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1秒でも早く楽になりたかった(『マリフアナ青春治療』著・工藤悠平より)

 書籍『マリフアナ青春治療』。著者は実業家、投資家として活躍している工藤悠平氏。この本は常識と価値観を揺さぶる彼の人生と学び、そして社会に対する疑問を綴った書籍となっている。

 頸椎ヘルニアが突如発症!
 死ぬほどの激痛に悶え苦しむ
 そして、人生は大きく変わった
 日本ではなぜ医療用大麻の解禁はなされないのか、への疑問──
 頸椎ヘルニアの治療薬として日本の病院で処方されるのは、今やアメリカでは悪名高き、副作用の多い大量の薬だった。

 著者はただただ死にたくなるほどの激痛から逃れるため、ロサンゼルス、シアトル、バクーバーへと大麻治療の旅に出た……。日本の非常識は海外の常識、海外の常識は日本の非常識だった!

町山智浩(コラムニスト)絶賛推薦!!
「著者は病を癒やすために大麻にたどりつき、大麻が合法なカナダへの移住を決断する。本書は日本人の大麻恐怖症への治療薬だ。」

『マリフアナ青春治療』の一部を少しだけ公開。興味を持った方はぜひ一読してください。

第1章  発病、二度の渡米

発病、入院

 激痛。それ以外何もない。頭の中は真っ白だった。

 数日前から肩に違和感はあった。
しかし、当時の僕はそんなことよりも、かねてからの憧れであった事業再生の経営コンサルタント会社を辞職してまでの挑戦で、一次試験を10回目でやっと通った公認会計士の論文式試験を1週間後に控えていたのだ。これが「肩凝り」とかいうやつか、その程度の認識だった。
前職にも迷惑をかけたし、親からの期待や周りを見返さなければならないという使命感に自分を律し、ひたすら机に向かう毎日だった。とりわけ試験直前なんて、受験生の誰しもが体力ギリギリで戦っているのだから、ほかの受験生と同じ、もしくはそれ以上に努力しなければならなかった。

 震えが止まらない右手でとりあえず市販の解熱鎮痛剤を成人1回分服用した。30分後、1時間後、普段の頭痛程度ならとっくに効いているはずだった。しかし、痛みが治まることはなく、むしろひどくなっていた。やむを得ず解熱鎮痛剤をもう1錠服用した。

 幼い頃から解熱鎮痛剤は怖いと親から漠然と教わっていたため、解熱鎮痛剤を2回分一気に飲むなんて考えたこともなかった。しかしそれでも効果はなかった。

 人生で初めて199とスマホに入力したが、そこまでつらくても発信を躊躇していた。死までも覚悟するほどの激痛だったが、鎖骨が折れたわけでもないようだし、ただ肩が痛いなんていう理由で救急車なんて呼んでよいのかと、変なところで冷静になってしまっていたのだ。なぜかはわからないが、とりあえず母親に連絡したところ、僕の話し方や雰囲気からその異常さを察し、すぐに病院に行くよう諭された。

 そこでようやく、僕の家の前の道路は狭すぎて救急車が入れないこと、その狭い道路の先の歩いて3分程度のところには公立の総合病院があることを思い出した。

 1秒でも早く楽になりたい一心で保険証と財布を手に家を出た。

 一歩足を進めるごとにその振動が肩に響き、激痛に涙がこぼれるありさまだ。いつもの歩調なら3分ほどで着くはずなのに、永遠にも思えるほど遠かった。

 なんとか病院の救急外来にたどり着き、症状や解熱鎮痛剤を多く服用したなどの事情を伝えた。問診票に記入するよう促されたのだが、自分の名前さえ満足に書けなかった。
そして、体温と血圧を測ったところ、血圧は200を超え、体温は37度台中盤であったと記憶している。

 通常の2倍も解熱鎮痛剤を服用した後にもかかわらずだ。

 どのくらい待ったかは覚えていない。おそらく5分や10分程度だったと思うが、僕は座っていることすらできなかった。その時間たるや、本書を執筆している今ですら思い出すと手に汗がにじむ。

