「生まれてきて、今が1番幸せだ」と思える人生のために -40から始める国際恋愛のススメ最終回-
これから日本を離れて世界へ飛び出す貴方へ
日本がつまらないと感じ、海外へ飛び出していく人が世の中には少なからずいる。というか、自分もまさにそのひとりだった。20代、30代は会社勤めをしながら行ける範囲で、エアーチケットやら宿代やらに湯水のように金を使った。
そして40過ぎになり、ようやく分かったことがある。
「日本がつまらないのではなく、自分自身がどうしようもなくつまらない人間なのではあるまいか」
薄々感づいてはいたのでショックはなかった。海外へ行く人がすべてそうだと言いたいのではなく、自分の場合はどこへ行っても単なる傍観者でしかなく、人との交わりも少なかったゆえ、旅で何かを学ぶこともなかったということだ。
度重なる世界遠征で唯一身についたのは、エロ方面のことばかり。生きていく上で何ら必要のない、というか有害ですらある知識だ。
その気づきがあったのは、自分が中国に渡る少し前のこと。
もはや海外に何の夢も持っていなかったが、既に留学ビザを準備して学費も払い込んでしまっていたため、何も期待せずに上海へと渡った。ましてや新たな出会いなぞ予想すらしていなかった。
そこで見つけた、オーバードーズ気味なまでに過剰な幸せと悲しみ。すべてが終わって数カ月経つ今も、思い出すとおっさんの身であるにもかかわらずいつでも泣けるほど、まだ余韻というか後遺症が残っている。
いったんこの味を知ってしまうと、ますます日本にはいられなくなる。自分のような人間には、日本で同じ体験ができるとはどうしても思えないからだ。
ゆえに今もまだ、自分は中国にいる。最愛の人はとっくに帰国しているにも関わらず。もちろん親兄弟に胸を張って言える生き方ではなく、立派なドロップアウトであることは自覚しているが、間違いなく言えるのは、日本で暮らしていた時よりも、今の方が幸せであるということだ。
これを読んでいただいている方の中に、日本を出たい、海外で生きていきたいと考えている若者、もしくは自分のようなおっさん諸兄がいるかもしれない。
迷っているなら、行くべきだ。
無責任かもしれないが、それでもあえて筆者は貴方の背中を押したい。平坦な人生よりも、ほんのひと時でもいいから生まれてきたことに感謝できる人生の方が価値があると自分は信じている。
というわけで本シリーズ最終回。
中年から始めた海外留学でひょっこり好きな子を見つけたはいいものの、速攻で脈なしと分かり絶望。やがて別れの日がやってきた、的な話。
先に言う。ここまでお付き合いいただいて本当にありがとうございました!
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上海は貴方に「魔法」がかかる街
上海のことを「魔都」という。1923年に上海を訪れた日本人作家が「魔の住む街」と表現したことに由来するのだが、100年近く経った今日でも死語となっていないどころか、中国人ですら上海をさまざまな想いを込めて魔都と呼ぶ。
解釈は人それぞれだ。「魔物の住まう街」「人を狂わす街」「金と欲にまみれた街」。でも、留学生活を振り返って自分はこう思う。「魔法がかかる街」。ゆえに魔都と呼ぶのがふさわしい。
むろん魔法のかかり方も人それぞれで、イリュージョンの世界から帰ってこれなくなってしまう奴もいた。
隣のクラスのフランス人は何があったか知らないが卒業目前にして薬物売買で捕まった。先生いわく、軽くて懲役10年~15年、量によっては執行猶予付きの死刑。仲良しのギニア人女子は「でも彼は中国語上手だからプリズンでも大丈夫よ」と言っていた。
幸い自分にかかった魔法はそういう類のものではなく、願いを言葉に発すれば、というか思ってもいなかったことすらも天に届くかのような、幸福に満ち溢れた日々だった。悲しみを差し引きしてもまだおつりがくる幸せを、中国生活で得ることができたと感じている。
人に幸せをもたらすのは、やはり人だ。
そんなの当たり前っしょ、と即座に答えられる方のことをうらやましく思う。恥ずかしいことに自分は、人生のリセットボタンを押して海を渡らないと気づけなかった。
海外旅行で、空港の出発ゲート前で泣き崩れている人を幾度となく見たことがある。実はこれまで、あの人たちが何故あそこまで泣けるのか不思議で仕方がなかった。はっきり言えば、自分は人の気持ちが分からない人間であり、これまでの人生でそういう濃密な人間関係がなかったのである。
