土のう

自然災害という国難と国家財政の真実~中野剛志著『奇跡の経済教室【基礎知識編】』より~

 先週末、日本全土を襲った台風19号。甚大な被害をもたらすとともに、復旧に際しては、今だリスクと隣り合わせあるなかでの活動を強いられている。
 本稿では、“これでもか”というくらいわかりやすく経済のしくみと財政について解き明かした中野剛志氏の著書『奇跡の経済教室【基礎知識編】』の中から「国が災害に遭遇した際の国家としての準備体制やインフラ整備の裏側」について暴いた第10章を無料公開。

第十章 オオカミ少年を自称する経済学者

「国難」としての自然災害

 2018年7月上旬、西日本を中心とする豪雨災害で200人以上が犠牲になり、家屋被害が2万6000棟を超えました。治水の想定を超えた被害と言う人もいました。
 しかし、この被害は、必ずしも想定外とは言えません。
 気象庁によれば、「非常に激しい雨」(時間降水量50㎜以上)は30年前よりも約1・3倍、「猛烈な雨」(時間降水量80㎜以上)は約1・7倍に増加しています。
 また、国土交通省によれば、過去10年間に約98%以上の市町村で、水害・土砂災害が発生しており、10回以上発生した市町村はおよそ6割に上っています。

 このように、政府の関係機関は、近年、豪雨災害のリスクが高まっていることを認識していました。
 それにもかかわらず、主要河川の堤防整備はいまだに不十分な状況にあるのです(表2)。

奇跡の経済教室[基礎知識編]/本文_page-0199


 では、政府は、この20年間、治水関連予算を増やしてきたのかといえば、実際にやってきたことは、その逆でした(図10)。
 公共投資自体も、1990年代後半以降、大幅に削減されてきました。2012年に成立した第二次安倍晋三政権では、積極的な財政出動が行われたかのようなイメージがあります。しかし、実際の公共事業関係費の予算額は、民主党政権時とあまり変わりません(図11)。

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 平成の時代は、阪神淡路大震災、新潟県中越地震、新潟県中越沖地震、北海道胆振東部地震、東日本大震災、津波、台風、高潮、ゲリラ豪雨など、大規模な自然災害が頻発しました。
 それにもかかわらず、インフラを整備するための公共投資が削減・抑制され続けてきたのです。
 その理由は、言うまでもなく、財政健全化が優先されたからです。
 しかし、その結果、今回の豪雨災害においても、治水対策が強化されていれば守られたはずの人命が失われました。国民の生命・生活が、財政健全化の犠牲となったのです。

 同じ過ちが、来るべき巨大地震についても繰り返されようとしています。
 2018年6月、土木学会は、今後30年以内の発生確率が70〜80%とされる南海トラフ地震が日本経済に与える被害総額は、20年間で最悪1410兆円になるという推計結果を公表しました。
 土木学会は、発生が予測されている南海トラフ地震、首都直下地震、三大都市圏の巨大水害を「国難」と呼び、この「国難」に対処するために、防災のための大規模な公共インフラ投資を提言しています。

 日本は、急ぎ、防災のための公共インフラの整備に着手しなければならない。普通は、そう思うでしょう。
 ところが、これに異を唱える経済学者がいるのです。吉川洋・東京大学名誉教授です。

「亡国」の財政破綻

 吉川氏は、土木学会の発表に対して、次のように述べています。(『中央公論』2018年8月号)。
 今回の土木学会の発表で最も注目されるのは、インフラ耐震工事約四○兆円で南海トラフ地震の場合五○九兆円の被害を縮小できるという推計結果である。これほどの高い効率性をもつ公共事業は他に存在しない。整備新幹線はじめほとんどすべての公共事業をわれわれはしばらく我慢しなければならない。(略)あれもこれもと、現在国費ベースで年六兆円の公共事業費を拡大することはできない。それでは「国難」としての自然災害を機に、「亡国」の財政破綻に陥ってしまう。

 吉川氏は、日本は財政破綻のリスクがあるので、南海トラフ地震の対策をやりたければ、ほとんどすべての公共事業をあきらめろというのです。しかし、ほとんどすべての公共事業を止めることなど現実的には不可能でしょう。
 つまり、吉川氏は、「インフラ耐震工事費を40兆円も出せないから、南海トラフ地震の被害は甘受しろ」と言っているに等しいのです。

