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未知の言語で祈りを捧げる中国人たち-中国の地下教会に行ってきた-

 中国のキリスト教には「方言祷告(ファンイェンダオガオ)」というものがある。
 直訳すれば「方言による祈り」。そう聞くと、その土地に根ざした言葉でお祈りをするものとイメージされる方が大半ではなかろうか。
 しかし、これは日本でいえば、京都弁や博多弁でイエス・キリストに祈りを捧げるようなもの。
 「うちらの罪を堪忍しておくれやす、うちらも人様の罪を許しますさかいに」
 といった感じであろうかと、自分も最初はそんな風に思っていた。

 実際、広大な国土を持つ中国には、数え切れないほど多くの方言が存在する。
 日本の方言と大きく違うのは、中国では上海語や広東語など各地にさまざまな方言があるが、それらがアクセントから発音に至るまで、標準語とはまるで異なること。ご当地ならではの言葉のなまりなどといった生易しいものではなく、全く別の言語と言っても差し支えないほどだ。
 ゆえに、自分が中国の教会に通い出してから「方言の祈り」を幾度となく聞く機会があったものの、全く聞き取れないことに何の疑問も持たなかった。
 でも、お祈りの内容が気になったので、ある日自分を中国キリスト教の世界に引き込んだ大学の先生に聞いてみた。「あの人、いま何を言ったんですか?」と。
 その答えは想像を遥かに超えた、戦慄を覚えるものだった。

「あの言葉は聖霊さまのはたらきで出たものだから、自分でも何を言っているのか分からないのよ」

 つまり方言祷告の「方言」とは、地上に存在しない言語を指すものだったのである。
 なるほど聞き取れなくて当たり前…と納得する前に、正直思った。
 カルトとは言わないが、それって限りなくオカルトに近いものではあるまいか。やはり中国という閉ざされた空間では、キリスト教も独自の発展を遂げていくのか──。

 答えから言ってしまえば、これは中国に限らず、世界中で広く行われている「異言の祈り」なるもので、それを自分が知らなかっただけのことだった。むしろ異言使いのチャイニーズ・クリスチャンたちは、前衛的な信仰の形を体現する人々だったのである。
 というわけで、「中国の地下教会に行ってみた」シリーズ第3弾は、誰にも理解できない言語をあやつる中華キリスト者の話。彼らが捧げる異言の祈りは、果たして天に届いているのか!? 

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■「異言」を聞くたびに脳裏に浮かぶ思い出

 「異言の祈り」を聞く度に、思い出すことがある。
 もうだいぶ前の話になるのだが、テレビのバラエティ番組でスピリチュアルの集まりに潜入し、そこにいる人たちを観察する(端的に言えば面白がる)という特集をやっていた。
 たぶん今ならコンプライアンスやらなんやらで、間違いなく放送禁止。でも当時はまだもろもろ緩い時代だったので、本来なら映してはいけない類の人々のしびれる生態が、お茶の間に届けられてしまったわけだ。

 そこで登場したのが、地底人の間で話されているとされる「地底語」を話す中年女性だった。トランス状態になりながら、地上には存在しない言語を使って何物かとコンタクトしている様子が映し出され、番組ゲストのみなさんは大爆笑。つられて自分も大笑いしたのを覚えているが、「異言の祈り」を聞く度に、この「地底語」なるものが脳裏に浮んでしまうのである。
 自分が通っていた上海の教会は、中国における「異言の祈り」の総本山みたいな場所。それゆえに、周囲の中国人信者のみなさんは、誰もがまるで母国語のように地上に存在しない言葉を駆使し、神に祈りを捧げまくる。筆者にとっては「絶対に笑ってはいけない中国教会」状態で、慣れるまで本当に大変だった。

 もっとも、「異言の祈り」はもろオカルトの「地底語」と異なって、キリスト教の一派(ペンテコステ派など)で認められている立派な信仰行為。「使徒行伝第2章第11節から13節によれば…」などといった詳しい説明は省くが、1900年頃から始まったキリスト教復興運動の中で生まれた、聖書に基づくひとつの祈りのあり方なのである。
 中国は宗教鎖国をしているように見えて、実際にはそれぞれの宗教の信者たちは海外から新しい教えをどしどし取り込んでいる。特にキリスト教の場合、台湾や香港にある団体が大陸の信者たちと交流を持つこともあれば、欧米などに留学した人たちが信仰を持ち帰ることもある。進んだ教えを一度知ってしまったら、愛国主義にバリバリ染まった中国政府公認の教会では物足りなくなるのは、ある意味当たり前。
 ゆえに中国の地下教会には、われわれ異邦人が想像している以上に進んだ教えが広まっているケースも少なくないのだ。

