【医療ミステリー】裏切りのメス―第53回―
【前回までのあらすじ】
チーム小倉のリーダー下川亨と妻・佐久間君代が狙われた事件で、チームの湯本利晴は現場にあった空のワインボトルを回収していた。前職の伝手を使って科捜研に調査に出したのだ。一方、一番の疑いをかけていた尾方肇にはアリバイがあった。兄貴分の木村恭二郎の出所祝いパーティに出席していたのだという。犯人探しは振り出しに戻ってしまった。
陰謀渦巻く病院ビジネスを舞台とした【医療ミステリー】連載。毎週火曜日更新!
-著者プロフィール-
●田中幾太郎/ジャーナリスト
1958年、東京都生まれ。『週刊現代』記者を経てフリー。医療、企業問題を中心に執筆。著書は最新刊として『歯医者のホントの話』(KKベストセラーズ)、その他にも『本当に良い病院 悪い病院』『三菱財閥最強の秘密』(以上、宝島社新書)、『日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊/本日より時間外・退職金なし』(光文社)など多数。
<尾方のアリバイ>
もはや、尾方肇のアリバイを崩す手立てはついえたようだった。私と佐久間君代を狙う企てを実行に移した時刻に、尾方が木村恭二郎の出所祝いパーティに出ていたのは動かしようもない事実だった。
もし、トリックがあるとしたら、誰にも気づかれずに抜け出して犯行に及び、何食わぬ顔で席に戻っている。そんなところだろうが、パーティー会場のクラブがあるビルの外に尾方が出た形跡はなかった。何しろ、湯本利晴が7ヵ月前まで在籍していた埼玉県北部の所轄署の刑事2人が張り込んでいたのだ。ひとりは40代後半のベテラン。尾方がひそかに外に出ていたとしても、見すごすはずはないという。
「クラブのママやホステスにも確認しましたが、下川さんと佐久間さんが襲われた4月16日の晩は、午後8時から午前1時までほぼずっと、尾方は店内にいたそうです。席を外したのは、手洗いに立ったときだけ。化粧室はビルの各階にひとつずつある共用で、店の外にあります。尾方は2回ほど使っていますが、いずれも化粧室の前までホステスがつきそい、1分足らずで用を済ましている。尾方を犯人とするのは無理じゃないでしょうか」
同感だった。つまり、結論はシロ。これ以上、尾方を犯人と想定して事件を追っても、時間を無駄にするだけだろう。湯本の慰労を兼ねた割烹での2人だけの酒宴も、そろそろお開きにすることにした。
「今日はどうもごちそうさまでした。フグの白子なんて口にするのは10年ぶりですよ。ところで、チーム小倉の会議を開きませんか。下川さんと僕の2人だけでなく、メンバー全員が一連の事件について情報を共有しておいたほうがいいと思うんです。全員といっても、4人しかいなくなってしまいましたが……。メーデーあたり、どうでしょうか。科捜研の友人に頼んでおいた件も、そろそろ結果がわかるころでしょう」
<膵臓がん手術の名手>
2017年5月1日(月)午後8時、安井中央病院の理事長室に私、理事長の小倉明俊こと吉元竜馬、湯本利晴、佐久間君代の4人が顔を揃えた。吉元は相変わらず機嫌が良さそうだった。映画「地獄に堕ちた勇者ども」のヘルムート・バーガーに似た甘美な面影はもはや、どこにもなかった。顔面を覆うひげは精悍さを演出。まさに、「安井会の天才赤ひげ先生」のニックネームにふさわしい風貌になっていた。
「小倉先生、元気そうですね」
「うん、先週も3回、執刀しましたよ。金曜日は東京で膵臓がんの手術だったけど、うまくいったな」
かつての天才脳外科医はいまや、肝胆膵外科医として知られる存在になっていた。もちろん、吉元竜馬としてではなく、小倉明俊としてである。安井会グループの9病院を飛び回り、特に膵臓がん手術では東日本で一二を争う名手との呼び声も出始めていた。この分野での執刀を始めて、わずか4年足らず。天才の称号がつけられる外科医は山ほどいる。医療界でやたらと使われるその形容に、どれほどの価値があるか怪しいが、吉元は正真正銘の天才外科医だった。
先週金曜日に吉元が執刀した都内の病院は、安井会グループ前理事長の安井芳次が1990年代後半に地元自治体に乞われて再建を引き受けたもの。初の東京進出だったが、赤字を垂れ流す状態が続き、グループにとってお荷物になっていた。ところがチーム小倉が経営を担うようになると、まもなく黒字に転換。殺された事務方トップの蒔田直也の手腕によるものだった。そしてもうひとつは、吉元の外科医としてのたぐいまれなる能力が大きく寄与していた。
吉元が手術チームに加わって、同病院の外科部門の優秀さが注目を集めるようになった。本来の専門の脳神経外科にタッチすることはなかったが、他の外科領域では吉元は積極的にメスを握った。そのすべてが超一流だった。インターネット時代の情報の伝達は早い。瞬く間に評判が広がり、神の手技を間近で見たいと、若手精鋭の外科医たちが他病院から次々に移籍してくるようになったのだ。
それにしても、吉元が金曜日に行った手術の内容を聞いて、私は不思議な因縁を感じずにはいられなかった。膵臓がんの5年生存率は7%台。全がん中、ワースト2の胆道がんでも20%を超えている。吉元が手がけたのは、膵頭十二指腸切除術。膵臓がんだけでなく、腹部の手術の中でも、もっとも難易度が高いとされる術式だ。そして、本物の小倉明俊が転落するきっかけとなったのも、この手術だった。