 しかし、本書第一部で明らかにした通り、日本政府が債務不履行に至ることなど、あり得ないのです。また、財政赤字の拡大は理論上、長期金利を上昇させません。
 そして、過去約20年、政府債務残高は増え続けましたが、長期金利は世界最低水準で推移し、2016年にはマイナスすら記録しました。
 ある推計によれば、2000年から07年における財政赤字の1兆円の増加は、長期金利を0・15bsp〜0・25bsp(1bspは0・01%)引き上げただけだったとのことです。つまり、財政赤字を100兆円増加したとしても、長期金利の上昇は0・3%にもならなかっただろうということです。

 したがって、「現在国費ベースで年6兆円の公共事業費を拡大すること」はできます。できるだけではなく、すべきなのです。
 むしろ、デフレの今こそ、インフレの副作用をもたらさずに公共投資を拡大できるチャンスなのです。

経済学者たちの緊急提言

 それにもかかわらず、吉川氏は、長期デフレ下の日本にあって、歳出抑制の必要性を強く主張し続けてきました。
 例えば、2003年、吉川氏は、複数の経済学者らと共同で、政府部門の債務の対国内総生産(GDP)比率が140%に達していることを踏まえ、「財政はすでに危機的状況にあり、できるだけ早い機会に財政の健全化(中略)が必要である」という緊急提言を発表しました。(日本経済新聞2003年3月19日付「経済教室」)。
 ちなみに、この緊急提言に名を連ねた吉川氏以外の経済学者は、伊藤隆敏氏、伊藤元重氏、西村清彦氏および八田達夫氏(いずれも東京大学教授)、樋口美雄氏および深尾光洋氏(いずれも慶應義塾大学教授)、そして八代尚宏氏(日本経済研究センター理事長)です(肩書は、いずれも当時のもの)。
 どの方々も日本を代表する経済学者であり、経済政策にも大きな影響を及ぼし得る立場にあります。中でも、伊藤隆敏氏、伊藤元重氏、八代尚宏氏、吉川洋氏の四人は、経済財政諮問会議の議員を経験しています。

 彼らの緊急提言によれば、このままだと政府債務の対GDP比率が200%に達するが、「この水準は国家財政の事実上の破たんを意味すると言ってよい。たとえデフレが収束し経済成長が回復しても、その結果金利が上昇するとただちに政府の利払い負担が国税収入を上回る可能性が高いから」であるとのことです。

 しかし、2018年時点の政府債務の対GDP比率は、吉川氏らが「国家財政の事実上の破たん」とした水準をすでに上回り、240%近くとなっていますが、長期金利はわずか0・03%程度にすぎません。
 政府債務の対GDP比率と財政破綻とは関係がないのです。

 それでもなお、吉川氏らは、「デフレが収束し経済成長が回復すると、ただちに政府の利払い負担が国税収入を上回る可能性が高い」と主張します。
 しかし、この主張は、まったく理解しがたいものです。
 なぜならば、第一に、経済成長が金利を上昇させる可能性は確かにありますが、それは同時に税収の増加をももたらし、財政収支を改善するはずです。
 例えば、2018年度当初予算は、企業業績の改善を背景に、中央政府の政策経費(地方交付税交付金等を除く)を上回る税収が見込まれています。
 もっと端的な例を挙げると、1990年頃、長期金利は6%を超えていました。しかし、その当時、誰も財政破綻を懸念していませんでした。それどころか、一般政府の財政収支は黒字だったのです。言うまでもなくバブル景気が税収の増加をもたらしていたからです。

 第二に、政府の利払い負担が国税収入を上回るほどふくらむなどというのは荒唐無稽です。
 日本の国債の利払い費は、2018年度予算では約9兆円が計上されています。これは長期金利を1・1%として算定されたものです。しかし、実際の市場金利は0・03%程度だから、実際の利払い費は9兆円よりもずっと小さいでしょう。
 したがって、仮に長期金利が今の30倍に跳ね上がったとしても、利払い費は9兆円にも満たないのです。その程度の利払い負担が、55兆円くらいはある国税収入を上回る可能性を心配するのを「杞憂」と言います。

 第三に、それでも金利の上昇を回避したいというのであれば、中央銀行が国債を買い取ればよい。単にそれだけの話です。

 要するに、吉川氏の言う「『亡国』の財政破たん」(金利が上昇して政府の利払い負担が国税収入を上回ること)のリスクとやらは、ほとんどないということです。
 しかもその極小のリスクですら、経済政策によって容易に克服できる程度のものです。
 いや、この際ですから、もっとはっきり言ってしまいましょう。
 そもそも、自国通貨を発行できる日本政府が、国債の利払い負担で苦しむなどということは、あり得ないのです。ですから、「『亡国』の財政破たん」の発生確率は、ずばり、0%です。
 これに対し、「『国難』としての自然災害」は、今後30年以内の発生確率が70〜80%だというのです。しかも金利上昇による経済損失などとは違って、自然災害により失われた人命は、取り返しがつきません
 そう考えると、「『国難』としての自然災害を機に、『亡国』の財政破たんに陥ってしまう」などという主張は、とうてい受け入れられるものではありません。

