北朝鮮の誇り高きアガシを求めた苦難の行進-閉ざされた国の麗しき美女と交わる旅-
■北の美女たちへの片想い
祖母が亡くなって、3年になる。
戦争で夫を亡くし、空襲中に父を生んだ自分の祖母は日大病院で用務員を定年まで勤め上げ、女手ひとつで2人の子供を育て上げた。
「人に迷惑をかけるな」が口癖のどこにでもいる普通のおばあちゃんであり、日本人だった。
自分は親が共働きだったので、子供の頃の思い出といえば祖母と過ごした時間ばかりが思い出されるのだが、普段は温厚でいつも笑顔を絶やさないおばあちゃんが一度だけ自分に見せた、ある表情が今も忘れられずにいる。
ふたりで街を歩いていて、再開発が進む一角を通り過ぎた時のこと。いつも穏やかな表情の祖母が突如キッと目を吊り上げ、口を歪ませながら「このあたりに住んでた朝鮮人もやっといなくなって…」と吐き捨てるように言った。それはどんな名女優にも真似できないであろう、自然にして醜悪な表情だった。
おばあちゃんはバリバリの戦中派であり、竹槍でB29と戦った世代である。戦争が終わっても頭の中には昔の日本人の思考がタイムカプセルのように眠っていて、それが「朝鮮人」というキーワードで開いてしまったのだと思う。自分が知らなかった祖母の一面に衝撃を受けたと同時に、かつての朝鮮人との関係がいかなるものだったか、その片鱗を見た気がしたことをよく覚えている。
幸いにして、自分は祖母からそんな偏見を叩き込まれることはなく、むしろ成人してからはこの不可思議な隣国に関心を持つようになった。プライドが高く反骨心に満ちていて、暑苦しいほど人情に厚い国民性。
日本と似ているようで、よくよく観察すると全く異なる社会と文化。そして、ややこしすぎて投げ出したくなるほど複雑に絡み合った歴史的な結びつき…。
世の中にはいろんな考え方の人がいて当然、南北の半島国家に対して嫌悪を覚える人に何か物申したいという気は毛頭ないが、自分の場合は朝鮮に、特に閉ざされた北側に激しく興味を惹かれた。そして、成人してからは北の女性と何としても触れ合いたいという憧れすら抱くようになっていた。
この片思いには、理由がある。
まだ海外を巡り始めたばかりの頃、なんとか北の女性と交流する機会はないかと考えた自分は、アジア各国にある北朝鮮国営レストランを片っ端から訪れた。プノンペン、珠海、ダナン、北京、シェムリアップ、上海、カトマンズetc…各地の朝鮮国営レストランで出会った北の女性たちはみな美しく才気に溢れ、そして誇り高かった。
まるで軍隊のように規律正しく、客に対して親しそうな笑顔を見せる子もいるが、絶対に心は開かない。数カ国語を操る子なんかもザラに居て、1回店に行っただけで顔と名前、国籍を覚えられていたことも数知れず。ショータイムになるやいなやステージに上がり、幼児の頃から国家に仕込まれて体得したとしか思えないレベルの高い歌や踊りを披露する。それほど優秀な女性が、酔っぱらいの客に酒をついで回るという無慈悲なまでの不条理。北朝鮮以外の国に生まれていればこの子たちにどれほどの未来があったのだろうかと思うと、愛しさを覚えずにはいられないのである。
包み隠さず言うと、もしあなたがアジア各国でその土地の女性と交わりたいと思うなら、手段さえ選ばなければ願いは叶う。しかし唯一、北朝鮮だけはそうはいかない。どれほどジャパンマネーを積んだとしても、北朝鮮レストランの女性が一夜を共にしてくれる、ということは基本的にはありえない。
身も蓋もない話だが、北の女性に惹かれる理由はそこにあるとも言える。最も難易度が高く未知に溢れた彼女たちに触れずして、アジアの性は語れない。そのような想いを胸に、筆者は「閉ざされた北の美女」を求めて各地を彷徨い、散財した。
これは、朝鮮を愛してやまないひとりの男が、究極の高嶺の花である北朝鮮アガシを求めてアジアを駆け巡った、苦難の行軍の記録である。
前置きが長くなったけど読んでね!読んでね!
