星野ロミ著 『漫画村の真相:出過ぎた杭は打たれない』第1章【全文無料公開】


月に1億6000万アクセスに達し(CODA発表)、国家を巻き日本メディア史上最大の事件となった「漫画村事件」。この巨大サイトの首謀者とされたのが星野ロミ国際指名手配されフィリピンで拘束。著作権法違反と組織犯罪処罰法違反で懲役3年、罰金1000万円、追徴金約6257万円(求刑懲役4年6ヶ月、罰金1000万円、追徴金約6257万円)の実刑判決を受け、昨年出所。現在は損害賠償額20億円の民事裁判が継続中だ。「漫画村事件」のすべてを初めて綴った本『漫画村の真相:出過ぎた杭は打たれない』が9月26日に発売。驚くべき真相が明らかになる。第1章を全文公開する。


星野ロミ著『漫画村の真相:出過ぎた杭は打たれない』(KKベストセラーズ)が9月26日に発売


第1章 生い立ち


【レゴブロックで遊ぶ内気な少年】

 星野ロミ、本名を星野路実というぼくは、1991年12月10日に生まれ、東京都練馬区で育ちました。父はイスラエルとドイツの二重国籍、母が日本人なので、ぼくはイスラエル・ドイツ・日本の三重国籍ということになります。祖父はポーランド生まれのユダヤ人で、事情を詳しく聞く前に亡くなってしまったのですが、第二次大戦のさらに前、ホロコースト(ナチスドイツによるユダヤ人の迫害・虐殺)以前にはイスラエルに移住してきていたようです。

 祖父も父も、もちろんぼくも、一度もドイツに住んだことはありません。祖父がドイツ国籍を持っていたから、当時血統主義だったドイツの国籍を父も持ち、ぼくはドイツと、同じく血統主義であるイスラエルの国籍を両方持ち、さらに母が日本国籍なので日本国籍も持っている、ということになる、と思います。

 この件は非常に微妙な問題なので、ある意味では当事者でありつつ迫害の経験者ではなく、さらに祖父からも何も聞いていないぼくには詳しく語ることはできません。そもそも「ユダヤ人」とは、国、文化、言語によっても変わる、定義を共有しにくい表現だからです。

 ただ歴史的に見ると、ユダヤ人はホロコースト以前からさまざまな迫害を受けて世界中に散りつつも、それを知恵で乗りきってきた人たちである、ということはできると思います。別の言い方をすれば、ユダヤ人は何かを禁止されたら、禁止されていない職業や商売を見つけ出し、必死に生き抜いてきた人たち、といえます。ぼくにその影響があるのかないのか、あったとしてどのようなものかはわかりませんが、ぼくがユダヤ人を先祖に持つことは事実です。

子供の頃の僕は泣き虫で些細なことで悲しくなってしまってよく泣いていた。パスポート用に取得した写真。

 
昔のぼくは、シャイな子どもだったとは思います。

 子どもの頃、ぼくの最高の遊び道具はレゴブロックでした。小さなパーツを組み合わせることによって、飛行機だって船だって作ることができる。もともと完成形とされているものはありますが、その通りに作る必要はまったくありません。想像力で補いさえすば、どんなものでも思うままに作ることができるのです。それを延々とやっていました。

 他人から褒められたいわけでもなく、もちろんお金のためでもありません。自分の作りたいものを、自分が納得いくまで徹底的に作り続けるのです。

 自分が飛行機になるように考えて作ったものは、自分には飛行機に見えます。そう見えない人にとっては、ただの変な塊(かたまり)です。でも、もっとカッコよくなるように試行錯誤し、少しずつ改良していきます。あとあと考えれば、これが創造力の源になったのかもしれません。

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【付け焼き刃で臨んだ中学受験】

 小学2年生のとき、我が家は練馬区から立川市に引っ越しました。今でこそ、都内23区外ではもっとも栄えている街のひとつである華やかな立川ですが、25年前はそこまで賑やかな街ではなかったように記憶しています。どちらかというと静かで、特段の明るさもない、むしろ若干の田舎っぽさを残している街だったような印象があります。

 立川では、ぼくたちはマンションに住んでいました。家族連れが多いマンションで、年齢は多少違っても、同世代の子どもたちがたくさん住んでいました。歩いてすぐのところに神社があったのでその境内で遊んだり、もちろんテレビゲームや、カードゲームなどで遊んだりもしました。

