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『産まないことは「逃げ」ですか?』著/吉田潮(単行本)

-産んでも、産まなくてもこれで良かったと思える人生のために-

泣けます。
本当に「いまだ女性が背負う問題」の大きさに共感できます。
考えます。
女性をとり巻く世間の無関心と無神経さに対して。
笑えます。
妊活へ取組む姿と自分の生き方を身につけていく微笑ましさに。
また泣けます。
妊娠の喜びと流産してしまった悲しみの間(はざま)で。
出会えます。
改めてあなたと、あなたが愛する家族たちに。
またまた泣けます。
女である自分の人生を見つけていく歓びに。
そして自信が持てます。
女性であること、あなた自身の人生であることに。

コラムニスト・吉田潮がカジュアルかつ真摯に向き合って綴った『産まないことは「逃げ」ですか?』



はじめに

「え? 結婚しているのにどうして働くの?」
 20年前、仕事の関係で付き合いのある、広告代理店の男性から言われた言葉だ。彼は私が結婚していることを知って驚き、ごく素直にこの言葉が口から出たようだ。たぶん彼の中には、
「結婚したら女性は仕事をやめて家庭に入るもの」
 が常識であり、正義だったのだ。当時、私はポカンとした。傷ついたとか、セクハラだと思ったわけではない。
「君はなんで呼吸してるの?」
 と聞かれたようなもので、ちょっと意味がわからなかったのだ。間をおいて、
「お金のためです」
 と答えたと記憶している。
 自分の常識や正義は、必ずしも他人のそれとは限らない。結婚して子供を産むことが当たり前だと思っている人からすれば、独身の人や子供を産まない人に、
「なぜ結婚しないのか」
「なぜ子供を産まないのか」
 と問いたくなるのだろう。決して悪意や嫉妬から発する言葉ではないとわかっていても、ちょっとだけモヤッとする。実は、無意識や善意のほうが厄介だと思い知らされる……。

 この本は、そういう無意識や善意にモヤッとしながらも、実際に自分はどうしたいのか、模索中の人に読んでもらえたら嬉しいです。
 あ、言っておくけど、答えはないし、正解もないよ。こんな女もいるんだな、世の中にはいろいろな人がいるんだな、くらいに思ってください。そんでもって、
「本当は子供を産みたいと思っていない」
「正直、私の人生にはいらないが、それを口に出しづらい」
 という人にも読んでほしいです。言葉にしづらい、公言しにくい根源はどこにあるのかを考えるきっかけにしてもらえたら。私は公言します。子供はいらない、と。
 そして、家族との距離感についても書いています。親子関係がものすごくうるさくて、ありえないほど近い昨今、一度立ち止まって数歩離れて考える、というのもひとつの手です。
 わが家族はユニットとしては非常にゆるくて、それぞれがほどよい距離を置いている感じです。愛がないわけではなく、仲が悪いわけでもありません。依存もなければ溺愛もなく、淡々と個体が不定期に集合するようなユニットなのです。それくらいのほうがラクだし、楽しいよ。
 家族礼賛主義や家族の絆にウンザリしている人は、この本を読んで、ちょっとだけホッとしてください。ちょっとだけだけど。
「ああ、そうか、そこまで家族に縛られる必要はないんだな」
 と思えるようになるはず。なってほしい。なってください。
 まあ、そんなにすごいことは書いていないです。実生活に役に立つ情報もなければ、目からウロコの人生哲学みたいなものもない。
 働く女の味方でもなければ、悩んでいる女性の代弁者でもない。何かこう、波乱万丈のスペシャル破天荒な人生を送ってきたわけでもないのですが、ただひとつ、
「主語は自分で生きてます」
 というだけ。親でもなく、夫でもなく、世間でもなく、私は私。主語が自分だと、こんなにラクなのかと思うし、そこに気づくと3倍くらい楽しいです。3倍って微妙だけど。


