偏差値教育とは無縁の環境が_生み出す個性と独立自尊の精神

モンスターペアレントの出現 ~慶應幼稚舎のブレなかった精神~

「東大理Ⅲより難しい」―
“慶應義塾幼稚舎”の入試を評するときによく使われる表現だ。「理Ⅲ」とは、国内の大学入試で最難関とされる東大医学部である。その大学入試よりも超えるのが難しいといわれるのが”慶應幼稚舎”。多くの者が抱くそのブランド力への憧れが人気を不動のものとしているのである。
 今回はそんな日本でベストだといわれる慶應幼稚舎の先生たちが抱えた問題とともに、そのなかでブレなかった精神の話をフリージャーナリスト田中幾太郎氏の著『慶應幼稚舎の秘密』から少し抜粋し、掲載したいと思う。(『慶應幼稚舎の秘密』田中幾太郎より引用)

 慶應幼稚舎の最大の特徴は「6年間担任持ち上がり制」だろう。明治30年に導入されたこのシステムは、現在もなお続いている。6年間という期間、担任の変更がないことで、生徒一人ひとりの特性を把握して、細やかな対応がしやすいというメリットがある。さらには、生徒同士の友情や教員と生徒の密な関係が生まれやすい。

 だが、しかし教員に逃げ場がない。6年生のクラスを受け持っていた31歳の担任教員が自ら命を絶ったのは2000年10月のことだった。父兄から学校側に「担任を替えてほしい」といったメールが学校側に届くようになったと前述したが、ここでいう「学校側」とは金子郁容舎長のことである。直接、舎長宛てに、この教員に対する苦情のメールが何通も届いたのだという。

 亡くなったのは、「教育熱心」と評判の熱血先生だったが、一部の父兄から疎まれるようになっていた。クラスの学力を上げようと、受験校並みのカリキュラムを組み、それについてこれない生徒も出ていた。のんびりとした校風にはそぐわない感じもあったこの教員を「幼稚舎には不適格」と攻撃する父兄が現れたのだ。いわゆる〝モンスターペアレント〟と呼ばれる親たちだった。

バブル世代の父兄

「当時まだ、モンスターペアレントという言葉はなかったものの、1990年代半ばあたりから、いわゆるクレーマー的な親の存在が教育界で取り沙汰されるようになっていました。幼稚舎は元々、学校に注文をつけるような父兄はほとんどおらず、〝対岸の火事〟のごとく、安閑と構えていたんですが、1990年代末になって、そうした親がちらほら見られるようになってきたんです」

 幼稚舎にも「火の粉が降りかかるようになってきた」と振り返るのは同校の関係者。教員の自殺のあった学年ではないが、1990年代半ばに幼稚舎に入学した男子生徒の母親は、次のように証言する。

「子ども同士の喧嘩で怪我を負ったという生徒の母親が学校に怒鳴り込むという事件があったんです。怪我といってもかすり傷程度。応対した担任も、それほど深刻には考えておらず、なだめて帰そうとしたのですが、母親はさらに逆上。その対応の仕方が不誠実だと、学校の中枢部にまで不満をぶつけにいったんです」

 この母親はその後もたびたび学校を訪れ、担任教員への苦情を繰り返し、それは子どもが卒業するまで続いたという。

 モンスターペアレントという言葉が使われだしたのは2007年前後とされるが、この母親はそのひとつの特徴と合致していた。それは、教員に対する敬意がまったく欠如していたという点だ。

 彼女は大学から入学した慶應OGで、卒業したのは1980年代後半。バブル時代に突入した頃で、就職戦線は完全な売り手市場。学生の獲得競争が起こり、慶應卒なら希望する企業にほぼ就職できる状況だった。彼女も大手損保に入社したようだが、その2年後には寿退社しているという。
 一方、就職先でもっとも不人気だったのは、小学校〜高校の教員だった。バブル時代に就職時期を迎えた世代は、1980年前後に吹き荒れていた校内暴力を身近で体験している。右往左往するばかりの教員たちの姿は彼らの目には無力に映り、尊敬の念が一気に薄れた世代だったのである。