 この頃のぼくはこのように他の子たちとも遊んでいたのですが、上の子たちが中学に入って忙しくなったり、引っ越していってしまったりで、自分たちのグループからだんだん人が少なくなってしまいました。ぼくはそんなに人付き合いが得意なほうではないので、そのグループに新しい人を呼び込んでくる、というようなこともできなかったのです。

 その他、習い事や学校などの場もありましたが、習っていたエレクトーンにはあまり興味が持てず、いつの間にかやめてしまいました。

 学校については、ぼくは昔から目が悪かったのですが、それに小さな頃は気づきませんでした。黒板がまったく見えないのですが、そもそも見えている状態を知らないので、そういうものだと思っていたのです。目が悪い、ということに気づいたのは、成績がもうとても悪くなったあとでした。

 そんな状況でしたが、友達が「オレ、中学受験するから」と言ったことに対して、深く考えずに「オレもオレも」と返したことで、なぜか中学受験を目指すことになりました。別に勉強には興味はなかったのですが。

 手始めに進学塾に通おうと試験を受けたのですが、何の準備もせずとりあえず受けたら、なぜかとても上のクラスに合格、というハガキが来ました。でも、指定された時間に行って名前を言ったら、君は合格していないよ、と言われました。「いや、こんなハガキ来たんですけど」と見せたら「たしかに本当だ」ということで、何が何だかわからないままに合格してしまいました。

 とはいえ、上のクラスに合格したのは何かの偶然なので、当然のように成績は思ったように伸びませんでした。受験の2週間前に親に尻を叩かれ、そこでようやく本腰を入れて勉強を始めたのです。

 完全な付け焼き刃で臨んだ受験の結果は、辞退者が出た場合の補欠合格の可能性を残しながらも不合格。もう第一志望の学校はあきらめ、合格していた別の学校に入学金まで払ったあとになって、想定より多くの辞退者が出たらしく、第一志望の学校から繰り上がり合格の通知が来ました。

 熱心に勉強していたわけでもなく、受かった学校も超進学校というわけではないのですが、偏差値としては真ん中より少し上、というぐらいの、私立の中高一貫校に入ることができました。

 これだけならよかった、となるのですが、これが必ずしもよい方向に転がらないのがぼくの人生の「らしい」ところです。

 もともと勉強ができず好きでもないのに、付け焼き刃の勉強で第一志望の学校に入ってしまった。入ったからといって急に勉強ができるようにも好きにもなりません。成績はずっと低空飛行を続けていました。

 さらに、登下校に時間がかかる私立中学に入ったことで、マンションの子たちと遊ぶこともできなくなりました。内気で人付き合いが苦手で積極的にコミュニケーションもとれないので、学校で友達ができるわけでもありません。

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【勉強ができず、友達もいない】

 ケンカをしたり万引きをしたりするようないわゆる「問題児」ではないのですが、「単に勉強ができず、友達もいない子」でした。友達はいないよりはいたほうがそりゃいいけど、別にいなくても困らなかった。でも唯一困ったのが、体育の時間に二人一組になれと言われたとき、あれは嫌でしたね。

 ともかく、当時の同級生に、ワイドショーのように「星野くんはどのような生徒でしたか?」と聞いたら、「まったく目立たない生徒だった、まさかあんな大それたことをするとは……」という、よく聞くあの答えが返ってくると思います。

 中高一貫校だったのでそのまま高校には上がったものの、状況は何も変わりません。相変わらず友達もできないし、勉強もできない。定期試験で赤点なので再試、またダメで再再試、それもダメで再々再試、やっぱりダメで再々々再試。これが再々々々……と数えきれなくなってきた頃、先生もあきらめたのか怒鳴られて、追試がそれっきり終わったこともありました。

受験になんとか成功した中学の入学直後の写真。この頃から目が死んでる。


 情報の授業ではHTML言語(Webサイトを作成するための言語)を習いましたが、これも赤点で補習対象になりました。補習に出てみたら赤点はぼく一人。先生にマンツーマンで教えてもらい、HTMLの基礎を学んで、少し面白いなと思いました。こんな言い方は申し訳ないですが、このとき先生が熱心にHTMLを教えてくれなければ、ぼくのその後は違ったものになっていて、当然、漫画村も作れなかったでしょう。

