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【医療ミステリー】裏切りのメス―第27回―

【前回までのあらすじ】
「チーム小倉」の吉元竜馬が成り代わっている東京・山谷の身元不明の遺体に関する情報をもたらしたのは、チームのリーダーである下川亨が過去に逮捕された時の担当刑事・友部隆一だった。友部によると身元不明の遺体は指紋が削りとられており、警察も他殺の可能性があり、捜査本部を立てるか悩んでいるという。下川は、吉本の成り代わりが露見するかもしれない不安を抑えながら、さらに詳しい情報を聞くことになった。
 陰謀渦巻く病院ビジネスを舞台とした【医療ミステリー】連載。毎週火曜日更新!
-著者プロフィール-
●田中幾太郎/ジャーナリスト
1958年、東京都生まれ。『週刊現代』記者を経てフリー。医療、企業問題を中心に執筆。著書は『本当に良い病院 悪い病院』『三菱財閥最強の秘密』(以上、宝島社新書)、『日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊/本日より時間外・退職金なし』(光文社)ほか多数。

<友部刑事の情報>

 三重の純米吟醸の一升瓶はとうになくなり、ウイスキーを飲み始めた。アイラモルトを代表するラフロイグの30年物である。スコットランドの小さな島にある蒸留所の所有権が大手酒造メーカーの間でたらい回しされるようになって、味はだいぶ落ちたといわれるラフロイグだが、滅多に手に入らないこの30年物は別格だ。熟成され甘みが増しているのに、荒々しさは逆に強くなっているのだ。

 ショットグラスに入れたラフロイグにミネラルウォーターを一滴、垂らした。こうすると、上質なピートのスモーキーな香りが際立つのである。

「いやぁ、うまいね」と友部隆一が感嘆するように呟いた。

「うちの署で飲むのは4リットル3000円のやつだからね。そんなウイスキーと比べちゃ悪いが、こういうとんでもない高級酒はこの先、あの世に行くまで口にする機会は来ないだろうな」

 酔うにつれ、友部は饒舌になっていった。彼がいる多摩地域の警察署のことや自身の刑事人生についても語り始めた。

 私より7歳上の友部はそろそろ50代半ばに近づいていた。階級は巡査部長。31歳のときに昇任試験にパスした。以降、何度か警部補へチャレンジしたが、叶わなかった。結局、20年以上、巡査部長のままだ。

「刑事なんかやっていると、なかなか上がれませんよ。捜査のほうが楽しいしね。それでも合い間を見つけてしっかり勉強する警察官だけが昇任していくんだ。僕の場合は、そのうち勉強するのもだんだん面倒になって、40歳になるころにはあきらめていたね」

 私と同い年の埼玉県北部の警察署に勤める湯本利晴刑事は10年近く前に警部補に昇任したようだから、けっこう要領がよかったのだろう。

 山谷で見つかった身元不明遺体について、捜査が始まるかもしれないと、先ほど聞かされた私の気分は最悪だったが、気を紛らわすように友部のよもやま話につきあいながら、ラフロイグをあおっていた。

 話に熱中していた友部が気がついたように時計を見て「あっ」と言った。すでに日付は変わり、針は0時半を差している。高尾行きの最終電車にはもう間に合わない。友部は高尾からタクシーに乗って、自宅に戻るつもりだったようだ。高尾からさらに1万円近くはかかるそうだから、私のマンションがある都心からだと、3万円は超えそうだ。それくらいのタクシー代は私が負担してもよかったが、それを言い出すのも、友部に対して、何か失礼な気がした。

「どうせなら、うちに泊まっていけばどうですか。まだ飲み足りないでしょう」

「いいのかね」

 友部はあまり遠慮する素振りを見せなかった。どうも、ラフロイグが気に入ったらしい。といっても、ボトルはほとんどなくなりかけていた。代わりに、同じアイラモルトのキルホーマンを出した。2005年に創業したばかりの蒸留所だが、アイラファンの間では評判はかなりいい。ラフロイグの30年物に負けず劣らずピートが効いている。

「帰宅しても、待っている人間もいないしな」

 5年前、娘が大学を卒業して就職すると、妻は家を出ていったらしい。「前から男がいたんだ。刑事の家庭によくあるパターンだ」と友部は鬱屈した笑い声を洩らした。

 友部があけすけに話すのを聞いているうち、私も自身のことをいろいろ口にしていた。ただ、いくら酔っ払っても、山谷の身元不明遺体が吉元竜馬がなりすましている小倉明俊である事実だけは明かしてはならない。口がすべらないように気をつけながら、病院チェーンの安井会グループで起こった事件について話し始めていた。

