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ぶらり大人の廃線旅 第3回 JR可部線 「一部復活」した異例の廃線はかつて浜田を目指していた(前編)

きわめて異例な「復活した廃線」

 JR可部線は広島の2つ先にある横川駅(広島市西区)から太田川沿いに北上し、線名となった可部駅を経てあき亀山駅に至る15.6キロの地方交通線である。現在では赤いシンボルカラーの新しい車両が入って、かつての旧型国電が走るローカル線というイメージからは脱却した。中国地方最大の都市・広島の郊外を結ぶ大都市圏にふさわしく、昼間はちょうど20分間隔で運転されている。

▲JR可部駅

 JRの路線の中ではだいぶ短い部類であるが、平成15年(2003)までは可部から先も太田川沿いをはるかに遡った三段峡駅まで46.2キロ(横川からは60.2キロ)の線路が続いていた。つまり現在の4倍近い距離を擁していたことになる。当時も可部までは20分間隔で運転されていたが、その先はほとんどが山間部でしかも非電化線ということで、気動車が加計駅まで1日8往復、そこから終点の三段峡まではわずか5往復のみの運転であった。横川~可部間との乗客数の差は極端に大きかったのである。

 モータリゼーションの進展のため、特にローカル線の乗客の減少傾向は顕著だが、可部線でも不採算区間である可部~三段峡間を廃止する意向を平成10年(1998)に表明した。沿線では廃止されないよう乗車運動が行われ、数々のイベントなどを通じて乗客を集める努力を続けた。PRのために「がんばれ可部線」というパンフレットなどを定期的に頒布するなどの活動が行われたが存続はかなわず、平成15年(2003)12月1日に廃止されている。姿を消した駅は21にのぼった。

 異例なのはその後だ。可部から先の1.6キロが「復活」したのである。もともと都市化が進んでいた可部市街の西側にあたる亀山南周辺は住宅地が多く、廃止の話が出る以前から可部~河戸(こうど)間の電化要請が「可部駅・河戸駅間電化促進期成同盟会」から出されていた。平成26年(2014)に施行された「地域公共交通活性化再生法」の後押しもあって具体化、線路や駅施設などは国が事業費27億円のうち3分の1を補助、広島市が残りを負担することで解決した。途中には河戸帆待川(こうどほまちがわ)駅も新設されている。これらの施設整備を国や地方自治体が分担するやり方は欧州では当たり前であるが、やっとここまで来たかと感慨深い。

 復活にあたって問題となったのは3か所の踏切で、鉄道事業法や道路法では原則として新設が認められない踏切をどう正当化するかであった。JR西日本は当初、踏切を復活させない方針であったが、地元住民にとっては不便になるため意見が対立、少しばかり難航したものの結局は新設が認められている。このことは既存鉄道や軌道を「進化した路面電車システム}であるLRTとして活用発展させるためにも大きな前進だ。いずれにせよ、廃止された鉄道路線が復活するのは、JR線としては初めてである。

可部線の歴史

 広島県沼田郡三篠(みささ)村大字楠木(くすのき)に明治30年(1897)に設けられた山陽鉄道(現山陽本線)横川(よこがわ)駅。広島市街の北西に離れた場所であったが、ここから北上する大日本軌道広島支社の軽便軌道が敷設されたのが同42年(当初は横川〜祇園)のことだ。同44年には可部まで延伸された。可部といえば昔から五右衛門風呂の産地として知られた鋳物の町である。
 当時の線路幅は762ミリと狭く、ミニサイズの蒸気機関車が客車や貨車をのんびり牽引していた。大正4年(1915)の時刻表によれば8マイル42チェーン(13.7キロ)の距離を、現在の倍ほどのちょうど1時間かけていたことがわかる。表定時速はそのまま13.7キロだ。

 その後いろいろな曲折があって昭和6年(1931)には広浜(こうひん)鉄道という私鉄になる。その名の通り広島から中国山地を越えて日本海側の島根県浜田を結ぶという壮大な計画だが、それだけの大工事を私企業が行うのは現実的でなく、この夢見がちな社名は「投資家向きの大風呂敷」だったに違いない。大正11年(1922)の鉄道敷設法別表では「広島県広島付近ヨリ加計ヲ経テ島根県浜田付近ニ至ル鉄道」として予定線に掲げられているから、そこに目をつけた路線ではないだろうか。この鉄道敷設法が「別表」で具体的に敷設すべき路線を挙げてしまったことは後世さまざまな問題となる。いずれにせよ「利益誘導型」の政治が幅を利かせる伝統は戦前からあった。