金子舎長に対するデマ

 さて、担任自殺事件に話を戻そう。この事件でも、教員に対する父兄の敬意はまったく感じられなかったわけだが、事態はさらに複雑な様相を呈してくる。この時期、幼稚舎にはモンスターペアレントが何人もいたのである。

 この事件については複数の週刊誌が取り上げたが、その中には金子郁容舎長の責任を追及するものもあった。この教員を追い詰めたのは金子氏だというのだ。

 一部週刊誌によると、担任を非難するメールを受けた金子氏が、当人を呼んで厳しく叱責。これが引き金となって、担任は死を選んだという。それを全面的に否定するのは幼稚舎関係者だ。

「過去に金子さんとこの教員の間でトラブルがあったということもなく、2人の関係は良好でした。また、この教員を注意したという事実もない。なのに、なぜああした記事が出たかというと、自殺の原因を金子さんに押しつけようとした一派がいたということなんです。その一派とは、金子さんを舎長から引きずりおろそうとする父兄の一部で、かねてから金子舎長体制に反発していて、でっち上げた情報をマスコミにリークしたんです」

 整理すると、金子舎長に担任を外すように要求するメールを送りつけた一派。そして、その担任の死に乗じて、金子舎長の追い落としを謀った一派。それぞれは、別の父兄たちだという。

「金子さんへの攻撃を仕掛けたのは、慶應出身者への優遇を撤廃しようとしていると思い込み、腹を立てている幼稚舎OB・OGたちです。同じモンスターペアレントでも、こちらのほうが強力で、ずっとやっかいだったんです」

 こう話す幼稚舎関係者によると、週刊誌にデマを流したのは、自殺した担任が受け持っていたクラスの学年ではなかったという。さらにいえば、金子氏を快く思わない学校関係者とも通じている一派だった。

良識を保ったクラス

 名門の幼稚舎で、こうしたモンスターペアレントが出現したのはあまりに残念なことだった。過去の歴史で、こうした事態におちいったことは一度もなかったのだ。それにしても、金子郁容舎長の追い落としを狙う父兄一派のしつこさは常軌を逸していた。

 金子舎長外しを目論む一派が格好の材料を得たのは、教員の自殺から3カ月足らずのことだった。2001年1月下旬に発売された写真週刊誌に

「あの◯◯監督の息子がお受験界の最高峰に見事合格!」という記事が載ったのだ。なお、「◯◯監督」は記事では実名になっている。日本でもっとも有名なAV(アダルトビデオ)監督だ。

 記事の中に学校名が出てくるわけではないが、読めばそれが幼稚舎を指していることはすぐにわかる。また、その夫人も活動期間は短かったが、著名なAV女優。「日本一美しいAV女優」とも謳われた女性だ。彼女の名前も記事には載っていた。

 そして、反金子舎長一派は、この記事によってさらに勢いづき、幼稚舎OB・OGの怒りを煽るように攻撃を仕掛けたのだった。

「金子舎長が入学願書から親の職業欄をなくすようなことをしたから、AV監督の子どもまで幼稚舎に入ってくるようになったといった怒りの声が、一部の父兄から上がっているとの話は、私の耳にも入ってきました」

 こう語るのは、1990年代半ばに子どもが幼稚舎に入学した前出の母親だ。

 実は、筆者はこのAV監督をよく知っている。夕刊紙で同監督を回答者に起用した人生相談のコーナーを担当していたことがあり、その頭の回転の早さに驚かされたものだった。相手が何を求めているか、瞬時に察知し、的確な答えを矢継ぎ早に返してくるのである。しかも、言葉のひとつひとつがウィットに富んでいるので、記事をまとめる当方としては、同監督の語り口調をそのまま文字に直せばいいだけだった。そうした人物の息子なら、幼
稚舎に合格するのも当然という気がしていた。

 いずれにしても、「AV監督の息子入学」のニュースは、幼稚舎の父兄、関係者の間に瞬く間に広がったようだ。

「ひとつだけ救いだったのは、その監督の息子さんがクラスで浮くようなことはなく、他の生徒と同じように、教室の雰囲気にもすぐに馴染んだと聞いたときでした」(前出・母親)