「安井会グループの創設者、安井芳次を襲った黒幕が尾方肇という鈴代組の企業舎弟なんですが、まだ逃げたままなんです。名前を耳にしたことはありますか」

 友部が勤める警察署は多摩地域のかなり西にある。そんなところまで尾方の名前が轟いているとは思わなかったが、友部の答えは意外なものだった。

「うん、知っている。国立大の医学部生だった奴だろ」

 考えてみれば、医療コンサルタントの私を取り調べたのも友部だった。それ以外にも、医療関連の事件はいくつも扱ったことがあるという。埼玉の湯本が勤務しているのは比較的規模が大きい警察署なので、刑事課には2つの課がある。湯本は知能犯や暴力犯を扱う刑事第二課に所属していた。友部が勤める警察署は規模が小さく、刑事課はひとつ。決まった分野はなく、何でもやらなければならない立場だったが、いつのまにか、署内で医療系の事件なら友部刑事というふうになっていったらしい。

「とりあえず、何か起こしそうな医療関係者については資料を集めてある。そうした要注意人物のひとりが尾方肇だった」

「いつぐらいからマークしていたんですか」

「大学を中退して、鈴代組のもとで医療コンサルタント会社をつくったあたりからだ。なぜそんなことになったのか、いろいろ調べた」

「ということは、尾方が医学部生時代に新宿のホストクラブでアルバイトしていたあたりのことも知っているわけですね」

「もちろんだ。そのへんを一番、くわしく追ったよ。不審な点がいっぱい出てきたからね」

 ホストクラブに客として来ていた16歳の中国人少女に多額のカネを貢がせた尾方は、怒った両親から依頼を受けた香港九龍城砦出身の半グレ集団に600万円の慰謝料を脅し取られようとしていた。ホストクラブと関係のあった鈴代組が間に立ち、半グレ集団と話をつけ、尾方は1円のカネも払わずにすんだ。鈴代組に頭の上がらなくなった尾方は、組の企業舎弟になるしかなかった。ざっとこんなところが、私の耳に入っていた情報だった。

 それを友部に話すと、「ちょっと違うんだな」と首を横に振った。

<尾方を陥れた罠>

「中国人の少女が尾方に熱を上げ、貢いでいたのは本当だが、親が怒ったというのはまるっきりのウソだ。少女の名前は林佳怡(リン・ジャイー)というんだが、両親は幼いころに離婚。母親がジャイーを引き取り、新宿の上海パブに勤めながら育てていた。ところが、ジャイーが15歳のとき、その母親は店に来ていた客の日本人の男と姿をくらましてしまったんだ」

 その上海パブで、母親の後釜として働き始めたのがジャイーだった。

「上海パブは実は鈴代組の元若頭の親族が経営する店だった。ジャイーが尾方に貢いでいることを知った元若頭が鈴山峰雄組長に話すと、かなり興味を持ったらしい。そして、これをネタに尾方を組に引き込めと言い出した。医療系に強い人間がいれば、カネになるからな」

 つまり、尾方は鈴代組にはめられたのだ。半グレ集団が尾方を脅したのも、鈴代組が仕組んだことだった。恩を売り、組のために働かせるのが狙いだった。

「そのことを尾方は知っているのですか」

「たぶん、いまだに気づいていないだろう。それを知っているのは鈴山組長や元若頭など、鈴代組のごく一部の関係者だけだ。尾方を病院乗っ取り屋に育て上げた組のナンバー2の木村恭二郎でさえ、知らされていないというんだ」

「半グレ集団はどうしたんですか」

「奴らは窃盗事件でつかまり、香港に帰らされた。高級車を何台も盗んで海外に送っていたんだ。その後、日本に戻っているとは聞いていないから、尾方がはめられた事実を知っている者は国内にはほとんどいないということだ」

 尾方もかわいそうな男だ。鈴代組の鈴山組長に目をつけられるようなことがなければ、どこかの病院で診療科長ぐらいにはなっていたかもしれないのだ。ところが、いまや、表舞台に出てこれないどころか、犯罪者として警察に追われる身だ。

<言い知れぬ不安>

「その後、友部さんは尾方を追ったりはしているんですか」

「いや、数年前から埼玉県警が尾方のことを調べていると聞いたので、こちらとしても手を出すわけにはいかなくなった。警察組織というのはやっかいでね。越境行為はなるべく避けなければならないんだ」

 そう言いながらも、友部は1年前、尾方をつけたことがあると明かした。

「その日は非番で、新宿に買い物に来ていたんだ。すると、靖国通りの歌舞伎町入口あたりで、たまたま、タクシーから降りてくる尾方を見つけた。そのまま大久保のほうに歩いていくから、あとをつけたら、大久保公園で女と落ち合っていた。相手は誰だと思う」

「……」

「驚いたね、あのジャイーだったんだ」

 友部がジャイーの顔を見るのは15年ぶりだった。

「尾方に貢いでいたのがどんな少女なのか、上海パブに飲みにいったことがあるんだ。16歳とは思えない妖艶さがすでにあった。尾方と会っているのがジャイーだとすぐにわかったよ」

 私は頭が混乱していた。こうした事実がチーム小倉にどういう影響を及ぼすのか、まったく想像できなかったが、何か悪い予感がした。
(つづく)

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