 可部駅から先は鉄道省が建設を進めていたが、昭和11年(1936)に安芸飯室(あきいむろ)駅まで伸びた際に横川〜可部間を国有化、全線が国鉄可部線となった。しかし同12年に日中戦争が始まると工事は中断、その先は戦後に再開されて同21年に布(ぬの)駅まで、同29年には山県(やまがた)郡の中心でかつて郡役所が置かれた加計(かけ)までが開通した。昭和44年(1969)には三段峡(さんだんきょう)まで伸び、観光ブームもあって紅葉の頃やスキーシーズンにはかなりの盛況を呈している。しかし徐々にモータリゼーションの影響で利用者は減少し、特に可部から先はそれが顕著であった。三段峡の先も工事は進められていたが結局は県境越えを果たすことなく、建設を断念している。

太田川に沿う廃線跡

 あき亀山駅から先はほとんどが山間部で、線路は太田川に沿って伸びている。廃止されて15年以上経つが、錆びたレールがところどころ残っていた。今井田駅へは南側へ蛇行する太田川をショートカットしつつ峡谷を遡るが、その途中には赤煉瓦の重厚な建物が残っている。明治45年(1912)に広島電燈が太田川に最初に設けた旧亀山発電所のものだ。太田川は古くから「暴れ川」として知られ、それだけ水力発電の適地だったのである。建物の壁には、大正から現在に至るまでの洪水でどこまで水が来たかを示す表示板が貼られていた。最も高い昭和18年(1943)9月の洪水跡のラインは見上げるような高さである。最近では平成17年(2005)の洪水も記録されていた。発電所は昭和48年(1973)に廃止され、現在では太田川漁業協同組合が事務所として使われている。

▲河戸付近の発電所跡

 その先の安芸飯室駅(横川起点25.1キロ)は国鉄が昭和11年(1936)に最初に延伸した終点で、その頃と思われる木造駅舎が残っていた。今はカフェとして使われており、各種のワークショップの場としても活用されているという。建物は放置すれば朽ち果てるだけだが、このように現役であれば長もちする。昨年訪問したドイツのある駅では、廃駅舎が貸別荘としてきれいに使われているのを見た。安芸飯室駅のプラットホームに回ってみればレールと信号機なども残されており、背後の石積みの棚田とともに昔ながらの風景が残っている。

 布駅の先が東京の人ならオゴウチと読みそうな小河内(おがうち)駅(横川起点29.6キロ)。この先は太田川の河道が激しく蛇行しているため、可部線は2つ先の水内(みのち)駅までの間に第1太田川橋梁(179メートル)、第2太田川橋梁(183メートル)、第3太田川橋梁(113メートル)、第4太田川橋梁(177メートル)を相次いで渡る。第2と第3の間にあるのが安野(やすの)駅。これらの橋梁はいずれも橋脚の上に桁を渡したガーダー橋であるが、赤く塗られた桁はまだ残っていた。

▲第2太田川橋梁

 蛇行をショートカットする路線は必然的に勾配が急になるので、このあたりから20〜25パーミルの上りが目立つようになる。32キロポストのすぐ先が安野(やすの)駅で、ここには廃止前に可部線を走っていたキハ58型の気動車が保存されている。戦後の昭和29年(1954)竣功の鉄筋コンクリートの駅舎も健在で、周囲は「安野花の駅公園」に生まれ変わった。

後篇に続く

今尾 恵介(いまお・けいすけ)
1959年横浜市生まれ。中学生の頃から国土地理院発行の地形図や時刻表を眺めるのが趣味だった。音楽出版社勤務を経て、1991年にフリーランサーとして独立。旅行ガイドブック等へのイラストマップ作成、地図・旅行関係の雑誌への連載をスタート。以後、地図・鉄道関係の単行本の執筆を精力的に手がける。 膨大な地図資料をもとに、地域の来し方や行く末を読み解き、環境、政治、地方都市のあり方までを考える。(一財)日本地図センター客員研究員、(一財)地図情報センター評議員、日本地図学会「地図と地名」専門部会主査、日野市町名地番整理審議会委員。主著に『日本鉄道旅行地図帳』『日本鉄道旅行歴史地図帳』(いずれも監修/新潮社)『新・鉄道廃線跡を歩く1〜5』(編著/JTB)『地形図でたどる鉄道史(東日本編・西日本編)』(JTB)『地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み1~3』『地図で読む昭和の日本』『地図で読む戦争の時代』 『地図で読む世界と日本』(すべて白水社)『地図入門』(講談社選書メチエ)『日本の地名遺産』(講談社+α新書)『鉄道でゆく凸凹地形の旅』(朝日新書)『日本地図のたのしみ』『地図の遊び方』(すべてちくま文庫)『路面電車』(ちくま新書)『地図マニア 空想の旅』(集英社)など多数。

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