【医療ミステリー】裏切りのメス―第42回―
【前回までのあらすじ】
捜査が縮小される……。元刑事の湯本利晴から警察の方針を聞いた下川亨は、憤懣やるかたない思いでそれを聞いていた。心の中では、殺人であることに疑いの余地はないと確信していたからだ。
さまざまなトリックを下川と湯本は考え、湯本が独自に調査に動くこととなった。
陰謀渦巻く病院ビジネスを舞台とした【医療ミステリー】連載。毎週火曜日更新!
-著者プロフィール-
●田中幾太郎/ジャーナリスト
1958年、東京都生まれ。『週刊現代』記者を経てフリー。医療、企業問題を中心に執筆。著書は最新刊として『歯医者のホントの話』(KKベストセラーズ)、その他にも『本当に良い病院 悪い病院』『三菱財閥最強の秘密』(以上、宝島社新書)、『日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊/本日より時間外・退職金なし』(光文社)など多数。
<看護師としての誇り>
元刑事の湯本利晴から、警察の消極的な姿勢を聞かされた翌日の日曜日(2017年2月5日)、私は本来の住まいである都心のマンションにいた。ここに来るのは、特別な用事がない限り、第1と第3の日曜日だけになった。パートナーの佐久間君代と夫婦としての時間をすごすためだった。
4年前の4月に私と結婚して、戸籍上の名前は下川君代となっているが、病院では佐久間君代で通していた。私がプライベートで彼女を呼ぶときも「きみ」か「佐久間くん」。出会ったときからそうなので、いまさら下の名前で呼ぶのも気恥ずかしかった。彼女が私を呼ぶのもずっと「下川さん」である。
正午近くに着くと、すでに佐久間は台所で料理をつくっていた。
「悪いね。ただでさえ忙しいのに、からだ、大丈夫?」
佐久間はうなづき、笑顔を返した。無理をしているのは間違いなかった。心身ともにズタズタなのだ。
「今度は私がつくるよ。ひとり暮らしが長かったから、けっこう料理には自信がある。ローストビーフなんか、最高だぜ。柔らかくジューシーに仕上げるのに、ちょっとしたコツがあるんだ。安い輸入牛だって、A5ランクの和牛に変身させてみせるよ」
「じゃあ、次はお願いね。楽しみにしている」と言いながら、佐久間は食卓に料理を並べだした。カニとアボカドのサラダ、海老フライ、牛肉の八幡巻き、米なすの田楽……。和洋折衷ながら、私が好きな食材がふんだんに使ってあって、食欲がそそられる。彼女の自慢の一品はサバの昆布締め。身と身の間に奈良漬けが挟み込んである。20年前に亡くなった祖母から教えられた料理だという。サバの強い脂が奈良漬けによってまろやかになり、私が持参したカリフォルニア・ナパヴァレーの白ワインとの相性も抜群だ。
食事の間は2人とも、事件の話題は避けていた。一言でも口にすれば、せっかくの佐久間の手料理も台無しだ。食欲など吹っ飛び、どんな料理も味がしなくなってしまうだろう。たわいない話を続けながら、目の前の一品、一品を堪能していた。
だが、いつまでも逃げているわけにはいかない。ワインのボトルが空いたところを見計らって、「昨日、湯本からいろいろ聞いたよ」と切り出し、その内容をこと細かに伝えた。佐久間は黙って、私の目を見つめたまま、じっと話を聞いていた。湯本が警察時代の部下だった佐山翔刑事から聞き出した情報を話し終えたところで、佐久間は口を開いた。
「つまり、2人は楽しむために医療用麻薬を使い、誤って命を落としたというわけ?」
「少なくとも、警察はそう見ているらしい」
「そんなこと、あるわけないじゃない。そもそも、白木みさおさんが男性と2人だけで酒を飲むなんて考えられない」
佐久間はかつてのパートナーの性格を熟知していた。底抜けに明るい白木だが、その行動は常に慎重さをともなっていた。レズビアンをカミングアウトする前、男性からしつこく迫られたことがあり、相手に誤解させる場面を極力、避けるようになった。
「蒔田直也君はそうした男とは違うよ。白木さんもそれはわかっていたんじゃないかな」
「だからといって、2人だけというのは信じられない。蒔田さんが豹変するような人でないことは私にもわかるけど、わざわざ、そうしたシチュエーションに白木さんが飛び込むはずはない。彼女はモデル体型で美人だし、といって、お高くとまっているところもなくて、あっけらかんとしているから、すごく男性にもモテる。いつもは冷静な蒔田さんが我を失わないとは限らないし、彼女のほうもそうした経験をしているから、2人だけで部屋にいるようなことは避けると思う」
「そもそも、蒔田君は白木さんがレズビアンであることに気づいていたと思うよ。確認したわけじゃないけど、彼は敏感だからね。そうした相手に、言い寄るような男じゃないよ」
「もし2人だけでいたとしても、医療用麻薬など使うかしら。白木さんは看護師という仕事に誇りを持っていた。彼女が遊びのために医療用麻薬に手を出すなんてありえない」
「蒔田君だってそうだよ。そこを踏み外すような男じゃない。元刑事の湯本もそれはよくわかっていた。ただ、彼らの体内から医療用麻薬が検出されたことだけは事実なんだ」