「どうぞ。」

 診察室に呼ばれ、若い医師が冷静な口調で淡々と質問をし、僕のおでこをツンとつついた。

「ぎゃあぁぁぁぁ!!!」

 まさに断末魔の叫びだったと思う。

「MRIを撮らなければ断定はできませんが、おそらく頸椎ヘルニアですね。」

 ヘルニア。数年前にいわゆる「ぎっくり腰」をやっていたので、それが何かはすぐに理解できた。しかし、つらかったのは記憶しているが、今のこの激痛はそのレベルではない。僕は目の前の医師に向かって必死に、翌週に試験があるからどうにかしてくれと訴えた。

 医師国家試験も夏場に3日間かけてやるのだが、公認会計士論文式試験も3日間かかる。そのために費やす労力たるや、三大国家試験といわれるだけあり、医師も何かを察したのであろう。

「事情はわかりました。しかしこのお薬はいわゆる「麻薬」です。それでもいいですか?」

「麻薬」という言葉に一瞬躊躇したが、状況的にも体調的にもそれを受け入れることにした。否、そうするしかなかった。そもそも麻薬といえども使い方を誤らず、医師の指示に従って飲む分にはもちろん合法だし、効果もあるのだろう。ただし、痛みを抑えることができても強い副作用や離脱症状が出る。その副作用を抑えるために吐き気止めと下剤を処方された。
処方を受けてすぐに服用し、帰宅した。吐き気止めも同時に服用したため、吐き気に関しては気にならなかったが、人生で初めて便秘というものを経験した。

 便秘気味の方々はつらい思いをしているのだということを、こんなことを通して気づかされた瞬間でもあった。

 しかし、肝心の痛みは治まらなかったし、右腕の震えも止まらなかった。その日はとにかく試験のことで頭がいっぱいだったため、どうにかする方法はないかとネットで検索したところ、ブロック注射というものがあることを知り、なんとか活路を見いだせたかのように思えた。

 翌朝、激痛によって叩き起こされた。

 すぐに近くの医院に行き、前日に調べたブロック注射をお願いしたのだが、首だといろいろな神経が密集しているため、危険性が高くダメだといわれてしまった。その後、数軒の医院にも同じことを言われて断られた。試験は数日後だった。何としてでもこの状況から抜け出さないと、この数年間の準備が水の泡だった。
だが、なんとかブロック注射をしてくれる医師を見つけ出すことができたため、打ってもらうことになった。

 痛みはある程度治まったように感じたのだが、ふらつく足元のまま帰宅したと記憶している。血液検査の結果、糖尿病もあることが判明し、すぐに大きい病院に行くようにという診断も受けていた。

 激痛に加え、糖尿病もだなんて……と内心は焦っていたのだが、なんとか机に向かえる状態であったため、残りの数日は夢中で勉強し、試験も受けることができた。

 麻薬は試験の最終日までの処方だった。試験終了から3日間ほどはかなりつらい悪心、悪寒、嘔吐に襲われた。これが麻薬の離脱症状なのか、単に試験のためにした無理がたたった結果なのか。それはわからない。しかし、おそらく人生最大の苦痛だっただろう。


 とりあえず落ち着いた時点で、今度は内科の医院へも行き、再度血液検査をしたところ、やはり糖尿病であり即入院ということになってしまった。しかし内科への入院となるため、頸椎ヘルニアの治療は別扱いとなり、さらに入院中はほかの医療機関へかかることへの制約があることも知った。いま僕にとってつらいのは肩の痛みであり、糖尿病は特に自覚症状もなかったのだ。僕は整形外科医に再度痛みが引かないことを訴えてMRIの撮影をしてもらった。

「なかなかですねぇ。」

 医師のこの一言は妙に印象に残っている。その真意はたくさんの患者を診てきた医師にしかわからないのだろうが、僕の状態は「なかなか」であるようだ。
そして、神経痛に効くという新薬を処方してもらった。この時点で「麻薬」とは基本的にはケシという植物から生成された成分であるという程度のことは調べがついていたため、ケシを原料にしていなければ、つらい副作用や離脱症状に襲われないと認識していた記憶がある。ただし、この新薬もケシこそ原料にしていないものの、家族にまで副作用や離脱症状の説明を要するといった薬だった。この新薬を処方してくれた医師も、積極的にというよりは、やむを得ずといった様子だった。

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その際に撮影されたMRI画像。素人目にも異常さがうかがえるだろう。ただし、痛みの感じ方には個人差があり、このような状態でも処方薬や痛み止めテープだけで平気な人もいるようだ。つまり、痛みの度合いはMRIでも測ることができない。