第1章 母性より個性

親になれずに一生子供のままなんだなぁ

「ああ、私は一生、子供のままなんだなぁ」
 別に、精神的な若さや幼さを売りにして、成熟を否定しているわけではない。単純に子供がいないから「親」という生物学的な肩書を名乗れない。だから、一生子供のままという意味だ。親の立場、親の気持ちがわからないし、子育ての苦労や楽しみも体験できない。
 でも、そこに引け目を感じることはないと思っている。ライターという職業柄、体験したことを原稿に書く仕事が多い。体験していないからこそ書けることだってある。当事者の強みもあれば、第三者の強みもあるわけで。実際、妊娠や出産の記事を書くこともあったし、子供の性教育の本にかかわることもある。もし、自分が体験したことしか語れない世の中だとしたら、とても窮屈。自分の言葉で自分の思いを語ればいいと思う。子供がいようがいまいが、専門知識がある人は広くあまねく伝えてほしい。
 実際、子供がいなくても子供にかかわる仕事をしている人もたくさんいる。私が取材で出会った人は、「僕は子供がいないけれど、子供にかかわる仕事ができて、ありがたいなぁと思っているんです」と言っていた。子供が世界の宝であることは間違いない。自分の子でなく、すべての子供に目を向ける。それでいいじゃないかと。
 そんな綺麗ごとはさておき、実際はどうか。
「子供がいない人にはわからないわよ」
「子供を産んで育てて一人前」
 と言われたことがある人もいるかもしれない。いかにも前近代的なクソババアが言いそうなセリフだ。テレビドラマではスパイスのように使われている「母親マウンティング」である。独身や子なしの女に、上から目線で乗っかってくるヤツね。
 私自身はそんなことを言われた経験はない(あっても忘れているのかもしれないが)。わかりやすい母親マウンティングに対して、世間は今、非常にセンシティブだ。むしろ子供がいない人がいる時は、子供や子育てに関する話をしないように気遣ってくれることのほうが多い気がする。特に不妊治療を受けていた人に対しては、あえて話題を逸らしてくれることもある。個人的には、そこまで避けなくてもいいのになぁと思うが、不妊で悩み苦しんで、ピリピリした空気を醸し出してしまう人の気持ちも痛いほどわかる。
 昔に比べたらまだマシ。昔といっても私が生まれる前の超昔の話だが、子供を産めない女は「石女」と烙印を押される時代があったのだから。石女と書いて、うまずめ。ひどい言葉だ。そんな時代じゃなくてよかったと心の底から思う。思うのだが、政治家(特に自民党)の女性に対する暴言が頻繁に繰り返されるので、根本は変わっていないのだろう。
 子供のいない人が、自分を卑下しなくていい世の中になりますよう。家族構成や属性で優劣をつけない世の中になりますよう。まずは自分の中の引け目をなくすことだ。

