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東京にある「絵になる廃線」 第1回 「東京都水道局小河内線(前編)」

かつて日本各地に存在したローカル線の「廃線跡」を見つけて歩き、今はもう列車が来ない駅を訪れるなど、「鉄道に乗らない旅」を楽しむ人たちが密かに増殖中。ひとりでも仲間と行っても満喫できる、廃線の魅力や旅の楽しみ方を、エッセイストで地図研究家の今尾恵介さんが紹介します。

人を惹きつけて止まない鉄道廃線の魅力

鉄道の廃線が一般に注目され始めたのは、今から20年以上前の平成7年(1995)に宮脇俊三さんの編著で世に出た『鉄道廃線跡を歩く』(日本交通交社出版事業局=現JTBパブリッシング)からではないだろうか。この本はもともと単発で終わるはずだったそうだが、大好評を受けて結局10巻(平成15年)まで延々と続いた。鉄道廃線を探訪する人は少数ながらずっと前から存在し、たとえば地図エッセイストで知られた堀淳一さんは全国各地で歩いた廃線リポートを自著で何度も発表してきている。

 同書が予想外の売れ行きを記録したことは、各線ともに緻密な現地取材に裏付けられた内容の充実ぶりに由来するものではあろうが、背景にはそれほどまでに人をひきつける鉄道廃線の魅力があったのは間違いない。それが奈辺にあるかといった話をすると長くなるので措くとしよう。

廃線とは何か

 さて、そもそも廃線とは何だろう。もちろん事情により運行されなくなった鉄道路線というのが思い浮かぶ定義だが、運行されなくなった中には「今は運転を休止しているだけ」という立場の路線があるので、これは厳密に言えば廃線ではない。もちろん雑誌が「休刊」することはよくあるが、復刊することは滅多になく、鉄道の方でも休止イコール事実上の廃線であったりもする。

 そうなってくると役所の手続論になって面白くないが、ふつう「廃線」と聞いて思い浮かべるのは、錆びたレールに崩落しかけたトンネル、廃駅舎のような風景かもしれない。ただ実際には、廃止に伴って売れる資材であるレールは外して売るのが順当で、駅舎なども放置すれば不審者が住み込んだり放火の危険があるため撤去する。信号や枕木、架線柱、橋梁のガーダー(橋桁)なども放置すると落ちて危険なので、おおむねトンネルは塞ぎ、あとは路盤だけの姿になっているのが常である。

 要するに金をかけないと壊せないもの以外は撤去した姿がふつうの廃線だ。しかもその路盤は場合によって生活道路や自転車道として「第二の人生」を歩んでいることもあれば、宅地や駐車場として切り売りされることもある。そうなるとまったく廃線らしさは消し飛んでしまう。

廃線を歩くということ

 今日、インターネットを見れば鉄道廃線を探訪する記事はあちこちに存在する。誰が頼んだわけでもないのに危ない斜面をよじ登り、藪をかきわけ、崩落しそうなトンネルをくぐるようなアドベンチャーで満載だ。厳密に言えばかなり脱法行為だったりすることもあるが、このたび鉄道廃線の連載をお引き受けした私は「危ない所」が苦手であり、足腰からいって昔のような無茶はできない。かつて横浜ドリームランドのモノレールの廃線(今はほぼ跡形もない)を取材していた際、ちょっとした段差を飛び降りて膝を傷めたこともある。

 だから今回の廃線歩きも、分相応に無理なく歩くことにした。そもそも「線路跡を少しでも外れたら廃線歩きをしたことにはならない」といった厳しい戒律を自らに課す類の話(たとえば日本全国の鉄道を完乗するとか……)はあまり興味がないので、誰でも歩ける安全なところから横目で土手などを眺めつつ弁当を広げ、途中あまりピンと来ない区間があれば適当にサボってバスで通過してしまうことも辞さない。それより地元の人をつかまえて「在りし日の鉄道風景」を聞いた方が楽しいに決まっている。面白い地名があれば、それも味わってみよう。そんなゆるい方針(?)のもと、新旧の地形図コピー(もちろん老眼用に拡大してある)だけ携えて出かけてみようか、ということになった。

絵になる廃線「東京都水道局小河内線」

小河内ダム建設のための都水道局専用線

  ▲前半は青梅線の奥多摩駅から第ニ水根橋梁までを歩きます。  

 初回に選んだのは、東京都内では「絵になる廃線」として知られる東京都水道局小河内線である。この名称が正式なものかどうか知らないが、要するに小河内ダムの建設のため現場までセメントやコンクリートの骨材となる砂利などをダムサイトまで運ぶための専用鉄道だ。後述する経緯のため今もレールや橋梁がほとんど撤去されていないため、いかにも「絵に描いたような廃線」然としている。

▲かつては氷川と称した青梅線の奥多摩駅。

 国鉄青梅線の氷川駅(現JR奥多摩駅)から水根積卸場まで、多摩川に沿って遡る全長6.7キロのうちトンネルが24か所に及び、その延長の合計は3.3キロ、つまり約半分がトンネルという山岳路線であった。奥多摩駅の標高が341メートルに対して終点の水根が約510メートルだから標高差は約170メートルもあり、計算すれば平均勾配は25.4パーミル(1000メートル進んで25.4メートルの高低差を生じる勾配)に及ぶ。ふつう幹線鉄道では最急勾配が25パーミルに抑えられているので、その勾配を全区間に適用しても少し足りないほどの急峻な路線である。調べてみると最急勾配は30パーミルに設定されていたようだ。

 幸いなことに、この線路に沿って青梅街道の旧道が「奥多摩むかし道」というハイキングコースが整備されているので、そちらを歩きつつ線路を遙拝したり俯瞰し、少しはホンモノの線路も歩いてみよう。しかも終点から起点に戻るコースである。理由は簡単で、こちらの方が楽だから。