 部活も、当時興味があった野球部に入りはしたのですが、当時はまだ「練習中に水を飲んではいけない」みたいな精神論的練習が残っていたので、それがしんどくてすぐにやめました。その他、サッカー部だったか科学部だったか、部活をいくつか転々としましが、もうどの部活にいたかも覚えていないぐらい、居場所を見つけることができず、早々に帰宅部になりました。

 家の居心地が良かったのかというと、決してそうではないのです。当時父と母は仲が悪く、家の中では茶碗が飛ぶ皿が飛ぶ、という大ゲンカがたびたび起こっていました。

 どこにいても面白くないぼくは、超有名ファストフード店でバイトを始めました。そこにはいろいろな人がいました。グレたヤンキー、口うるさい中年女性、もちろん普通の学生も。店長とも妙にウマが合い、ぼくはここで初めて居心地の良い場所と、悪ふざけをして笑い合えるような気の合う仲間を見つけ、世界が自分が思っていたより少し広いことを知りました。

 ところが、せっかくの居場所もそう長くは続きませんでした。気の合う店長は異動でどこか違う店舗に行ってしまい、別の店長がやってきたのです。今から考えればぼくが少し大人気なかったと思うのですが、新しい店長に細々したことを注意され、堪え(こら)え性(しょう)のないぼくは徐々にバイトに行くのが億劫(おっくう)になり、ついにはやめてしまいました。


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【居場所がなく抑うつ状態に】

 ぼくは、勉強もできなければ友達もおらず、スキルも人生経験も、他に打ち込めるものもない、これといった能がない高校生に戻りました。あまりに閉塞感の強いこの状況に、まだ繊細だったぼくの精神が悲鳴を上げ始めました。

 いや、そんなカッコいいものでもなく、ただ迫り来る「自分の進路を決定しなければならない」というリミットから無性に逃げたかったのかもしれません。ぼくはだんだん慢性的な抑(よく)うつ状態に陥(おちい)り、学校にも行かず、だからといって進学や就職の準備もせず、ただ高校に在籍しているだけ、という状態になりました。

 精神的に不調になった原因は、まず毎日好きでもない勉強をずっとやらなきゃいけないこと。苦痛だからそれをサボり、負のループに入ってしまうんです。受験しても絶対受からないだろうな、みたいな負け戦に臨むストレスですね。

 それから、結構好きだったバイトを辞めてしまったこと。結果的に離婚する両親ですが、その頃は怒鳴り合いの喧嘩がひどくて本当に居場所がなくなっていました。

 決して自分でその状況を楽観視していたわけではありません。ただ人前に出たり、何か話したりすると汗が吹き出し、全身が固まる、というような状態でしたから、高校を卒業して何かになれるという見込みもなく、再三書いているように進学ができるような成績でもなく、八方ふさがりのような状況をどうにもできないまま、出席日数ギリギリながら、2010年の春、ぼくは高校を卒業してしまいました。

高校卒業時のぼく。中学入学の頃もぽっちゃりしてたけどストレスで食べ過ぎてしまってこの頃は顔がはちきれそうなほど太っている。


【引きこもりのニートに、なんと親が手切れ金】

 「15歳から34歳までの、家事・通学・就業をせず、求職活動もしていない独身者」というのが、厚生労働省のいう、いわゆる「ニート」の定義です。ぼくは高校を卒業したことにより、定義どおりのニートになりました。

 この時期のぼくは、これからどうやって暮らしていけばいいのだろうという不安に対して「行動を起こすこと」より、今日を何とか生き抜くために「行動を起こさないこと」のほうを優先していました。

 ぼくの両親、特に母親にはぼくが怠惰(たいだ)に見えたようです。実際怠惰だったのかもしれません。母はぼくにアパートの一室を借りてくれて、その家賃も含めて10万円の仕送りを半年間、という約束をしてくれました。

 しかしこれはつまり「この半年の間に自分の身の振り方を決めてどうにかせよ、それ以降の面倒は見ない」という、ある種の手切れ金でもあったのです。

 さあ困りました。半年、つまり6ヶ月の間になんとか自分の食い扶持(ぶち)を稼げるようにならなければ、ぼくは路頭に迷ってしまいます。

 抑うつ状態で外に出ることもままならない中、とにかく、手っ取り早く、金になることを探さなければなりません。そこでぼくの脳裏に浮かんだのは、高校の情報の授業で触れた、インターネット上にサイトを作って稼ぐことでした。

(『漫画村の真相:出過ぎた杭は打たれない』第1章 おわり)

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