登場人物

【医療ミステリー】裏切りのメス―第12回―

【前回までのあらすじ】
 事務方の天才・蒔田直也のスカウトに成功した下川亨は、天才医師・吉元竜馬(小倉明俊)、看護部長・佐久間君代とともに病院再建屋集団「チーム小倉」を結成。最初のターゲットとして、北関東を中心に展開する「安井会グループ」に照準を絞った。
 陰謀渦巻く病院ビジネスを舞台とした【医療ミステリー】連載。毎週火曜日更新!
-著者プロフィール-
●田中幾太郎/ジャーナリスト
1958年、東京都生まれ。『週刊現代』記者を経てフリー。医療、企業問題を中心に執筆。著書は『本当に良い病院 悪い病院』『三菱財閥最強の秘密』(以上、宝島社新書)、『日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊/本日より時間外・退職金なし』(光文社)ほか多数。

<ターゲットの素性>

 安井会グループについてはかねてからいろいろ調べていたものの、内情がわからない部分も多かった。ここをチーム小倉の最初のターゲットにする計画が本決まりとなったので、さらにディープな情報を集めることにした。現在はWeb会議だけ参加している蒔田直也が実働部隊として始動する2013年4月初めまでには、なんとしても体裁を整え、相手方に乗り込みたい。となると、あと1ヵ月ちょっとしか時間がない。急ピッチで、安井会グループ傘下の病院がある北関東で開業している知り合いの医師たちのところをまわった。

 地元の病院に関する情報を一番持っているのは開業医なのだ。自分の患者に重度の症状があったら総合病院に転院させるので、良好な関係を築いておかなければならない。日ごろからそこの医師や事務方の幹部を接待し、自然と内部事情にくわしくなっていくのである。

 それにしても、地元に密着する開業医たちの情報網は想像以上だった。料亭での接待の際は、人事動向から医師と看護師の不倫まで、興味深いネタが当たり前のように次々に飛び出してくるのだそうだ。あそこの外科部長は息子が東京の私立医大受験の際、3000万円の寄付金を払い、点数のゲタ履かせをしてもらって合格したなどという情報も入ってくる。そのくらいの金額になると、流行っている開業医ならともかく、勤務医では右から左というわけにはいかない。カネは入院患者からの謝礼をせっせと集め捻出したという。

 開業医たちはルーティンワークのような普段の診療に飽き飽きしているのか、喋りたくてうずうずしているような連中だった。安井会グループの情報も容易に集まってきた。特に重要なのは、一代でグループをつくり上げたワンマン経営者の安井芳次理事長に関するものだ。この人物を籠絡することが、チーム小倉の初仕事が成功するかどうかのカギだった。

 安井は首都圏の国立大医学部の出身。団塊の世代だが、彼が受験するころには国公立の医学部の難易度は跳ね上がっていた。狭き門を突破しただけでなく、卒業時は首席だったというから、相当優秀だったのだろう。

「安井さんが生まれたのは群馬県の片田舎。生家は鉄工所を営んでいたのですが、彼が中学1年のときにお父さんが亡くなり、その後は金銭的にとても苦労したようです」と話すのは同じく団塊世代の開業医。安井とはゴルフ仲間だった。

「中学、高校では学年で群を抜く成績だったこともあり、親戚の援助で大学に進んだんです。卒業後、大学病院の消化器内科に数年在籍して開業。30歳になってまもなくですから、かなり早い。とにかく稼ぎたかったのでしょう。カネに対する執着は並外れていて、小遣い銭程度の賭けゴルフでも負けるのを嫌がった。林に打ち込んだ球を打ちやすいところに移すのは日常茶飯。平気でズルをするんです」

 開業資金は地方銀行から簡単に借り入れることができたという。高校時代、全国模試で常に上位だった安井の優秀さは、そのころから地元では知れ渡っていた。医師となって戻ってきた安井に対し、銀行の側も有力な融資先ができたと歓迎していたのである。

 地元の星は周囲の期待を裏切らなかった。病床ゼロの診療所からスタートし、4年後には増築して15床の有床診療所に。その5年後には、新たに120床の病院を開設した。

「まさにトントン拍子。地銀で安井さんの最初の担当だった融資係は役員に昇進。持ちつ持たれつの関係ができていて、病院開設の資金調達にも四苦八苦することはなかった。その後、120床の病院は250床に増床。さらに別の地区にも進出し、300床と400床の総合病院を開設。飛ぶ鳥を落とす勢いでした」

 1990年代、所轄の税務署で安井の納税額は断トツの1位だった。地元選出の議員や厚生族議員らがカネのにおいを嗅ぎつけて群がるようになっていた。傘下の病院も7施設まで増えていた。そのうちのひとつは、経営が悪化した東京の病院を行政から泣きつかれて引き受けたもの。数年で立て直し、さらに評価を高めた。