蒔田や白木が医療用麻薬に手を染めるような人間ではないと確信していても、いまは民間人にすぎない湯本の意見が警察で反映されるわけではない。部下だった佐山刑事にそれを伝えることはできても、そこで方針が覆るなど、ありえないのだ。佐山だって、警察組織のヒエラルキーの中にいる駒のひとつにすぎない。上が決めた方針に従うしかないのである。
「結局、警察はもうこれ以上、動かないということ?」
「完全に捜査が打ち切りというわけじゃなさそうだけど、あまり期待しないほうがよさそうだ」
「それじゃ、あまりにも白木さんや蒔田さんがかわいそうだわ。このままでは、突然命を失った上に、医療用麻薬を不正使用した犯罪者ということになってしまう」
佐久間は薄っすらと悔し涙を浮かべていた。
「私の気持ちも君と一緒だよ。彼らが生き返るわけじゃないが、名誉まで傷つけられたままでは、チーム小倉の仲間を見殺しにしたも同然だ」
<尾方が犯人なのか?>
昨日、警察の動きについて報告を受けたあと、私と湯本がどんな話をしたか、佐久間に聞かせた。蒔田と白木の死は殺人である可能性が高いというのが、私と湯本の共通認識だった。もっとも、私がそう強く主張して、湯本がそれに引きずられた面もなきにしもあらずだったが……。いずれにしても、湯本もチーム小倉の一員としての自覚を改めて、強く持ったようだ。
「警察に期待できないようだったら、自分が真相究明のために動くと、湯本は言ってくれた。まずは、尾方肇の犯行の線から洗ってくれている。あと数日のうちには報告が入ると思う」
「それは心強い味方だわ。でも、湯本さん、からだのほうは大丈夫かしら。彼が責任者を務める群馬県南部の医療モールのオープンまで、あと2ヵ月もないのよ。最近、顔色もあまり良くないし」
やはり、さすが現役の看護師だ。私も最近、湯本の顔がどす黒くなっているのが気になっていた。湯本と顔を合わす機会は、私よりずっと少ないにもかかわらず、佐久間は彼の変調に気づいていた。
「湯本に検査を受けるように言ってみるよ。医療モールのほうはとても順調で、何の問題もなくオープンできると思う。一番たいへんなところは越えたから、湯本のスケジュールも少しは楽になったんじゃないかな。力になってくれるはずだ」
「でも、本当に尾方が犯人かしら。安井芳次先生襲撃の主犯とはいえ、彼が自ら手を下したわけではないんでしょ。私は会ったことがないから、あまり勝手なことは言えないんだけど、その凶悪性がいまひとつ、伝わってこないのよね」
「私も君と同じで、尾方とは会ったことがないんだ。勝手に想像を膨らませて、思い込んでいるだけかもしれない」
「国立大医学部の学生だったんでしょ。医者っていうのはエリート意識ばかり高くて、自分勝手な人が多いけど、野蛮なことはできない。ましてや、人の命を救う立場にいながら、殺人なんかやろうと思うかしら」
「尾方は医者になるのを途中で挫折しているから、一緒くたに語るわけにはいかないよ。それに、医者だから殺人を犯さないというのもどうかな。愛人ができて妻を殺したなんていう事件もあったし」
「そう言われれば、そうね。つきあっていた看護師が妊娠したのに、別の女性と結婚した医者が、おなかの子どもを殺した事件もあった。子宮収縮剤をビタミン剤と称して飲ませて、流産させたんだ。たしかに、残酷な一面を持っている医者はいるわね」
「ともかく、いまのところ、疑わしいのは尾方しかいないのだから、その線を追うしかないんだ。とりあえず、湯本の報告を待とう」
その日はそれ以上、蒔田と白木の死について話すことはなかった。夜は2人で近所の定食屋に入った。私が昔から馴染みにしている店だ。焼き魚をつまみに燗酒を3合だけ飲んで、マンションに戻り早めに就寝した。
<進まない捜査>
それから4日後の2月9日(木)夜9時すぎ、湯本から連絡が来た。
「警察が動くのは無理だと佐山が言うので、結局、僕が聞き込みをしていたんですが、尾方の車があのへんで停まっていた事実はつかめませんでした」
「尾方の車は特定できたんですか」
「BMW3シリーズで人気の車種なので、都内だとたくさん走っているんですが、埼玉県北部となると、数もかなり少なくなる。色も青だというから、相当目立つはずです。でも、周辺の住民に聞いても、犯行があった1月21日夜から22日未明にかけて、見かけたという証言は得られませんでした」
「他の車に乗っていた可能性はないのですか」
「あのあたりの道で不審な車が長時間、停まっていたのを確認した人もいないのです。もし、尾方が犯人だとして、盗聴器を使ったとしても、車の中で部屋の中の様子を聞いていた可能性はかなり薄い。ただ、車から降りて、一般の通行人のように、あたりをぐるぐるとまわりながら、盗聴器の電波をキャッチしていた可能性はあります」
「同じ人がうろうろしていたら、怪しまれませんか」
「夜ですからね。あのあたりは街灯も少ないし、尾方が一ヵ所にとどまっていれば別ですが、普通に歩いていれば、さっき見たのと同じ人物だとは気づきづらい」
このままではらちが明きそうにない。私の頭にある考えがもたげていた。尾方に直接会って、問い質してみたらどうだろうか。警察でもない私がそこまでしていいのかどうかわからなかったが、逆に、してはいけない理由もない気がした。
(つづく)