母性のホントの正体は昭和の刷り込み・負の遺産

 人様が抱くイメージは面白いなぁと思う。ライターなどというヤクザな稼業で、酒もタバコも過剰にたしなみ、夜明けのオカマ声でイレギュラーなサイズのボディ(身長176センチ・体重74キロ)をもつ私。世間が抱く「母性」とはなかなかに縁遠いと思われがちだ。なぜか結婚していると思われないし、私が書いた原稿を読んで、「てっきり男だと思っていた」という人も実に多い。なぜかしら。最近は意図的に「オンナ言葉」を入れて、文章の女コスプレをしているというのに。心外だわ。
 でも、数人の友達から言われたことがある。「潮が子供を小脇に抱えている姿は似合うと思う」と。ベビーカーじゃなくて小脇に抱えるってのがポイントなんだけど。長くてたくましい二の腕で、赤子をがっちり抱きかかえてあやすお母さん像をイメージしてくれる人もいたのだ。イメージって人それぞれなんだなぁと思った。
 以前、子供を産んだ女友達の家へ遊びに行った時のこと。彼女が赤ちゃんを抱っこしている姿よりも、彼女の夫が赤ちゃんを抱っこしている姿のほうがしっくりきた。男のほうが実は子育てに向いているんじゃないかとも思った。同時に、私自身が「赤ちゃん=母と一緒」という勝手なイメージを押しつけていたのだと気づいた。母性ってものすごく勝手なイメージの刷り込みなんだよね。もうそれ自体が昭和。昭和の負の遺産なのだ。
 しかし、母性ってなんだろう。優しくて温かくて穏やかでやわらかくて、みたいなものなのか。じゃあ、逆の父性ってなんだろう。強くて頼りがいがあってどっしり構えて、みたいなものか。まあ、これは私の勝手なイメージで綴っただけであって、そんなものはなくてもいいし、どうでもいい。母性が感じられなくても父性が存在しなくても、まっとうに子育てしている人はたくさんいるから。
 たぶん、私たちは常にこのイメージに適合するよう、外れないよう、無意識のうちに母性コスプレを強要されているのだ。そこに違和感や息苦しさを覚えていても、理想の母性像を演じている。もうね、常に女優なのよ。顔はぶたないで。
 もっと言うと、いまだに性別の役割に縛られている人も多い。男は「稼ぎと男気」、女は「家事能力と癒し力」。いやいや。競争が苦手で金を稼ぐことに重きをおきたくない男もたくさんいるし、致命的に家事ができない女もたくさんいる。得手不得手があるのだから、得意なほうがやればいいだけなのに、みんな「こうあるべき」に近づこうと頑張ってしまう。疲れるよね。男も女も。
 イメージプレイはそろそろやめて、適性を活かした役割分担にしたほうがいい。最近、洗濯洗剤や台所洗剤のテレビCMは男性芸能人が出演することが断然多くなった。CMの世界では実に多くの男が家事をしている。実際は、女が使うものだから女を釣るために男を起用しているのだろうけれど、意識は変わりつつあると思いたい。

「子供が苦手」と口にしづらい女たち

 女子児童が将来なりたい職業ランキングに、保育士や幼稚園教諭が毎年あがっていることに愕然とする。大前提に「子供が好き」でないと務まらない職業だ。みんなそんなに子供が好きなのか。子供のくせに子供にかかわりたいって、どういう意味よ? 子供が苦手な私はそこで口をつぐむ。これらの職業になりたいと思ったことが、人生で一度も、ない。
 このデータ、いろいろなところが集計しているようだが、ひとつ思うことがある。そもそも年端のいかぬ女子児童が「自分の短い人生で接したことがある大人」となると、保育士や幼稚園教諭、医師や看護師であるのは当たり前だ。女子は自分の半径5メートル以内を世界のすべてとする結果、身近なサンプルがあがりやすくなる。だから「子供が好き」とはちょっと違うのかもしれない。面白いのは、男子児童。スター性のあるスポーツ系か、大好きな電車や車にかかわる仕事をあげている。視野は広いが、ちょっと夢見がち。保育士や幼稚園教諭はあがってこない。
 でも、「女は子供が好きであるべきだ」という呪縛は強い。男と異なり、「産む性」であることはわかるけれど、だからといってすべての女が子供好きと思われたら、正直キツイ。それ、キツイわ~、無理だわ~と思っている女も実はたくさんいるはずだ。
 たくさんいるのだけれど、声にしづらいのが実情。子供嫌いを公言できる人はほとんどいないし、「子供が苦手」「好きじゃない」と、やんわり濁したとしても言いにくい。卒業式で泣かないと冷たい人と言われそうどころではない。子供が嫌いと言ったら、人間性まで否定されかねない。たぶん子供が苦手な人はそういう話題になった時に笑顔を保ちつつ、スーッとフェイドアウトしてやり過ごしているんだろうな。
 でも、子供が苦手だからといって目の敵にしているわけではない。電車の中で赤子がギャン泣きしていたら、めちゃくちゃ変顔して近づいたら泣きやんでくれるかな、などと考えたりもするし、腹減ってんのかな、ストレスたまって一杯ひっかけたい気分なのかな、と妄想でやり過ごすことも多い。妄想すると、ちょっと楽しいんだよ、これが。
「母乳、クッソまずいよね。考えてみたら血液だし。おれたちゲテモノ食いだよね」
 とか、赤子にアテレコしてみると、ギャン泣きが不思議と面白いものになる。
 小学生ぐらいの子供たちが遊ぶ声も気にならない。以前、江東区の小学校の真ん前に住んでいたのだが、子供たちの声がうるさいと思ったことは一度もなかった。むしろ子供の声が響いてきたら、「もう夕方になっちゃった」と時計代わりに利用していた。子供が苦手=子供に優しくない、ではないと思う。苦手は決して拒否ではないのである。
 でも、これは母になった人でも同じこと。子供が苦手なお母さんも星の数ほどいる。それでも子育てをこなしている。好きか嫌いかで言えば断然嫌いだけれど、決して愛がないわけじゃないのだ。そして、その子供も案外すくすくと育っていくよね。

