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共産党のレジェンドはかつて軍国少年だった!ヒロポンで猛勉強して、海兵軍学校に…〈松本善明氏インタビュー詳録〉

BEST T!MESの特集「藤田田とは何者か?」に登場した、絵本作家・いわさきちひろさんの夫であり、日本共産党名誉役員である松本善明氏。御年93歳、貴重な取材の機会を得た。BEST T!MESには、松本氏と同窓だった藤田田とのエピソードをまとめたが、note上ではそのインタビュー詳録を掲載する。軍国少年がコミュニストになるまで、東大時代の話、当時の胸中を語った。

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■北野中学時代はあまり付き合いがなかった

――藤田田は1926年3月13日生まれ。早生まれで松本さんより学年で1年上なのに、小学浪人を1年間経験し、39年に旧制北野中学校に入学して来たので松本さんと同級生になりました。旧制北野中学校時代に何か交流はあったのですか。

松本 いや、北野中学校で同級生だったということぐらいなもんですよ。北野中学時代はね、あんまり付き合いがなかったんだ。北野中学校は6学級あったんです。試験の成績が1番からビリまでずらっと貼り出され、級長になるのは上位6番までと決まっていました。その次の7~12番の成績の者が副級長になるんです。藤田の成績は級長、副級長のちょっと下で、彼は級長をやったことはなかったですね。私はずっと級長をやり、全学級の組長を務めていました。だから藤田は僕のことはよく知っていたと思います。

――旧制北野中学校に入学して2年目の41年12月、真珠湾攻撃により太平商戦争に突入。日本軍は連戦連勝、広大なアジア・太平洋地域を占領します。しかし42年6月のミッドウェー海戦での敗退を転機に日本軍は後退を余儀なくされます。43年4月には山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、戦況は悪化するばかり。軍国少年だった松本さんは級長仲間と相談し、3人で江田島の海軍兵学校を受験することにしたのですね。

■ヒロポンで猛勉強

松本 ええ。薬局で購入したヒロポンを服用、睡眠時間を削って猛勉強しました。43年6月に実施された海軍兵学校の試験では3500人弱の開校以来最高の入校者がおり、北野中学校からも30数人が合格したと記憶しています。私は北野中学校では器械体操をやっていたので文武両道、全入校者の10番くらいで合格しました。

 アメリカ艦隊を迎撃するということで海軍兵学校に入校し訓練を受けたのですが、勝てるという雰囲気はなかったですね。というのも、ミッドウェー海戦後日本海軍には艦船も飛行機もなくなってきて、アメリカ艦隊を迎撃することなどできなかったからです。終戦が近づいてきたころは、上陸して来たアメリカ軍を都市で防ぐというので、銃を構えて膝撃ちする訓練を受けました。やがて陸軍と同じで平野部で寝転んで撃つ訓練を受けるようになり、これはアメリカ軍の上陸作戦が近いのかなと感じたものです。

――広島、長崎に原爆が落とされ、45年8月15日に敗戦。「鬼畜米英」「七生報国」と唱え、お国のために死ぬという思想が崩壊し、生きる目的を失います。兵庫県宝塚市の実家(当時)に復員し、食べるために農作業などを手伝います。海軍兵学校(75期)の卒業証書が届いたのは45年10月のこと。人間としてどう生きるべきかを知るために、46年4月海軍兵学校の仲間6人ほどと東京帝国大学(翌47年10月に東京大学と改称)法学部を受験、合格し入学します。東大在学中の48年に日本共産党に入党しますが、なぜ軍国少年からコミュニストになったのですか。

松本 戦争が終わった時にね、この戦争はなんで負けたんだということが、私の最初の疑問だったんです。次になんで日本はあんな無謀な戦争することになったのか――そのことを自分なりに解明したいと考えたのが東大に進学する目的でした。それゆえ大学1年生の時は非常に真面目に講義を全部聴きました。それで1年経ってみて、たとえば民法の先生は自著の民法の本に書いてある通りに講義をするだけなんです。一事が万事この調子。それが1年で大体分かったので大学2年生になってからは、講義に出なくても先生の本を読めば、大丈夫だと考えました。そこで東大図書館にこもって体系立てて哲学書を読むことにしたのです。当時、下宿の近くにある教会に通い、聖書を読んだりもしました。試行錯誤を繰り返していたのだと思います。

