【医療ミステリー】裏切りのメス―第29回―
【前回までのあらすじ】
チーム小倉のリーダー下川亨は、多摩地域の警察署の刑事、友部隆一から行方をくらませている尾方肇の情報を聞いた。尾方を尾行したは友部は、尾方と中国人少女・林佳怡(リン・ジャイー)がラブホテルに入るのを目撃したと告げ、「尾方の定宿だった」と話した。また、尾方は不法滞在の外国人などを相手に闇医者をしていたが、友部が身辺を探っていることを察知した尾方は再び行方をくらませたのだった。
陰謀渦巻く病院ビジネスを舞台とした【医療ミステリー】連載。毎週火曜日更新!
-著者プロフィール-
●田中幾太郎/ジャーナリスト
1958年、東京都生まれ。『週刊現代』記者を経てフリー。医療、企業問題を中心に執筆。著書は『本当に良い病院 悪い病院』『三菱財閥最強の秘密』(以上、宝島社新書)、『日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊/本日より時間外・退職金なし』(光文社)ほか多数。
<湯本刑事との密会>
友部隆一刑事は喋りたいことを全部、吐き出したからなのか、上機嫌で帰っていった。まだ5時前だというのに、カーテンのすき間から、まぶしい光が差し込んでいた。5月も半ばを過ぎると、日が高くなるのはあっという間だ。1時間くらいは眠っておきたいと、ソファの上でタオルケットにくるまったが、結局、一睡もできなかった。
6時をまわり、少し早いかと思ったが、湯本利晴刑事の携帯に連絡を入れた。
「朝早く、すみません。まだ寝てました?」
「いや、大丈夫ですよ。とっくに起きています。40代半ばになって、やたら早く目が覚めるようになってしまいましたから。最近は、朝4時からテレビでやっている時代劇の再放送を観るのが日課になっているんです」
湯本と同い年の私も近ごろ、眠りが浅くなってきたのを感じ始めていた。ウトウトしだしても、すぐに目が覚めてしまうのだ。もっとも、今日、眠れなかったのは、友部から思いもよらぬ話を聞かされたおかげで、極度の興奮状態になってしまったからだ。
警視庁所轄署の刑事から、尾方肇について興味深い情報が入ったことを伝えると、「警視庁か」と湯本は嘆息を洩らすように呟いた。
湯本の所属する埼玉県警は、警視庁よりもずっと規模が小さい。予算ベースで5分の1ほどだ。警視庁と聞くだけで、何か頭の上がらない気分になってしまうのだろう。あまり世話になりたくないという気持ちが携帯の声からも伝わってきた。
「警視庁といっても、その刑事が個人的興味で調べたことですからね。せっかく情報提供してくれたのだから、ここは使わせてもらいましょうよ。向こうもOKだと言っていることだし」
「どこでその刑事とは知り合ったんですか?」
「私が逮捕されたことがあるのはご存知ですか。そのとき、取り調べに当たった刑事です」
湯本は私の逮捕歴、さらには起訴され、無罪になったことも知っていた。相手の懐に飛び込む以上、その程度のことは調べておいたのだろう。
「それに、その刑事はもう53歳で、自分のところの組織に尽くそうなんていう気はさらさらないんですよ。子どもも大きくなって、奥さんとも別れたそうですから、必死に稼がなきゃという気持ちもない。尾方を調べて、どうかしたいという欲があるわけでもなく、単純に面白がりたいだけなんです。だとしたら、せっかく集めてくれた情報を活かさない手はないじゃないですか」
「なるほど……」
「いま、電話でお話ししてもいいんですが、どうせなら昼メシでもどうですか。今日はどうなっています?」
「午後4時から会議があるから、東京まで出ていくのはしんどいけど、こっちのほうに来てくれるのなら大丈夫ですよ」
「じゃあ、この前、連れていってくれたうなぎ屋でどうですか。ちょっと固めに焼き上げた蒲焼きがとても美味しかったし」
「了解しました。では、12時に現地で落ち合いましょう」
<現状報告>
私はうなぎ屋に行く前に、チーム小倉の牙城となった安井中央病院に寄っていった。ここからなら店までタクシーで20分程度だし、自身の車を病院に置いていったほうが何かと都合がよかった。前回、店に行ったときは車だったため、酒が一滴も飲めなかったのだ。
午前10時、理事長室に顔を出すと、チーム小倉のメンバー全員が揃っていた。東京のマンションを出る前に、病院に寄ることを事務長の蒔田直也に伝えておいたのだ。
小倉明俊になりすましている理事長兼病院長の吉元竜馬は変装のため、今年に入って、ひげを生やしだしている。最初は口ひげとあごひげを短く揃えるゴーティスタイルだったが、本人は気に入らなかったのか、ほおひげやもみ上げも生やすフルフェイススタイルにしてしまった。顔のかなりの部分をひげが覆っているので、表情はよくわからないが、顔色が心持ち、悪い気がした。