「子供が好き」と口にしづらい男たち

 逆に男は「子供好き」を公言しにくくなっている。ただ単に子供が好きなだけなのに、性的対象として子供に近づく「ロリコン変態扱い」されるから。ファンタジーをもっているだけで、他人に迷惑をかけたり、子供の人権を奪うようなことをしなければなんの問題もない。ところが実際には、ロリコン変態の犯罪が異様に多い。去勢してほしい。駆逐してほしい。マジで。
 でも、中には本当に子供が好きな男性もいると思う。知人男性が子供を通わせている幼稚園の話を聞いたことがある。その園はイベントなどを行うときに、職員や教員のほかにボランティアスタッフも加わることが多いそう。その中にひとり、20代の男性A君がいて、子供たちからも大人気だった。A君は子供たちと同じように無邪気に真剣に遊ぶのが得意で、保護者たちもありがたいなと思っていたそう。たぶん、幼稚園の先生たちも人手が足りない時に手伝ってくれるA君に相当助けられていたんじゃないかと。
 ところが、ある時、園児の中でも特に顔が可愛い女の子に対して、「A君が執拗な目線を送っていた」という声が保護者の中であがったという。その感覚はうっすらと保護者たちの間でも広がっていたようで、ツルの一声が瞬く間に広がり、共通見解として固まっていった。「A君、ちょっと気持ちが悪い」と。
 親御さんの気持ちはわからないでもない。ただでさえ気色悪いロリコン変態犯罪が多発している昨今、自分の子供を守りたいと思うのは当たり前だ。でも、A君は全力で子供と遊んでくれて、しかも無給のボランティアスタッフで、何か事件や問題を起こしたわけでもない。それでも「子供好きな男=ロリコン変態」という思い込みが、保護者たちの間に根っこを深く這わせてしまったのだという。今のところA君が拒否されたり、追放はされていないようだが、親としては複雑な気持ちなのだとか。
 ホント、子供嫌いな女と子供好きな男は受難の時代だ。
 無意識のうちに「子供好き」を課されてしまう女は、擬態せざるをえない。いや、ホントはしなくてもいいんだけど、擬態したほうが生きやすいコミュニティもある。周囲に誤解されたり警戒されるくらいなら、擬態したほうがラクだ。
 子供好きが公言できない男は、どっしり構えて父親コスプレをする。うんこちんちんと叫んで遊んでいる子供たちと本当は精神年齢が同じくらいなのだが、ぐっと我慢して、冷静沈着を装う。そうか、親ってある種のプレイなんだな。
 そして親という肩書を手に入れられなかった私は、親プレイを観客として眺めている。やじは飛ばさない。余計な口もはさまない。でもそっと見守る。拍手喝采もする。時々、友達の子供と接して、生き物が完成する過程と細胞分裂のスピードを目の当たりにさせてもらう。ご都合主義だけれど、その程度のお付き合いで楽しませてもらっている。