マルクス主義こそが人間解放と社会変革を示す哲学

――戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は特高(特別高等警察)を廃止、18年間獄中にあった徳田球一が解放され、日本共産党の再建を進めます。日本共産党は戦争に唯一反対した政党として評価はうなぎ登り。東大ではマルクス主義の入門書である『空想から科学へ』『共産党宣言』などが飛ぶように売れ、日本共産党の学生活動家が自治会などを牛耳ります。そんな中で松本さんは旧制高校生の必読書といわれた「デカンショ」(デカルト、カント、ショウペンハウエル)を始め、ヘーゲル、マルクス、レーニンなど哲学史を読み始めたのですね。

松本 ええ。東大に入るまでは好成績を取ることに必死でしたが、もうその心配はありません。図書館にこもって教官に頼らず独力で哲学史を読み、自分なりの世界観を確立しようと思いました。あらかじめ私のなかにはマルクス主義こそが人間解放と社会変革を示す哲学だとの予感がありました。私の日課は来る日も来る日も東大図書館に通い続け、試験や単位取得とはかかわりのない哲学書を読むことでした。途中、友人の誘いで東大社会科学研究会主催の講演会にも顔を出すようになりました。そういう生活を続けて1年数か月が経過、日本が戦争に突き進んだ本質について整理し総括することができました。日本はアジア民族解放のための聖戦として賛美して来ましたが、それは嘘です。聖戦の本質は天皇制ファシズムという支配構造の下で、軍部と財閥が進めたアジア侵略戦争なんです。レーニンの『帝国主義論』が示すように帝国主義段階における対外侵略は必然であったことは明白だったのです。

――ここにおいて軍国少年からコミュニストになったわけですね。1948年9月には日本共産党に入党、一方では弁護士を目指すようになります。

松本 日本共産党に入党した時、世界中の侵略戦争に反対するという思いが強かったですね。

東大出身の諸君は、競争はすれど、仲良くはならない

――松本さんが日本共産党に入党した年に藤田田が東大法学部(1948年4月)に入学してくるわけですから、東大時代はほとんど付き合いがなかったわけですね。

松本 東大時代はねぇ……。だいたい東大というのはね、組が無いんですよ。みんな自分の好きな講座を聞きに行くだけだからね。あんまり個人的な付き合いのないところなんですよ。僕は海軍兵学校出身の諸君と、構内の野原で弁当を広げて飯を食うぐらいの付き合いでした。僕の入学した法学部法律学科の入学者の多くは裁判官、検察官になるのが大きな目標です。弁護士志望は少数派です。そうするとみんなライバルになるわけです。また官庁に入って役人になる者は次官になるのが最終目標です。そうなるともう死ぬまで競争、どこの省庁へ入っても東大出身の諸君は、競争はするけれど、仲良くはならないんですね。

――東大時代、総長が南原繁さんの時代ですが、何かエピソードはなかったのですか。

松本 あれは私が日本共産党に入党した頃のことだと記憶しています。あの時代、東大は左翼でなければ人でないという雰囲気でした。東大総長が南原繁さんの時です。南原さんは左翼的で、東大生の中では評判のいい人だったんです。ところが、彼は唯物論ではなくて観念論ですからね。僕は「いい人だけど観念論ではダメだ」と書いて、立て看板に紙を貼り付けたんです。そうしたらものすごく人だかりがして、大人気になりました。その代わり1晩で学校のほうが、看板を引き上げてしまいました。

――大学の講義に出席せずに、よく卒業できましたね。

松本 はい。成績は合格点ギリギリでした。けれども大学の中では共産党の活動もやっていたものだから、大学側は「とにかく卒業させちゃえ!」と、そういう点数を付けてくれたんです。一人だけ外交問題を英語で教えるという先生がいて、彼の講義を聞いて、講義のとおりに答案を書いて出せば卒業させると言ってきました。少し揉めたのですが先生の言うとおりに書いて、結局合格し卒業しました。

取材・文:中村芳平(外食ジャーナリスト) 写真:永井浩


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