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■国境沿い・丹東での戦い
まだ中国語もろくに喋れない頃、フラリと中朝国境を訪れた。祖国から逃れてきた北の女性たちが国境の街の性産業で働いているらしい、という未確認情報を確かめるためだ。
当時、中国では性風俗の一斉取り締まりが行われており、ちょうど「性都」と呼ばれた东莞が壊滅したばかりの頃だった。それでも13億の人民を擁する大中華。国土の隅々まで取締りの波が行き渡ることあらんや、いわんや中朝国境をや。といった激甘予想を胸に抱いて、遼寧省丹東の地を踏んだ。
北朝鮮の都市・新義州と鴨緑江を隔てて向かい合う、辺境の都市・丹東。川沿いのホテルの部屋の窓からは、新義州の街が一望に見渡せた。山野にはほとんど樹木がなく、今にも崩れそうな建物が並び、夜になると灯りは皆無。破綻国家の名に恥じない「ザ・社会主義」といった光景である。
さっそくその夜、北朝鮮美人を求めて徘徊を始めた。
丹東の街の第一印象は、とにかく銭湯が多いということだ。「洗浴」という看板が掲げられており、廃屋同然のオンボロなところからネオンギラギラでどう考えてもまともな銭湯ではないところまで、過剰にお風呂屋さんだらけ。まるで日本の雄琴や川崎のようなソープランド街の雰囲気を醸し出していた。
しかし、その全てが風俗仕様とは到底思えず、普通に解釈すればボロいところは地元民用、ネオン全開のところは中国人観光客向けのサウナ的特殊浴場だろうと思い後者に凸したのだが、一歩足を踏み入れたとたん、何とも言えない違和感を覚えた。
男性専用とばかり思いきや、なぜか思いっきり「女湯」がある。でもフロントにはどう考えてもまともな商売じゃないお兄さんが待機していて、やはり単なる銭湯とは思えない。
考えても仕方ないので、入ってみた。英語はもちろん通じず、中国語オンリー。「朝鲜小姐」とか言ってみたが無視され、チンピラ風のお兄さんにロッカーのキーを渡された。風呂場は小汚い健康ランド風で、おっさんがアカスリを薦めてきたがスルー。5分で出て、フロントに按摩、小姐と言うと「それを早く言え」とばかりに、奥の休憩室に案内された。
待っていると、出てきたのは控えめに言っても40歳オーバーは確定の中国人BBA。
ショックで呆然としている自分に彼女は説明をしてくれたのだが、ほぼ聞き取れず。ただし、値段だけは分かったので「安い方でいい」と言うと、着衣のままでやたらと上手いマッサージが始まった。しかし一向に卑猥な行為に移る気配はないため不審に思いはじめたマッサージの終盤、彼女が手で何かしごくジェスチャーをしながら「打飞机?(ダーフェイジー)」と聞いてきた。その時は知らなかったが「打飞机」とは中国語で手淫を指す言葉である。
もちろんノータイムで丁重にお断りし、速攻で店を出た。中朝国境まで来て、ファーストコンタクトがあわやBBAのハンドジョブ。
「この遠征は、大失敗であったかもしれない」そんな不安を打ち消すために、すぐ目の前にあるもう1件のお風呂屋さんを強襲した。
入店してみると、前の店よりも休憩フロアに淫靡な雰囲気が感じられたため、期待を込めて「朝鮮小姐」と言ってみたが、チンピラお兄さんはやはりガン無視…ついた小姐は、なんとか20代に見えるといった感じの中国人であった。
北朝鮮美人を探すという目的はひとまず置いて約300元のコースを頼むと、その小姐はおもむろにキャミソールを脱いでパンツ1枚になった。まずは、オイルを使った念入りなマッサージ。やがて小姐が身体を密着してきて耳元で囁いた。
「…打飞机?」
何と、先ほどと同じ「手」である。つまり合体はないということで、取り締まりの波が丹東まで届いていることをようやく理解した次第。ダメ元でその先を狙って交渉してみたが、頑としてNGだったため、仕方なく打飞机をお願いした。