 入院までにその新薬も徐々に量が増えていった。しかし痛みは治まらない。もちろん全く効かないというわけではなく、かなりの効果はあるのだと思う。だが、どの程度効いているのか、当事者の僕ですら説明することが困難だ。痛いものは痛い。本書を手に取っていただいた皆さまも病院で聞かれたことがあるかもしれないが、

「ズキズキですか?」

「ジンジンですか?」

 と聞かれたところでこちらも困る。もし僕が、

「ギャンギャンです!」

 と答えたら伝わるのだろうか? 医学にまるで無知な僕は、自分の症状も本来は薬で治るものだと思っていたのだ。

そう、元通りになると。

 だからこそ何軒も病院を回り、助けを求め続けた。どうにかして治してほしいと。

 この思いは後に、ある程度の痛みは一生付き合わなければならないと受け入れるまで消えることはなかった。

 入院を待つ間に、ネットで「ヘルニア 糖尿病 特効薬」などと夢のような単語を検索していたところ、CBD(カンナビジオール cannabidiol)というサプリメントを見つけたため、試してみることにした。今でこそWHOの発表により、てんかんなどに効果があるとして一流デパートでもサプリメントとして扱うようになったが、当時は医師ですらその存在を知る人は少なかった。さらに、大麻の医学研究が法律で禁止されているようであるため、たとえサプリメントだとしても、入院中の患者が使うことは病院の会議にかけられた。

 日本の税関をパスできるように作られたCBDは、七味唐辛子にも含まれる麻の実、もしくは麻の茎から抽出されなければならない。要は食品であり医薬品ではないという扱いのようだ。病院でどのような会議が行われたのかはわからないが、使用を許可していただくことができた。

 残念ながら痛みは引かなかった。

 だが、糖尿病の判断基準であるHbA1c(ヘモグロビンA1c)が、健常者の範囲内に近づく期間が早かったように感じた。というのは、僕はただ入院していただけであり、食事や生活環境は他の患者と同じだったのだ。僕は基本的に落ち着きがない。そのため、他の患者よりも院内をうろついて時間つぶしをしていたことで運動量は多かったと思う。これ以外で他の患者と違うのは、CBDを接種していたかどうかである。違いはその程度だ。そんななか、主治医からの、

「あなたの努力のおかげです。」

 という一言になんとなく違和感を持ち、病室で大麻について調べだした。そのときに「山本医療大麻裁判」の存在を知った。

「山本医療大麻裁判」を簡潔に説明する。

 全ての医師に見放された末期癌患者である山本正光氏が、ネット検索により大麻が癌に効くかもしれないことを知り、少しでも長く生きたいと大麻にすがった。その結果、逮捕された。しかし、当時の日本の医療ではあり得ないほどの回復をしていたことから、生存権の行使を認めて、無罪を勝ち取りそうな優勢な状態で裁判が続いていた。しかしながら、誠に残念なことに、裁判中に山本氏は亡くなってしまったという痛ましい事件だ。

 さらにこの裁判記録から、CBD以外の、大麻に含まれる他の成分が痛みに効くかもしれないことも知った。

 この頃には前述の新薬が日本で処方できる上限に近づいていた。しかしながら痛みは引かず、僕も最後の望みとして大麻にすがりたいと当然思った。

 入院中も毎日が激痛との戦いだった。だが僕は糖尿病患者としての入院だったため、整形外科での診察に制約があった。それでも何度も主治医に助けを求め、病院内の整形外科で診てもらうことができた。

 だが、右記新薬の量が増えただけだった。

 内科の主治医も、糖尿病性神経痛の可能性もあるとのことで親身に相談に乗ってくれたし、薬の量が増え続けるのを警戒する僕に対して、漢方を勧めてくれたりもした。

 だが、痛みから解放されることはなかった。

 退院後すぐにアメリカへ飛んだ。

工藤悠平(くどう・ゆうへい)
1986年生まれ。青森県むつ市出身。実業家。投資家。
早稲田大学大学院会計研究科(英文学位: MBA)
修了後、事業再生コンサルタントを
経てカナダへ移住。カナダ政府、難民保護課勤務
『マリフアナ青春治療』が初著書。


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