そして偶然にも、上海で出会ったタイ人華僑のニンちゃんも自分と同類だった。
“空港の出発ゲートで泣く人”の気持ち
彼女の目に映る自分はしょせん女友達であるということが分かってしばらく経ってからのこと、ニンは突然「そろそろ帰国する」と言い出した。
ひょっとして嫌われたのかと思いきや、理由は「お母さんの誕生日だから」。日本人には理解しがたいが、似たようなことでたくさんのタイ人留学生が卒業を待たずばっくれる準備をしていた。「上海の冬は寒い」という理由で帰国した学生もいたほどだ。
ニンは「いつでもタイか日本で会える」と言って平然とした様子だったが、自分にはお互い一度離れ離れになったら上海の魔法が解けて、もう今みたいな関係には戻れないことが分かっていた。
自分のことを、頼れる「お姉さん」と思っている、極度の男性恐怖症である彼女。そんな子にいきなりラブレターなんぞ渡した日には、どんな反応をするやら全く読めぬ。チケットを買い替えていきなり即日帰国してしまうかもしれない。
悩んだけれど、ここは行動しないとおそらく一生後悔するタイミングと思い、彼女が帰国する直前にこのnoteを遥かに超える長文で、学んだ中国語力を限界まで発揮して自分の想いをメールで伝えた。この時ほど直接言葉で伝える勇気があればと悔やんだことはない。が、できないものはできないのである。
で、送信。
全部読むにはスマホ画面を1mくらいスクロールせねばならなかったかもしれない。というか、どこまで伝わったかは正直今でも分からない。
でも、ニンが帰国する前の最後の一週間は、まるで家族のように彼女と一緒に過ごした。
すっぴんの彼女、パジャマ姿の彼女、おならが出そうだからちょっとあっち行っててとか言う彼女。
ニンの部屋の湯沸かし器が壊れた日には流しで髪の毛を洗ってと頼まれて、人生で初めて最愛の子の頭を洗う経験もした。でも自分が送ったメールに関する話題はお互い絶対切り出さない究極の寸止め関係であり、不思議な心の探り合い。
どこまでも友達だけど、近すぎて心臓の鼓動まで骨伝導で聞こえてきそうな距離感のまま迎えた最終日。空港で、本当にお別れの時が来た。
お互い平静を装っているが、彼女は気持ちが高ぶると耳が真っ赤になる癖がある。ちらりと見たら、両耳が自然発火しそうなほどいい色になっていた。
そして向かった上海浦東空港の出発ゲート。
彼女と出会って初めて、手を繋いだ。その瞬間、これまでクラスの送別会でも、先生との別れでも絶対に人前で涙を見せなかった彼女が、唯一自分との最後の瞬間に、耳だけじゃなく顔を真っ赤にして泣いた。抱き合って一緒に泣いた。
これが魔法でなくて、何であろう。こんな体験を与えてくれた上海を、そして中国という地を、どんなに不快なことがあろうが自分は嫌いになれない。
彼女との寸止め関係の行方
それから8時間くらい経って、彼女から連絡が来た。お父さんが迎えに来てくれるって言ってたのに待たされていて本当にうちの親はどうのこうの、ああ仕事がたまっていて明日から休めないムッスウウゥゥ! といった全力の怒りと愚痴メール。どうやら帰国した瞬間に、彼女にかかっていた魔法は解けてしまったようだった。
一体あの涙は、何だったのか。立ち直り早すぎ! と思ったが、それも彼女らしかった。自分は今でもしっかり引きずっているし、魔法の余韻のようなものが残っている。男なんぞより女子はよっぽど逞しいと改めて思い知らされた。
ニンとはその後バンコクで何度も会ったし、今でも連絡をよく取っているけれど、以前よりはちょっとお互い冷静になって、遠距離寸止め関係を続けているような感じ。それはそれで楽しくて、同時に苦しい。正直言えば苦しみの方が大きいとすら思う。
でも、この経験がなかったら、自分の人生はもっと味気ないものだったろうと思うと、後悔は微塵もない。
海外へ行くことに限らず、迷っているなら一歩を踏み出してみるべきだ。失敗しても、いいじゃない。ゴールにたどり着けなくても、その経験は貴方にとって、きっと大切なものとなる。これがどうしようもない40男であるわたくしから、自分の体験を通じて皆さんにお伝えしたいことだ。
健闘を、祈ります!
<執筆者プロフィール>
もがき三太郎
出版業界で雑誌編集者として働いていたが、やがて趣味と実益を兼ねた海外風俗遊びがライフワークとなる。現在は中国を拠点に、アジア諸国と日本を行き来しながら様々なメディアに社会問題からドラッグ事情まで、硬軟織り交ぜたリアルなルポを寄稿している。