オオカミ少年

 「政府債務の対GDP比率が200%に達すると、事実上の財政破綻」とした吉川氏ら経済学者たちの緊急提言から、15年が経ちました。政府債務の対GDP比率は、2011年には200%を超えました。
 しかし、日本の財政は、破綻しませんでした。それどころか、長期金利も、世界最低水準で推移してきました。

 破綻するはずの財政がいっこうに破綻しないので、困ったのでしょうか。緊急提言の共著者の一人である伊藤元重東大教授(当時)は、2012年8月に、次のように書いています。

 財政危機を警告する経済学者はオオカミ少年と呼ばれることがある。「オオカミが来る」と言っているが、来ないではないか、と。つまり、国債の価格は下がるどころかまだ上がり続けている。経済学者の警告は外れている――そうした批判だ。
 しかし、オオカミ少年の話では、最後にはオオカミが来た。財政危機というオオカミの姿はすぐそこに見えている。

 しかし、それから5年が経っても、すぐそこに見えているはずの「財政危機というオオカミ」は、いっこうに姿を現しませんでした。すると、2017年9月、今度は、吉川洋氏が、次のようなエッセイを書きました。
 財政規律は大切、PB黒字化を、と訴えると、財政赤字が大変だ、大変だ、といつも言うが、金利はゼロで一向に上昇する気配もない、それこそ「オオカミ少年」だと言われる始末である。誰もが知るオオカミ少年の話、実は2つの結末があるのをご存じだろうか。
(中略)

 明治6年につくられた文部省の『小学読本』では、少年がオオカミに嚙み殺されてしまう。嘘を戒める教訓話である。しかし、この話はもともと「イソップ物語」にあるもので、そこではオオカミに食われてしまうのは少年ではなく、村人が大切にしている羊たちなのだ。ここはやはり、文部省がつくった教訓話ではなく、古代ギリシャのイソップ原版でいきたい。

 穏やかな海を見て「津波が来る!」と言う人を嘘つき呼ばわりする愚は明らかであろう。津波と同じく、財政破綻は大きなリスクである。違いは、財政破綻は人災であるということだ。人の手で防ぎうる。そのためにはオオカミ少年の声に耳を傾けなければならない。

 本書第一部を読んで、日本の財政破綻はあり得ないことを知っている読者の方々は、伊藤氏と吉川氏に対して「先生、しっかりしてください!」と叫びたくなったのではないでしょうか。
 伊藤氏も吉川氏も、なぜ財政破綻にならなかったのか、なぜ自分たちの予想が外れたのかについて、何ら理論的に説明することなく、もちろん反省もせず、相変わらず「財政破綻は必ず来る」と言い張っています。
 しかも、呆れたことに、財政破綻が来るという根拠は何かといえば、「イソップ物語では、オオカミは最後に来たのだ」というもの。
 もしかして、これは悪い冗談なのでしょうか。
 イソップ原版だろうが、文部省版だろうが、そもそも「オオカミ少年」の話を持ち出して、財政危機を煽ること自体がおかしいでしょう。だいたい、あの話は嘘つきを戒めるための教訓話なのですよ。それに、オオカミと違って、財政破綻が来ることはあり得ないのです。
 むしろ、警告したことが本当に起きたという意味では、伊藤・吉川の両東大教授よりも、オオカミ少年のほうがまだましです。

 意味不明なエッセイを書くだけならまだしも、彼らの財政破綻論が現実の経済政策に大きな影響を与えてきたことは、看過できません。
 特に、吉川洋氏は2001年1月から2006年9月までと、2008年9月から2009年9月まで、経済財政諮問会議の議員を務めていました。伊藤元重氏も2013年1月から、経済財政諮問会議の議員を務めています。
 彼らのような経済学者の影響もあって、財政支出は抑制され続けてきました。その結果、デフレは長く放置され、日本国民の多くが苦しむこととなりました。しかも、冒頭で述べたように、防災のためのインフラ事業費まで削られたために、地震や豪雨などの自然災害によって、多くの人命が失われてきたのです。
 こんな馬鹿げた状態を、平成の日本は20年以上も続けてきました。そして、まだ続けています。
 いったい、いつまで、オオカミが来るのを待ち続けるつもりなのでしょうか。


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