていた。
「相手はにっちもさっちもいかなくなった多重債務者ばかりで、詐欺をやらせて返済させるんですが、鹿間はそれが嫌でたまらなかった。彼自身、詐欺で少年院に入れられているので、自分は警察からマークされているし、こんなことをやっていたら、また捕まる公算が高いと思っていたようです。もちろん、今度は少年院ではすまないですしね。それでもベルファイナンスにしがみついていたのは、木村がかわいがっている尾方のもとで、いつかはでかい仕事をさせてもらえると信じていたからです」
鹿間は取り調べの刑事から、尾方が雲隠れをしていることを聞かされ、不安が募ったらしい。犯行のあと、鹿間は熊谷から新宿に出て、ネットカフェで尾方と会っている。しかし、そのあとの尾方の足取りがまったくわからないのだ。刑事は鹿間に「木村と尾方は責任を全部、オマエに押しつけようとしているんだ」と言った。それでも口を開こうとしない鹿間に、刑事は追い討ちをかけるように続けた。
「拳銃まで持たされたんだろ。それで撃って相手が死んでいたら殺人罪だぞ。もし一命をとりとめても殺人未遂で長期刑は確実だ。でも、拳銃を使わなくてよかったよ。検事がどう判断するかだが、殺人未遂では起訴せず、傷害ですむかもしれない。心証を好くするには真実をしっかり供述することだ」
鹿間の目が泳いだのを見た刑事は、「オマエ、まだ22歳じゃないか。いくらでもやり直しがきく。暴力団なんかに義理立てしたって、あいつらは何も返してくれないぞ」とたたみかけた。
チーム小倉の面々に取調室の模様を説明していた湯本刑事は、「これで鹿間は一気に完落ちするんです」と言った。
「木村は鹿間に口頭で『安井をやってこい』と命じ、拳銃を渡している。明らかに殺人教唆ですよね。ここまでは推測通り。指示は木村が行い、尾方は犯行前に鹿間とは直接、コンタクトはとっていないと我々は見ていたのです。鹿間の携帯の履歴に尾方とのやり取りが残っていなかったですからね。しかし、鹿間の供述でそうではないことがわかった。ベルファイナンスの債務者から取り上げた携帯で、何度も連絡をとっていた。犯行直前にも尾方は『しっかりやってこいよ』と念を押しているんです」
<行方をくらませた尾方>
木村と尾方の逮捕状が出たのは2日前。昨日早朝、木村は逮捕された。
「いまのところ、完黙です。雑談すら乗ってこない。来年2月には70歳の大台だというのに、眼光はいまだ鋭い。東大経済学部の出身で、大学時代はマルクス経済学を専攻していたというインテリですが、従兄の鈴山峰雄組長に乞われて鈴代組に入った。敵対する勢力を潰すためだったら武闘も辞さない筋金入りのヤクザですよ」
血縁ながら、鈴山組長との関係は決裂寸前。ベルファイナンスが稼いだカネを湯水のごとく使ってしまう鈴山に、木村の鬱屈は頂点に達していた。
「鈴代組の内部分裂は避けられないところまで来ていましたが、現実問題として、木村がすぐに娑婆に出てこれないとなると、ベルファイナンスはどうなってしまうのか。木村の代わりになるような頭脳は見当たらず、立ち行かなくなるのは必至。資金面でベルファイナンスにおんぶにだっこだった鈴代組も著しく弱体化するのは避けられないと、我々警察は分析しています」
チーム小倉にとっては歓迎すべき話だろう。脅威となる勢力の反撃をそれほど気にする必要がなくなったのだ。もちろん、鈴代組がしのぎに困って何をしてくるかわからない怖さはあるが……。何より、気になるのは尾方の行方である。いったいいま、どこで何をしているのか。
「指名手配をかけられるかどうか、うちの署で検討中です。窮鼠猫を噛むではありませんが、チーム小倉の方々も用心してください」
こう言い残し、湯本刑事は帰っていった。
気がかりなのは尾方の行方ばかりではない。もうひとつ、一抹の不安を覚える情報が私のもとに届いていた。東京・山谷のドヤ街で亡くなり、身元不明遺体として処理されていた本物の小倉明俊の一件が事件化するかもしれないと、知り合いの警視庁筋から入ってきたのだ。
(つづく)