 青梅線の奥多摩駅から小河内ダム方面のバスに乗って、ダム直下の水根で降りた。ここが終点・水根積卸場の跡地最寄りの停留所だ。国道411号を通ったことがある方は、小河内ダムの手前に「鉄橋」をくぐって「こんな所になぜ鉄道が?」と不思議に思った経験があるかもしれない。これが専用鉄道の跨道橋の廃墟である。そのすぐ西側はかつてセメントや砂利を大量に積み卸ししていた場所であるが草が茂り、「立入禁止 奥多摩工業株式会社」の看板が見張っている。


▲終点・水根積卸場のすぐ手前の跨道橋「第二水根橋梁」にはガーダーが残っている。

 戦争末期に建設された「奥多摩電気鉄道」 

 この会社は今でこそ石灰の採掘と関連製品を販売する会社だが、元は奥多摩電気鉄道と称した。現青梅線の御嶽〜氷川間を敷設した会社で、開通の直前に青梅電気鉄道(立川〜御嶽)と共に国が買収して国鉄青梅線となっているので、鉄道史の表舞台には立っていない。

 この区間が開業したのは昭和19年(1944)7月1日という戦争末期である。あたかも日本軍が南洋サイパン島で全滅した頃で、いよいよ敗色も濃厚となっていた。資材不足は深刻で、鉄道の新規開業は戦争に必要なものだけに絞られており、この奥多摩電気鉄道も奥多摩の日原方面で採れる石灰石を搬出する鉄道として、その大口需要者としての日本鋼管、浅野セメントなどが出資して設立されている。完全に「戦時国策鉄道」であった。石灰石はもちろん戦後復興にも不可欠であるから、戦後も青梅線はしばらく重要な石灰輸送線として存在感を発揮していたのは言うまでもない。

 小河内線はその青梅線をダム資材の運搬に使うため、工事現場まで延伸したという形であった。国道を跨ぐガードを見に行ってみると、ペンキ塗り替えの日時などを記した表示が読める。橋名が「第二水根橋梁」、起点からの位置が「6K467M56」とある。なるほど6.7キロの終点の直前だ。施行は「墨田塗装工業KK」。ところが塗装年月日が昭和38年12月29日となっているのは興味深い。

 小河内ダムが完成したのは昭和32年(1957)のことであり、その後は休止していたはずなのだが、手元にある昭和47年度(1972)の『私鉄要覧』によれば、専用鉄道の163ページに「西武鉄道」の路線として掲載されている。これによれば、昭和38年9月21日に東京都(水道局)より譲えい受けたことになっており、ペンキ塗り替えの日付はその3か月後だ。つまり西武鉄道はこの線路を活用する目的があったのである。


▲第二水根橋梁のペンキ塗り替えの記録を示す表示。

水道局から西武鉄道へ譲渡
 この専用鉄道は、似た目的のため敷設された大井川鐵道井川線や黒部峡谷鉄道と大幅に異なっている。これらは資材運搬目的に特化した鉄道として建設されたため、都会から直通できるような大型車両の通過を想定しておらず、半径50メートル程度の急カーブが連続している線形が特徴なのだが、奥多摩のこの小河内線は急勾配ながらもトンネルの多用でカーブを抑え、大型車両が通行可能な設計になっている。これはダムの完成後に観光用として活用する案が当初から存在していたからだ。専用鉄道の実際の運行は蒸気機関車によるものであったが、青梅線がそうであるように、当初から電化を想定して架線を張る高さを見越したトンネル断面になっている。

 一説によれば西武鉄道は自社の新宿線・拝島線から青梅線を経てここまで直通電車を走らせる計画があったという(同社は社史を出しておらず、本当のところは不明)。実際にダムサイトから程近い熱海地区から倉戸山へ登るケーブルカーも同社が免許を受けており、観光開発にある時期まで積極的だったことは確かだ。しかしケーブルは未成に終わり、都から譲り受けた小河内線も昭和53年(1978)には奥多摩工業へ譲渡している。撤退の判断はモータリゼーションなのか、奥多摩観光そのものの限界を見たのかわからないが、いずれにせよ小河内線をめぐる風向きが変わったのは間違いない。

今尾 恵介(いまお・けいすけ)

1959年横浜市生まれ。中学生の頃から国土地理院発行の地形図や時刻表を眺めるのが趣味だった。音楽出版社勤務を経て、1991年にフリーランサーとして独立。旅行ガイドブック等へのイラストマップ作成、地図・旅行関係の雑誌への連載をスタート。以後、地図・鉄道関係の単行本の執筆を精力的に手がける。 膨大な地図資料をもとに、地域の来し方や行く末を読み解き、環境、政治、地方都市のあり方までを考える。(一財)日本地図センター客員研究員、(一財)地図情報センター評議員、日本地図学会「地図と地名」専門部会主査、日野市町名地番整理審議会委員。主著に『日本鉄道旅行地図帳』『日本鉄道旅行歴史地図帳』(いずれも監修/新潮社)『新・鉄道廃線跡を歩く1〜5』(編著/JTB)『地形図でたどる鉄道史(東日本編・西日本編)』(JTB)『地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み1~3』『地図で読む昭和の日本』『地図で読む戦争の時代』 『地図で読む世界と日本』(すべて白水社)『地図入門』(講談社選書メチエ)『日本の地名遺産』(講談社+α新書)『鉄道でゆく凸凹地形の旅』(朝日新書)『日本地図のたのしみ』『地図の遊び方』(すべてちくま文庫)『路面電車』(ちくま新書)『地図マニア 空想の旅』(集英社)など多数。

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