母性より個性。そう思うとラク

 私の中の「子供が苦手」の根っこを辿ってみる。ひとつは単純に「子供と接する機会が少なかった」から。親類縁者とあまり近しい関係がなかったし、自分が最年少の子供という状況が続いて、気づいたらすっかり大人になっていた。なんだかんだでいつも子供まみれになっている家系もあれば、我が家のように子供と無縁の家系もある。物理的な問題ね。
 そしてもうひとつは、「子供は怖い」と思っているからだ。20代の頃、友人の子供(5歳くらいの女の子)と接したことがある。あれは確か高校の同級生の結婚パーティーだった。私は必死に小麦粘土でいろいろなものを作って、彼女の気を引こうとした。ところが、彼女は一瞬たりとも私になつかなかった。子供が苦手なくせに「子供に好かれたい」という私のいやらしい思惑を瞬時に見抜いたのかもしれない。
 このとき、なぜ子供に好かれようと振る舞ったのか。「子供に好かれる人=いい人、善人」という妄想に汚染されていたのだ。女特有の「母性備わってますよアピール」もしたかったのだろう。単純に、自分の生きざまに自信がなかったのだと思う。
 実は、この女の子がその後とった行動が、非常にショックなものだった。その場には、子供が苦手で一切かかわろうとしない女友達Bがいた。子供に近づこうともしない、愛想よく幼児言葉で話しかけもしない。酒を飲んで、小麦粘土まみれの私を遠目に眺めるだけ。
 私からすーっと離れていった女の子は、Bに近づいていき、そっと手を握ったのである。話すわけでもなく、なつくわけでもなかったが、きゅっとBの手を握ったのだ……。
 子供だからといってなめちゃいけない。つぶらな瞳で人間性をしっかり見ているのだと思った。自分のあざとさを反省した。母性アピールに必死な自分が情けなかった。
 女の子の母いわく、「Bが人の輪から外れて寂しそうに見えたから、手を握りにいったんじゃないかな。潮が嫌いなわけじゃないと思うよ」。フォローしてくれたのだが、いやいや、これは完全に見抜かれたのよ。原始的な観察眼をもつ子供が本当に怖くなった事件である。
 子供が苦手なことは今も変わりない。でも、ありもしない母性アピールはしなくなった。「子供が苦手」というのが自分の立派な個性になったからだと思う。もちろん近寄ってきたら全力で接待する。「お尻プリプリ星人~」と尻を振りながら、子供を追いかけて喜ばせるくらいのスキルは身についた。
 実は、私の母も子供が苦手だという。苦手ではなく、嫌いだと言い切った。言った本人は見事な老人力ですっかり忘れているのだが、私はしっかり覚えている。
 子供が嫌いでも、ふたり産んで育てた母。母は母性ではなく、個性で私と姉を育ててくれたわけだ。子供がいる人もいない人も、個性で生きていけばいいと教えてくれた気もしている。
 子供がいないのも、子供が苦手なのも個性。そう思うとラクだ、今もこれからも。

