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花に彩られた天守や石垣、歴史ロマンを感じる「城旅」へ

日本全国には、春に花見を楽しめる城跡が数多くあります。そんな憩いの場となっている10城をご紹介。桜の見頃を逃してしまった方も、往時をしのぶ遺構や、城をめぐる歴史ロマンを楽しんでいただきたい。

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小田原城

小田原城

【所在地】神奈川県小田原市城内3-22(小田原城総合管理事務所)
【築城年代】15世紀中頃→天正18年(1590)まで断続的に改修→寛永10年(1633)近代化
【築城主】大森氏→北条氏、稲葉正晴

崩れたままの石垣がマニアの間で密かに人気
小田原城は戦国時代の大名・北条氏の関東支配の中心拠点として約百年間難攻不落を誇った。江戸時代になると徳川幕府のもと、大久保氏、稲葉氏と城主を変え、寛永10年(1633)から始まった大改修にて近世城郭に生まれ変わった。しかし明治3年に廃城となり、大正12年の関東大震災で石垣も崩れ落ちた。現在は城址公園として整備され、発掘・調査が進んでいる。

復興された天守閣は昭和35年のもの。天守台石垣も崩れた岩を再利用し積み直されたが、裏手はそのままになっている。これが城好きの中でも、石垣マニアの間で密かな人気。また、現在の小田原市立図書館の前にも崩れたままの本丸石垣が残されている。元禄地震の際に一度崩れ、関東大震災で滑り落ちたという。うら寂しい風情を醸し出しており、これもまた人気である。

小田原城P17

関東大震災で崩れた石垣。積み上げられた状態のまま滑り落ちたため、石垣の角の算木積や排水溝の形がそのままの形で残されている。上を向いてしまった排水溝がその衝撃を物語っている。

小田原城は3層4階の天守櫓に付櫓と渡櫓を付した複合式天守閣であった。復元された天守閣は地上38・7m、鉄筋コンクリート造で、内部は5階建てになっており、最上階には天守に祀られていた摩利支天像が安置されている。平成の大改修で外観も内観も美しく生まれ変わった。高欄付き廻縁に出れば小田原市内を360度見渡すことができ、天気のよい日は遠く三浦半島まで望める。天守閣に合わせて建物の高さを制限した小田原市ならではの絶景を堪能したい。

南西の箱根側には、小田原合戦の際に豊臣秀吉が一夜城を築いた石垣山がある。その頃の小田原城は町を含む総延長約9㎞の総構であったから、その近さを肌で感じられただろう。近年、城好きの間で収集されている「御城印」は小田原城天守閣入場券販売所にて購入できるので、こちらも忘れずに入手したい。

小田原城天守閣は、すぐ近くにあるこども遊園地の丘から見上げるのもよい。丘の上は憩いの場として活用されているが、そこから天守閣を仰ぎ見ると小田原城を攻める敵の気分が味わえる。堂々とそびえる天守閣は圧巻の一言で、まさに難攻不落の佇まいだ。ここは桜のフォトスポットでもあり、桜の上に天守閣が浮かんでいるような美しい写真も撮れる。

小田原城はソメイヨシノを中心に約300本もの桜が咲き誇る。小田原城総合管理事務所の二見典克さんは、「馬出門そばの土橋から見える石垣の上に、水堀に向かって枝が垂れ下がっている桜があります。この桜が満開になると、とても綺麗なんですよ」と語る。もちろん本丸広場の桜も絶品と教えてくれた。桜祭り中はライトアップが予定されており、昼も夜も美しい情景を楽しむことができる。


津山城

津山城

【所在地】岡山県津山市山下135
【築城年代】元和2年(1616)完成
【築城主】森忠政

築城の名人が残した未完の城のこだわりとは?
城好きの間で「攻めにくい城」としてその堅牢な造りが話題にのぼる津山城。現在、城郭と城下町は岡山県北部の中心地、津山市の市街地を形成している。城郭の南側にせり出して建つ白壁の建造物は天守のように見えるが、平成17年(2005)に築城400年を記念して復元された城内最大規模の備中櫓で、城郭の建造物は現存していない。天守は高さ23m四層五階建てで、備中櫓の背後にそびえていた。