「小倉先生、その後も手術はやられているんですか」と吉元にたずねた。チーム小倉のメンバーは4人全員、小倉が本当は吉元という天才脳外科医であることを知っていたが、理事長室の中でも、吉元という名前は出さないように気をつけていた。誰が突然、入ってくるとも限らないのだ。
吉元は26日前、襲撃され、外傷性脳内血腫を起こしていた安井会グループの前理事長・安井芳次の手術に臨み、見事に生還させていた。間近で見ていた助手の外科医や麻酔科医は、その手際の良さに舌を巻いていた。
国内トップクラスの手技は、病院の売りになるはずだったが、あまり目立ちすぎるのも困るのだ。評判になって、小倉明俊という医師を調べられたら、肝胆膵外科が専門であることがわかってしまう。その外科医が脳外科手術をうまくこなしてしまったら、疑いの目を向ける者も出てくるだろう。それは何としても避けなけれならない。とどのつまり、小倉明俊を名乗っている吉元に、脳外科手術はなるべくやらせたくないのだ。
「安井先生の手術をやったあとは、僕が執刀するチャンスはまだないな」と吉元は言った。どこか残念そうだ。やはり、外科の申し子なのだろう。メスを握るのが楽しくて仕方ないのである。
「肝胆膵の簡単な手術なら、訓練しなくてもすぐにできる自信はある。いまはもっと難易度が高い肝胆膵手術のやり方も勉強しているんだ。オールラウンドの外科医として、人が足りないときは僕が執刀しようと思っている」
吉元も脳外科オンリーではまずいことを理解しているのだとわかり、少し安心した。
「蒔田事務長や佐久間看護部長からも報告を受けたいところですが、今日はあまり時間がありません。私のほうから、少しだけ報告させてください」
改めて「佐久間看護部長」などと口にしてみると、どこか白々しい気がした。佐久間君代との婚姻届を役所に提出してから、ちょうど1ヵ月になる。蒔田にも吉元にも、この事実は伝えていない。当分の間、伏せておくつもりだった。
私は昨晩から今朝にかけて、友部隆一刑事から聞いた話を要点だけ伝えた。そして、こう続けた。
「これから埼玉県警の湯本刑事と会うんですが、いまの話をするつもりです。私たちチーム小倉にとって、一番の脅威になっているのは尾方肇です。正直、警察に協力するのはあまり気が進まない。といって、尾方を野放しにしておいては、私たちがこれから展開しようとするプロジェクトに支障が出てしまう。安井芳次が襲われたように、今度は私たちの誰かがターゲットにならないとも限らないのです。もちろん、まったく別のことを考えている可能性だってある。逮捕状が出ているのに逃げ続けているということは、ひそかに反撃策を練っているのかもしれない。いずれにしても、この状態が続く限り、私たちも思い切った行動がとれないということです」
<湯本の自信>
私は話し終えると、病院前に止まっているタクシーに飛び乗り、埼玉県から群馬県に入ってすぐのところにあるうなぎ屋に向かった。店に到着すると、すでに湯本利晴刑事が個室で待っていた。
「この前、飲めなかったから、今日は軽くやりましょう」
湯本はうなづいた。私は電話で、車で来ないように伝えておいたのだ。ここまで路線バスを使って来たという。
「4時からの会議は大したものじゃなくて、お偉いさんの訓示を聞かされるだけだから、逆に少しくらいアルコールが入っていたほうがいいんです。じゃないと、退屈で間がもたない」と湯本は笑った。
酒は湯本が勧める大分・国東の純米酒。うなぎに合うというので、ぬる燗を頼んだ。肴に、肝焼きと白焼きが運ばれてきた。
「たしかに、ぬる燗だと酒の旨みが引き立ちますね。うなぎと酒を一緒に口に含むと、川魚特有の臭みをまったく感じなくなる。これはいい飲み方を教えてもらいました」
私は酒を少しずつ、口に運びながら、友部隆一刑事から聞いた尾方の話を伝えた。新大久保のラブホテルの一室に住みながら、ヤミ医者まがいのことをやっていたという話については、あまり興味を示さなかった。湯本の顔が一気に紅潮したのは、医学部生だった尾方を奈落に突き落とすきっかけとなった中国人少女、林佳怡(リン・ジャイー)について、話が及んだときだった。
「2人はよりを戻していたんですか」
あまりに驚いたのか、湯本の声は裏返っていた。私は友部から聞いたジャイーについての情報をひとつも洩らさないように、こと細かに湯本に伝えた。
最後はひつまぶしで締め、うなぎ屋をあとにし、タクシーで湯本が勤める所轄署の近くまで送った。湯本は「下川さん、これで尾方を捕まえられるに違いありません」と自信にあふれた言葉を残し、タクシーを降りた。
それからちょうど10日後だった。湯本から電話がかかってきた。
「尾方を逮捕しました」
湯本の声は弾んでいた。