関西の総合病院に勤めていた肝胆膵外科医の小倉が60代の女性患者に膵頭十二指腸切除の手術を施したのは2000年代半ばのことだった。その数日後に患者は合併症を引き起こし、死亡した。小倉は業務上過失致死で逮捕・起訴され、地裁で無罪。高裁でも無罪となり、検察側が上告を断念したため、判決が確定した。
だが、小倉が復職することはなかった。裁判中、休職していた小倉はアルコール依存症が進行。無罪が確定するころには、酒が切れると手が震えだし、メスを握ることもできなくなっていた。その後、関西から姿を消した小倉は、日雇い労働者が多く暮らす東京の山谷地区で路上生活を続け、4年前に不審死を遂げていた。
何とも形容しがたい奇怪な星の巡り合わせだった。その小倉になりすます吉元はいまや、外科医として頂点をきわめようとしている。だが、どんなに時間が経過しようと、吉元は自分の本名を名乗ることはできない。彼の成功は小倉明俊の名声を上げることにつながっても、吉元竜馬の存在は消えたままなのだ。
しかし、当の吉元はそんなことには無頓着な様子だった。
「いま、千葉のうちの病院に、大学病院で治療が難しいと宣告された膵臓がんの患者さんが来ているんだけど、診察したところ、手術できそうなんですよね。たしかに、膵臓のまわりの動脈に浸潤があるので、慎重に切除しないと、がんが残る場合も多い。でも、それは技術の問題であって、修業した外科医が自信を持って臨めば、しっかり取りきれるはずなんです。明日、僕が執刀することになっています」
手術の話になると、吉元の口からとめどもなく言葉があふれてくる。名誉とかの問題ではなく、メスを握るのが楽しくて仕方ないのだろう。まさに、水を得た魚のようだった。だが、これ以上、「外科医・小倉明俊」に注目が集まったら、どうなるのか。大学病院で見放された患者が安井会グループの病院に行けば治るとなれば、いい宣伝になる。そのこと自体は願ったりかなったりなのだが、小倉の存在がクローズアップされるのだけは避けたい。
私が怖れているのは、西日本まで「小倉明俊」の天才外科医ぶりが轟くことだった。不当にも検察から訴えられ、失意のうちに姿を消した外科医の復活劇なのだ。しかも、外科医としての技量が以前よりも信じがたいほどパワーアップしたとなれば、地元関西のマスコミの中に、興味を持つ者が現れてもおかしくない。調べていけば、安井会グループ理事長の小倉が別人であることに行き着くかもしれないのだ。
だが、外科医としての本能がよみがえったいまの吉元に、執刀をセーブさせるのは難しいだろう。いずれ、じっくり話し合わなければならないが、もはやそのタイミングを逸してしまったような気もする。考えれば考えるほど、不安は増幅していく。私は動揺を隠すように、湯本に事件の報告を促した。
<ワインコルクから医療用麻薬>
「下川さんと佐久間さんが一酸化炭素中毒におちいったのは、事故ではなく事件と見て間違いなさそうです」
湯本はその理由を明かす前に、事件のあらましを話した。私と佐久間は当事者だから、おもに吉元に向けてのものだ。吉元にはくわしい内容はほとんど伝えていない。湯本による報告を聞き終わっても、吉元は「ふーん」と言ったきりだった。関心があるのか、ないのか、その表情からは読み取れない。
「埼玉県警の科捜研にいる友人から、結果が上がってきました。下川さんの部屋にあった空のワインボトルからは、怪しい物質は何も出てこなかった。ただ、コルクからは微量ですが、医療用麻薬オピオイドが検出されたそうです」
やはりそうか。ひとつだけ驚いたのは、コルクからしか、オピオイドが検出されなかったことだ。湯本が現場である私の部屋に駆けつけたため、犯人に与えられた時間は非常に短かった。おそらく、長くても20分しかなかっただろうというのが元刑事である湯本の推理だった。蒔田と白木が殺されたときも、ワインボトルはきれいに洗われていたが、今回もその短い時間の中で犯人は証拠の隠滅を謀ったのだ。
「犯人はよほど用心深いに違いない。ただ、コルクまでは頭が回らなかったのでしょう。実際、検出されたオピオイドはごくわずか。以前の検査だったら、見逃されるほどの量だったと、科捜研の友人は話していました。いずれにしても、この結果から、下川さんと佐久間さんの一件は事件であることがはっきりしました。そして、その手口から蒔田さんと白木さんを殺したのと同じ犯人である可能性がきわめて高い」
「となると、埼玉県警も動きだす?」
「それは残念ながら確約できません。一応、今回の件も、僕がいた所轄署の刑事第二課の佐山翔係長に伝えてありますが、コルクからオピオイドが検出されたといっても、あまり食いついてきた様子はなかった。帳場(捜査本部)は立ちそうにないというのが正直な感触です。課の刑事を2人くらいは動かしてくれるかもしれませんが、この件だけに張りつくのは期待薄でしょう」
いまの段階で警察の介入はなさそうだと聞かされ、実のところ、ほっとしていた。数日前に、新たな病院の買収話が持ち込まれていた。安井会グループとしては節目となる10施設目の病院だけに、どうしても成功させたかった。買収前に事件が表沙汰になって、ごたごたの中で話が流れてしまうのを怖れたのだ。ずるいかもしれないが、事件の真相を追うのは、話がまとまってからでも遅くないと思った。
(つづく)