無関心ではなく不干渉の母

「孫の顔が見たい」という言葉は巷でよく聞く。私は言われたことがない。私の母は「勉強しろ」「仕事しろ」「結婚しろ」などと一切言わない人だった。おそらく、言われる前に私が自分からとっとと決めてきたからだ。そもそも、進学、就職、結婚、離婚は親が決めることじゃないし。「失敗しないように」口を出す親ではなく、「失敗してもあんたの人生、私には関係ない」というスタンスを貫いてくれた親だった。
 あまりの無関心に、一抹の寂しさを感じないでもない。でも、母は無関心ではなく、不干渉なのだ。これは大きな差がある。今思うと、本当にありがたい。
 逆に、自分のほうから「子孫繁栄できなくてすみません」と心にもない言葉で謝ったことがある。ある時期、60代以上の男性と話すことが多かった。彼らの口からは、子供の話ではなく孫の話が出てくる。おじさんたちは「子供は可愛くないけど孫は可愛い」と口を揃えて言う。なかには、
「孫ができて初めて、自分が生きている意味を知ったし、役割を果たしたと思った」
 などと話す人もいた。へぇ。そんなもんですかねぇ。これは子育てを妻に任せっぱなしで、子供をもつ実感を持てなかった人の言い訳だと心の中で思った。きっとこういう人が「孫の顔を見たい」と無神経に口走るんだろうなぁ。
 周囲に、自分の人生を振り返り始めた懐古主義のおじさんがあまりに多かったので、私も親に「孫が欲しかった?」と聞いてみたのだ。母はさらっと答えた。
「孫なんて今さら面倒くさいわ。俳句でも孫のことを詠む人は多いんだけどね、孫俳句はベタベタに甘くなるから、格調が低くなるのよ。男性に多いのよね、『園児』とか『お昼寝』とか詠んじゃう孫バカが」
 母はここ十数年俳句をやっている。70~80代のグループにいて、初心者は孫を愛でる俳句を詠む人も多いのだとか。孫がいない母は、孫俳句を詠む人を蔑み、鼻で笑っている。もちろん心の中で。でもうらやましいとか思わないの?
「ちっとも思わない。孫がいたことがないから、わからない」
 母、かなり突き抜けている。もし孫がいて世話を頼まれてでもしたらマジ勘弁、という気持ちも全力で表れているではないか。
 おそらく父も子供が苦手だ。もう認知症が進み、恍惚とする時間が長くなってきたのだが、過去に子供だの孫だのの話をしたことはない。考えてみたら、私の親はどちらも不干渉の人だった。だから、「そろそろ孫の顔が見たい」という言葉は我が家の辞書にはない。
 さて。自分の家がそんな具合だから、ほかの家の常識やスタンス、文化が珍妙に感じることもある(いや、珍妙なのは我が家なのだけれど)。子孫繁栄が当たり前の責務というご家庭では、女たちが結婚や出産を強いられる。女だけじゃないか、男もか。本人は仕事が楽しくて幸せで、充実した毎日を送っているのに、親族郎党からは「欠損感」や「不全感」を押しつけられるという。特に、自分の兄弟姉妹が子孫繁栄に成功した生活を送っていると、比べられてしまうのだとか。「誰かが繁栄してくれているんだったら別にいいじゃん」と思うんだけど。世の中には珍妙で無駄なプレッシャーが多すぎる。