69のような体勢で眼前には小姐のお尻がある。自分の下半身はよく見えなかったが、やがてその付近にあった小姐の頭が上下に動き出した。それとともに襲ってきた、なにやら股間が温かいものに包まれている感。
「これはもしや口淫ではあるまいか…」
そう思い彼女に聞くと「ここよ、ここ」と彼女は首とアゴの間を指さして、また首を上下させ始めた。いうなれば“丹東流首コキ”。しょうもないといえばそれまでだが、一瞬錯覚するほどの技ではある。また、お上の規制ギリギリのところで頑張ってますという工夫に感心しつつ、発射に及んだのだった。
この時点で夜10時。夜も深まった鴨緑江沿いで、灯りのない朝鮮側を眺めながら、むなしい余韻に浸りつつ、思った。
「俺は一体、何しに来たのか…」と。
深夜の丹東は人通りがグっと減って、寂しい街である。とぼとぼホテルに戻りつつ、次第に賢者モードを脱した筆者の頭に、ひとつの考えが浮かんだ。
ホテルにサウナくらいはあってもよかろう。
そこで北の女性が働いていても、何も不思議はなかろうて。
自分が滞在したホテルは北朝鮮国営ではないものの、なぜか北朝鮮から派遣されてきたチマチョゴリ姿の女性(朝鮮国営レストランの女性と同じ名札を着けている)が常時おり、サウナがあるならそこに北から来た子がいるやもしれぬ、というのがその根拠である。
行ってみると、やはり明らかにそっちのニオイがするコースを発見。中国語の綴りは失念したが、たしか「丹東1号ロマンティック&ワクワクSPAコース」のような感じだったように思う。
さっそく頼んでみるとドレス姿でスタイル抜群、おそらく20代後半、ただし顔は古田新太似の小姐が現れた。
そして彼女の口をついて出た最初の言葉も「打飞机?」であった…。
手淫の街・丹東。しかもサウナ代に加えて別途料金160元というお高い手コキである。
この古田新太、性格は良いかったので拙いない中国語でいろいろ聞いてみた。あなたは朝鮮の人ですか? 他のお店には朝鮮の女性はいますか? 等々。ところが「わたしは中国人だし、ここに朝鮮の女の子なんていないよ」という、何ともツレない答え。
この丹東遠征は完膚なき負け戦であったとようやく悟った筆者は、古田新太の顔をできるだけ見ないよう、窓の外に広がる北朝鮮側の暗闇に視線をやりながら手淫を、そして虚しさを味わった。
■日本で出会った朝鮮国籍の女性
徒労に終わった丹東遠征から数年後、全く予想しない場所で、北朝鮮国籍の女性と触れ合う機会があった。正確に言うと北朝鮮ではなく「朝鮮」国籍。事情に詳しい方ならばピンと来るだろうが、在日朝鮮人の女性である。
当時筆者が従事していたアダルト業界の仕事で、たまたま朝鮮国籍のセクシー女優の子と遭遇したのである。ビジュアル的にはごく普通、性格は極めて温厚で、細かなことにもいろいろと気が回る頭の良い子。でも彼女が語る自身の性体験を聞く限り、アクセル踏みっぱなしの人生を送っているようで、特に「今はダブル不倫の真っ最中」と笑顔で語っていたのが印象深かった。
当たり前だが彼女の国籍が朝鮮であるからといって、性にオープンなこと以外はその辺の女子と何か特別な違いがあるわけではない。でも自分の目に映る彼女はやはり特別な存在であり、もっと話を聞きたいというただそれだけの理由で、職権を乱用し、彼女に幾度となく仕事を依頼した。
そして、北にルーツを持つことを誇りとも重荷とも思っていない自然体の彼女と話せば話すほど、この一方的な片想いには何も意味がないことを悟らざるを得なかった。もっと言えば、朝鮮国籍というだけで彼女を憧れの眼差しで見ること自体、一種の差別なのかもしれないとすら思った。
その後、彼女はいつの間にか業界から姿を消した。同時に、北の女性を色眼鏡で見る自分も、もはや存在しなくなっていた。