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■言葉ではなく信仰心こそが大事

 
 では中国人クリスチャンは、実際にどんな感じで異言をあやつるのか。誰にも理解できない言語であれば、人それぞれしゃべり方やアクセントなど違って当然、と思いきやまるでひとつの方言のように、みなさん似たような異言を使う。
 音を書き出すと「シーラバババシュラババルルルルレロロルロレロババババ」とかそんな感じ。ベースとなっているのはヘブライ語だと思われるが、それを指摘するとまず大半の人は否定する。自分で意識して発しているのではなく、聖霊のはたらきで無意識のうちに口から出たもの、という大前提があるためだ。

 これを中国語のお祈りの間に挟む人もいれば、延々と異言を唱える強者もいる。さらに集団でのお祈りともなれば、会場を揺るがすほどの「シュバババ」の大合唱。なんて書いてしまうとまるでUFOでも呼ぶ集会みたいにイメージされる方もいるだろうが、実際はもっと神聖な空気感である。感極まって泣き出す人も珍しくなく、お互い何を言っているか分からないにも関わらず場は一体感に包まれる。
 自分が知っている一番の異言使いは、自分を教会に誘ったのとは別の先生だった。一体何の因果なのか、筆者が留学した大学のクラス担任は会話と読み書きのふたりともクリスチャンだったのは以前書いた通り。その達人級の異言マスターとは、読み書きの先生の方である。

 年は自分より若く、何事もはっきりと物を言ういかにも中国の人といった感じの女性。教え方は割と厳し目で、テストの点の付け方もシビアだったのをよく覚えている。
 そんな人が教会では文法も語彙も存在しない言語をあやつり、「祈りは言葉だけじゃないのよ」と読み書きの先生らしからぬことを言う。きっと先生は、理屈ではなく信じる心が大事なのよと言いたかったのだと思う。いずれにしても、仲間と手をつないで輪になり、頭を揺らしながら異言を唱える先生の姿を見た生徒は、おそらくクラスで自分だけだろう。

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■異言の目覚めは突如として訪れる

 逆にもう1人の会話を教える先生は、いつもは子供のように無邪気に振る舞う可愛らしい女性なのだが、教会では言葉を選んで理性的に祈るタイプ。大学に通っている間、ほぼ毎週のように一緒に教会に通っていたが、彼女が異言を使うところは一度もお目にかからなかった。キリスト教の中で異言を認める人は、世界的にみてもあくまで少数派。その先生はオーソドックスなクリスチャンだったのだ。

 ところが先日、卒業後半年ぶりに上海へ行った時のこと。その先生にお祈りをしてもらったら、「シュララバ♪シュルルル♪」と可愛く異言をかまされた。しばらく会っていない間に身辺にいろいろあったとは聞いていたが、それがキッカケとなったのか先生の信仰心はますます先鋭化してしまったようだ。
 そして、「あなたも早く聖霊さまの力が下りてくるといいわね」とトドメのひと押し。こればっかりは学んで身につく言葉ではないというのだ。

 いくら未知の言語とはいえ、会話の先生が言葉を「教えるものじゃない」と断言するのもなかなかいい話だが、ひとまず次に会う時までには異言だろうが地底語だろうが、何かしらしゃべれるようになっておかねばならぬ。それが自分を中国のキリスト教世界へ導いてくれた先生への感謝の表し方だと信じるからだ。

 今は聖霊なるものが下りてくるのを、ひたすら待つのみ。そして、中国に生きるクリスチャンたちが心安らかな日々を送れることを、ただ祈るのみである──。

<執筆者プロフィール>
■もがき三太郎
出版業界で雑誌編集者として働いていたが、やがて趣味と実益を兼ねた海外風俗遊びがライフワークとなる。現在は中国を拠点に、アジア諸国と日本を行き来しながら様々なメディアに社会問題からドラッグ事情まで、硬軟織り交ぜたリアルなルポを寄稿している。



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