滅私が美学、昭和の母親の真実

 もう少し母の話をしよう。母は専業主婦で、わりと熱心に子育てをしてくれたほうだと思っている。誕生日にはいちごと生クリームのショートケーキをスポンジから手作りし、娘の洋服はミシンで縫って製作し、童話や絵本を買い与え、ピアノを習わせ、保護者会やPTAにも積極的に参加していた。私の記憶を手繰ってみると、母は当時の理想的な母親業をこなしてくれていた。ほら、昭和40年代の母親というか、理想の家庭って、どこもこういう感じだったでしょ? 戦後間もない頃の「子供なんかメシ食わせておけば育つ」みたいな感覚は廃れて、一億総中流家庭で情操教育に熱心になった時代ですわ。
 こんな熱心な母の姿を見て育ったはずだが、私には結婚願望は芽生えなかった。「将来の夢はお嫁さん」という可愛らしいことも一度も言わなかった。人生で初めて接する、女のロールモデルは母なのに、私は母のようになりたいとは思わなかった。
 なぜだろう。私たちのために一生懸命やってくれている母に、感謝こそはすれども、憧れはなかった。母が自分の人生を生きている感じがしなかったのかもしれない。
 母の人生を否定するつもりは毛頭ない。母は母なりに、楽しくやっていたと思う。案外多趣味というか、さまざまな趣味に手を出して黙々とハマッている姿も覚えている。若い頃はバドミントンをやっていたし、突如パン作りに凝ったこともある。編み物は今もやっているし、一時期は木彫りにハマッて、鬼気迫る表情で黙々と板を彫り続けていたこともある。そういえば、籐の網かごやら革細工やら水彩画にも手を出していた。今は俳句だし。
 たぶん私は母よりも先に、父に憧れていたのだと思う。父のようになりたかった。新聞記者として働き、取材と称してあちこちへ行き、家に帰ってこない日もあった。正直、相当自分勝手な人でもあったが、家は守った。稼ぎはちゃんともたらした。母と子供ふたりが不自由なく暮らせる生活を作ってくれた。私はそういう存在になりたかったのだと思う。
 でも、そういう思いを築かせたのは、実は母のおかげである。母は決して父の悪口を言わなかった。父がどんなにひどいことをしても、バカなことをしても、母は悪く言わなかった。娘が父親を尊敬するように育ててくれたのだと、大人になってから気づいた。
 昭和の母親たちは「滅私が美学」だなとつくづく思う。最近になって、丁寧な子育てへの感謝の意を伝えようとしたところ、実はそうでもないことが判明したので記しておく。
 ケーキや洋服を作ったのはお金がなくて、手作りのほうが安いし、作るのが楽しかったからだそう。そして、ピアノは当時流行だったから。
「当時はそういうもんだと思っていたの。疑問やストレスはなかったわよ。かといって私には才能もないから、仕事に生きる人生でもなかったし。子育てが仕事だと思って、淡々とやっていただけよ」
 保護者会やPTAはイヤイヤ行っていて、本当はママ友たちと話すのも苦痛だったんじゃないかと思っていたのだが……。
「あたし、PTAとか案外好きだったのよ。目立ちたがり屋だったのかもしれないわね。ただ母親同士のお付き合いで高価な鍋を買わされた時は、正直バカバカしいなと思ったけど。あまり使わないような、美々卯の8000円もする雪平鍋を買わされたのよね。断ればよかったわ」
 多種多様の趣味はストレス解消、パン作りはたまたま買ったオーブンに講習会がついてきたから。子供のために、というよりも、むしろ自分がやりたくてやってきた、あるいは偶然の産物……。これを聞いてホッとした。子供のためだけに無理をして、自分を殺して生きてきたわけじゃねーんだと。

夫はいらない、子供だけ欲しい女たち

 最近、独身の女友達と飲んでいると、よく聞く文言がある。
「彼氏も夫もいらないけど、子供だけ欲し~い」
 ちょっと前までは、「いつかは欲しいが今じゃない」だったのに。男の価値、急落したな。
 子供だけ欲しいとはどういう気持ちなのか、どんな深層心理なのか、私にはわからない。シングルマザーで大変な思いをしている人も知っているので、とてもそんな気になれない。そもそも妊娠するかどうか、無事に出産できるかどうかすらわからないし、育てるところまで考えが及ぶはずもない。でも、そんなもんだ。妊娠・出産、そして子育ては、未知の世界なのだから。最初っからこういうものだとわかっている人なんて、いないよな。
 そんな中、私の友人でさらに一歩進んでみた女がいる。彼女には長年大好きな男がいるのだが、アプローチはしていない。同じ職種で話も合うが、親友止まり。もはやソウルメイトだ。彼は非常にモテる男で、女に困ってはいないが、結婚願望もまったくない。一生独身を貫くと宣言しているそうだ。彼女は思い切って聞いてみた。
「結婚とか認知とかそういうのは一切いらないので、精子だけいただけませんか?」
 と。子種だけ欲しいと懇願してみたのだ。彼には大爆笑されて、断られたという。よく言えば、度胸のある女。悪く言えば、デリカシーのない女。でも欲望の形がわかりやすくて、遠回りするよりはいい。断られたが、今でも仲よし、ソウルメイトのままだそうだ。
 なぜ彼女は子供を欲しいと思ったのか。私と同じように、決して子供を好きなタイプではない。むしろ厳しい。傍若無人に走り回ってるガキには大きな舌打ちをする女だ。私が全方位外交で善人ヅラしている横で、彼女は「親が悪い!」と眉間にシワを寄せる。ある意味、まっとうな子供嫌いである。
 彼女の場合、実家の苗字を名乗るのは自分が最後になるという感覚があったようだ。年老いた親に孫の顔を見せてやりたい、などの思いもあったのかもしれない。ただし、真意をただせば、子供が欲しいのではなく、「彼の子供」が欲しかったのだと思う。
 これ、私にも心当たりがある。心底惚れた相手の子供が欲しいと思ったことがあるからだ。吐露するならば、「惚れた相手をつなぎとめたい」のである。男をつなぎとめるボンドとして子供は最強じゃないかと思っていたのだろう。
 でも、出産後は男の価値が大暴落するらしい。赤子の一挙手一投足に必死な女からすれば、なんの役にも立たない夫は「不要」なのだという。ドヤ顔でイクメン気取りされても、ツメが甘かったり、後始末が大変だったりして、結局は手間を増やすだけなのだとか。「夫、邪魔。ホントどっか行っててほしい」という声は結構な確率で聞いてきた。
 この男の子供が欲しいというのは、ロマンティストのたわごとなんだね。