しかし、目的を失ったこの旅は終わるかに思えたが、全く予想のしない展開が自分を待っていたのだった。
■とうとうたどり着いた高嶺の花
「98年生まれ・中朝混血・NS」
上海に張り巡らせた筆者の卑猥防空識別圏に突然入ってきた情報だった。この頃には長年の大陸遠征で鍛えられ、日常会話レベルであれば中国語が分かるようになっていた自分。同時に、この子と交わることにもはや何の幻想も見いだせなくなっていたが、ケジメとして上海へ行くことにした。
※「NS(=ノースキン)」に心を揺さぶられたことは否定しない。
現地に着いて、指定された場所はもはや上海市内とは呼べない僻地。そこのホテルの一室に待機し、客を取っているらしかった。事前情報では現役の大学生とのことだったが、そんな話が全くアテにならないのはご想像の通り。ただ、朝鮮混血という部分は真実味があると感じた。なぜなら、中国人にとってはあえて書かなくてもいい情報だからである。
期待したのは当然、北レス(トラン)で働いているような美しくも誇り高き朝鮮アガシ。だが、対面した彼女はベッドの上でテレビを見ながらタバコをふかし、さらに火がついたまま床に投げ捨てるような、惚れ惚れするほど中国的な小姐なのだった。
ところが身の上話を聞き始めると、出てくるエピソードは北一色。性行為どころではないほどに(したが)、関心をそそられた。
お母さんが北朝鮮国籍で、お父さんは中国人。彼女は兄弟姉妹の末っ子で、両親ともに既に定年に近い年だという。母方のおじいちゃんとおばあちゃんは日本統治下の朝鮮で育ったために日本語が達者で、独立後は北朝鮮で学校の先生をやっていたらしく「日本のことを死ぬまで恨んでいたのよ」といった話を、お互い素っ裸のシチュエーションで聞かされた。
「でも私は関係ないけどね!」
と言って、火のついたタバコをホテルのドアに投げつける彼女。なぜベッドの横にある灰皿を使わないのか…ワケが分からない。
こんな蓮っ葉な感じの子なので、彼女の話も半信半疑で聞いていた筆者だったのだが、見せてもらった学生証で超難関大学に現役で通っていることが証明された。
そして彼女は突然、子供の頃におばあちゃんから教わったという日本の歌を歌いだしたのだ。
はーるをあいするひっーとーは♬
こおころつよきひとー♬」
最後まで歌いきった彼女は「日本語、上手いでしょ〜」と言ってゲラゲラと大笑い。自分も一緒に笑うフリをしたけれど、心の中ではあまりの重さに寒気を感じていた。
こういう遊びに罪悪感を覚えた経験は過去に何度かあるが、この日のものはまさに格別。一生忘れられない思い出のひとつとして、今も心に残っている。
◆
金正男が殺されたり、金正恩がトランプと握手したりといった北挑戦関連のニュースを目にする度に、北レスの女子たちや朝鮮国籍のセクシー女優、そして中朝ハーフの子の歌声を思い出す。そして、セックスという誤った角度で北朝鮮を知ろうとした己の至らなさを恥じる自分がいる。
でも、こんな風にも思うのだ。
固定観念だけで北朝鮮という不思議の国を悪しざまに罵るよりは、たとえ不純な動機であっても、相手のことを知ろうとする方がまだマシなのではなかろうか。たとえ絶対に分かり合えない方法だったとしても、交流を求めることにはきっと意味があるし、何かの始まりにはなるはずだ。
既に他界した祖母に今の自分の想いを伝えるすべはないし、もし健在であったとしても到底身内に話せる内容ではないが、今年のお盆には墓前でじっくり、そんなことを語りかけてみたいと思っている。
<執筆者プロフィール>
●もがき三太郎
出版業界で雑誌編集者として働いていたが、やがて趣味と実益を兼ねた海外風俗調査がライフワークとなる。現在はアジア諸国と日本を行き来しながら様々なメディアに社会問題からアングラ事情まで、硬軟織り交ぜたリアルなルポを寄稿している。