 この前後の流れについて、幼稚舎関係者は次のように話す。

「2001年度に入学した父兄は、圧倒的に金子舎長支持派が多かった。金子改革の成果が出始めた中で入ってきた人たちですからね。幸いなことに、この年度の入学者の父兄には、モンスターペアレントタイプもいなかったのです」

 幼稚舎ではいまも昔も、入学式のあとに、各クラスの担任の多くが新入生の父兄に向かって話すことがある。「同級生を自分の子と同じように大事にしてください」と「お母さん同士も仲良くしてください」である。

 そうした良き伝統もあって、AV監督の息子や妻は、それほどの違和感もなく、自然にクラスに溶け込めたようだ。また、AV監督自身も写真週刊誌に登場してしまった反省からか、その後は一切、息子について語ることはなかったのである。

退任に追い込まれてもその精神は残った

 AV監督の家族が引け目を感じるような場面はなかったものの、水面下では一部のモンスターペアレントによる金子郁容舎長追い落としの画策が進んでいた。幼稚舎内だけでは効果がないと見るや、OB・OG人脈を駆使して、慶應義塾の幹部にまで情報を流し、

「このままでは幼稚舎の伝統はすべて壊され、名門校としての位置もなくなる」と訴えたのである。

 幼稚舎というよりは慶應義塾の話だが、ときにこうした嫌らしいやり方を平気で実行に移してしまうOB・OGがいる。たとえば、4年に1回開かれる塾長選。支援する候補の対抗馬を蹴落とすために、その人物を告発する怪文書をばら撒くのである。それを双方の陣営が行うのだ。ときには反社会勢力まで登場することもあり、おぞましいまでの集票合戦が繰り広げられるのが塾長選での恒例の光景となっている。

 慶應の恥部ともいえる側面だが、ここまでひどくないにしても、モンスターペアレントによる金子舎長攻撃も執拗で破廉恥きわまりないものだった。ついには、金子氏も音を上げる。2002年9月末をもって、舎長を退任してしまうのである。

 金子氏が舎長に就任したのは1999年4月だから、3年半、務めたことになる。なお、舎長の任期は1期2年である。

「元々、舎長の交代は9〜10月に行われるので、金子さんが任期途中で辞めたというわけではありません。当初、金子さんは1998年10月に舎長に就く予定だったのですが、兼任する教授職の仕事がいろいろ重なっていて、調整がつかず、就任が半年遅れることになったんです。したがって、半年短いとはいえ、金子さんは舎長を2期務めたことになります。ただ、前任者(中川真弥氏)に倣って、本人としては3期までは引き受けるつもりだったと思います。しかし、モンスターペアレントたちの攻撃で、嫌気が差してしまったの
ではないでしょうか」(幼稚舎関係者)

 この退任は傍目からは中途半端に映っただけでなく、反対勢力に尻尾を巻いて逃げだしたようにも見え、どこか釈然としなかった。後輩の理工学部OBは「金子さんらしい」と評し、こう続けた。

「金子さんはスマートな完璧主義者なんです。自分の歩んでいるレールに石ころが載っていたりすると、そこであきらめてしまうようなところがある。その石ころをどけて、もうひと踏ん張りしようといった泥臭さはないんです」

 金子氏は幼稚舎長を退任したあと、2003年7月に長野県の教育委員に就き、県の高校再編に取り組んでいた。ところが2006年11月、任期を9カ月残して辞職してしまう。県教委のOBは「その前に行われた臨時県議会で、高校再編議案の大半が否決され、すっかりやる気をなくしてしまったのだろう」と、当時の状況を解説する。

「金子氏は無責任」(県幹部)と批判する声も少なくなかったが、「それが金子さんの生き方」と、前出の理工学部OBは話す。
 いずれにしても、幼稚舎での金子氏は短いながら、歴代舎長の中でもっとも足跡を残したひとりに数えられるだろう。その公正さに疑惑が持たれていた幼稚舎の入試を名実ともにクリーンなものにした功績は、大いに評価されるべきである。

「金子舎長がいなくなれば、縁故枠は復活する」といった見方もあったが、以降もずっと、公平な入試が続いている。何のコネもないが、これから子どもの幼稚舎入学を目指すという父兄にとっては、心強い環境が整っているといえるのだ。


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