「東京進出を成功させ、安井さんは得意の絶頂でした。立志伝中の人を地で行くような感じで、いくつかの出版社からは自伝を出してみないかというオファーもきていた。といっても、その費用1000万円を出してくれといったような話なんですが、本人もその気になっていた」


<安井芳次の転落>

 ゴルフ仲間の開業医はこう振り返るが、ちょうどそんなころに悪夢が襲う。2008年のリーマンショックである。安井会グループに対する貸し渋りや貸し剥がしが起こったのだ。

「地銀が手のひらを返すように、長期借入金の返済を求めてきたんです。短期借入についても、今後は厳しくなると通告された。安井さんが懇意にしていた役員はすでに退職。向こうも手をつけやすい状況ができていた。私のところも規模は1000分の1以下ですが、同じ地銀と取り引きをしており、支店長クラスと話をしたんです。彼によると、安井会グループとの取引は見直すべきだとの声が以前から出ていたそうです。安井さんのやり方では早々に危なくなるとの見方が銀行内で広がっていたのです」

 そうした時期にたまたま、リーマンショックが重なっただけというのが銀行側の言い分だった。事実、安井会グループの業績はだいぶ前から悪化していた。そのひとつの原因が東京進出だった。引き受けた病院は老朽化が激しく、改装に莫大な費用がかかってしまったのだ。安井は東京進出が失敗して自分の名声にヒビが入るのを怖れて、カネに糸目はつけないという姿勢で臨んだ。

 東京のスタッフには、これまでの病院よりもはるかに高い給与額を設定した。そうした話はすぐに洩れ伝わる。その事実を知った他の6施設の職員たちは次々に辞めていった。

「安井さんは極度の吝嗇家ですから、職員たちに払う給料をずいぶん低く抑えてきた。なのに、いくら物価の地域差はあるにしても、東京とのあまりの待遇の差に、怒りを通り越し、誰もがあきれてしまった。こんなところにはいられないという職員が続出したんです」

 人材の流出は経費の増大を招いた。新たなスタッフを雇い入れるための費用に加え、給与水準も上げざるをえなくなったからだ。そうした状況に危機感を抱いた地銀から三下り半を突きつけられ、高い金利で資金を調達しなければならなくなり、さらに業績の悪化を招くという悪循環に陥っていた。「いずれにしても、すべては安井さんに起因している」と昔からの友人である開業医は指摘する。

「絶対君主がいて、あとは全員が家来という体制になったのが不幸でした。安井さんに物を言える人間はグループ内には皆無だった。まるで裸の王様です。しかも、彼には家族もいない。一回も結婚していないんです。愛人は何人もつくったものの、結局、長続きした相手はいなかった。心を許せる人間が周囲にひとりもいなかったのです」

 これを聞いて、つけ込む余地はかなりありそうだなと、私は内心ほくそ笑んだ。

<30億の預金通帳>

 3月16日、チーム小倉の7回目のWeb会議が開かれた。そこで、私はこれまで集めた安井会グループの情報を報告した。「融資をちらつかせて乗り込めば、きっとうまくいくと思う」と話した。それに対し、疑問の声を上げたのは蒔田直也だ。

「融資をちらつかせるといっても、架空話だけでは相手を信用させられないんじゃないですか。短期借入にも困っているとしたら、少なくとも2ヵ月分の人件費は用意しておく必要があるのでは」

 私が「事務方の天才」と評しているだけあって、蒔田の言葉はさすがに鋭い。病院の最大の収入は診療報酬である。うち3割は患者が即日、現金で払うが、残りの7割は公的医療保険で支払われる。それが入金される期日は約2ヵ月先。患者負担の分だけでは病院の人件費はとても賄えないので、2ヵ月のタイムラグを埋める当座のカネが必要なのだ。

 実は、私はこの件に関し、すでにシミュレーションを重ねていた。安井会グループの7施設でかかる2ヵ月分の人件費や他の経費から患者負担分の現金収入を除くと、およそ20億円の現金が必要になると予測していた。

 私は自身の預金通帳を開いて、カメラに向けた。各自のモニターに映ったはずだ。蒔田、小倉明俊こと吉元竜馬、佐久間君代から同時に「おおぅ」と感嘆の声が上がった。通帳には30億円の数字が刻まれていた。

 4年前、両親が相次いで亡くなり相続したものだった。父は東北で不動産会社を経営し、かなりの資産があった。弟がその会社を継いでいたので、自社株や不動産はすべて譲り、すぐに現金化できそうなものだけを私が受け取ったのだ。

「普通口座にこれだけのカネを入れているなんてもったいないと、銀行や系列の証券会社からはさかんに投資を勧められたんだが、こんなときのためにとっておいたのです」

 モニターに映るメンバーたちの顔から、疑心暗鬼の表情が完全に消えた。
(つづく)

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