初めて聞いた「内孫・外孫」の概念

 ある時、義母が「うちは外孫はいるけど、内孫がいないから」と言っていたらしい。義母の名誉のために言っておくが、別に、いびられたとか、責められたとか、そういうことではない。単純に「嫁いだ娘たちは子供を産んだが(外孫)、息子には子供がいない(内孫)」という現状を言っただけである。
 恥ずかしながら、私はその時初めて知った。内孫・外孫という概念を。孫はみな一緒じゃないのか、内とか外があるんだ……。例のごとく、珍妙なスタンスと文化の家庭に育った私は、軽くショックを受けた。孫が6人いても、息子の子供、つまり直系がひとりもいないことを憂うのか。家を、というか、苗字を継ぐ人がいないことはそんなに由々しき問題なのか。これが、時代劇でよく見る「お家断絶の危機」ってやつか!
 実際は、娘の子供のほうが親近感がわくんじゃないのかなと思ったりもする。息子の子供は他人腹、なんてよく聞くじゃないか。それでも娘は他家に嫁いだから「外孫」なわけだ。夫の実家は商売をやっている。そういうおうちでは、やはりまだまだそういう概念があるんだなぁと感心した。いや、感心している場合じゃなかったんだけどさ。
 継承できずに申し訳ない、と思う気持ちもゼロではない。できないものはしょうがない。いろいろと手を尽くしてみたものの、できなかったのだから、胸を張るしかない。それよりも夫と幸せに生きることのほうが大切だ。そう思うようにしている。
 私の実家のほうも、父はひとりっ子。姉は離婚して子供もいない。おお、お家断絶じゃないか。いずれ無縁墓になるので、姉は墓じまいも想定している。もうそういう段階に突入している。というのが、現在の私だ。
 45歳にもなると、おそらく人生の折り返し地点は過ぎている。肉体的には更年期に突入する時期で、生理もなんだかグズグズし始めている。若い頃はとんでもない大量の出血と痛みが真夏の夜空に上がる花火のようにドカーンときたものだが、最近はショボイ。スタートがショボイのである。そして気がつくとドッと出血し、あっという間に終わるようになった。周期も乱れてきた。28日周期だったのが、24日周期だったり、20日周期になったり、と不安定になりつつある。
 13歳で初潮を迎えたから、32年間子供を産むこともなく、無駄に出血してきたのかと思うと、自分の体に舌打ちしたい気分ではある。でも、すこぶる健康だ。何はともあれ健康で、飯がうまいし、生きている。そして、子供を産んでなくても、女である。死ぬまで女である。
 30代の時は、女としての自分の欲望に折り合いをつけるのがうまくいかず、悩んだこともあった。迷走した時期もあった。都合の悪いことは忘れるタチなので、やや記憶がなくなりかけてはいるのだが、少しずつ掘り起こしていきたいと思う。

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