築城の始まりは、慶長8年(1603)。美作国18万6千5百石の津山藩主となった森忠政は、その地の権力者、山名氏の砦があった小高い鶴山一帯を統治の中心地に最適と考え、津山城の築城を開始した。標高145mの鶴山は吉井川と支流の宮川の合流地点に位置し、平坦に削った頂上に本丸、雛段状に二の丸、三の丸と曲輪が配置され、周囲に城下町が造成された典型的な平山城だ。「津山」の地名も忠政がこの「鶴山」から考案した。

津山城_下

高く複雑に折り重なる石垣はまるで要塞のようだ。搦手(裏口)も急な傾斜で不規則な階段を造るなど、攻めにくい構造。

「攻めにくい城」の特徴としてまず挙げられるのが、雛段状の城郭に巡らされた迷路のような石垣だ。城下から本丸まで、高く築かれた石垣の間を何度も折り返さなければ登城できない。敵兵もどこを攻めているのか錯覚してしまいそうなほど行きつ戻りつを繰り返す。階段は段差が大きく、変化をつけているため登りにくい。そして、城郭において最強の仕掛けといわれる「枡形虎口」も次々と現れる。枡形の空間に敵兵がなだれ込めば行き場を失い、四方から弓や銃で一網打尽にできるという恐ろしい仕掛けだ。敵兵になったつもりで本丸まで登ってみよう。櫓の数も、御殿の役割を備える備中櫓を筆頭に81棟だったという説もあり、広島城や姫路城をしのぐ多さ。城郭の東側は、急勾配の崖と直下に流れる宮川をそのまま防御線とするなど、巧みな守備がうかがえる。

築城の技術に長けていた忠政は、津山城の建造中も大阪城や名古屋城、江戸城など各地の城普請を命じられ、その経験が、津山城築城に生かされたといわれている。築城開始から13年、鉄壁の守りを目指して変更を重ね築城は続いていたが、武家諸法度の制定で、津山城も未完成の石垣などを残しながら工事を終えた。

森家断絶後は、松平家が約170年間城主を務めて明治維新を迎え、明治6年(1873)発令の廃城令により津山城も取り壊しとなった。城跡はしばらく放置されていたが、明治33年(1900)から鶴山公園として整備され、昭和の初めには現在の姿に整った。今では、県内外から多くの花見客を集めている。


和歌山城

和歌山城

【所在地】和歌山県和歌山市一番丁3
【築城年代】天正13年(1585)、慶長5年(1600)ごろ大改修、嘉永3年(1850)天守再建、昭和33年(1958)同再々建
【築城主】豊臣秀長、浅野幸長、徳川頼宣

時代を感じる3つの時代の石垣
和歌山市中心部にある和歌山城は、江戸時代に八代将軍吉宗を輩出したことで知られている。昭和20年の和歌山大空襲で焼失したため、現在の天守閣は昭和33年に復元されたもの。

築城は天正13年(1585)。紀州を平定した羽柴(豊臣)秀吉が弟の秀長に命じ、紀ノ川河口の虎伏山に築かせた。関ケ原の戦いの後、浅野幸長が藩主となり城を増改築。屋敷の造営や城下町の整備も行ったことで規模も拡大した。元和5年(1619)に紀州徳川家初代の徳川頼宣が城主になると、更なる増改築を行い、ほぼ現在と同じ形となったという。

和歌山城整備企画課の学芸員・伊津見孝明さんによると、見どころは「石垣。特産の結晶片岩が使われているほか、時代による積み方の違いや増改築箇所が分かる」。和歌山城には3種類の積み方の石垣と時代ごとの増築箇所がはっきり残っている。最も古い石垣は築城当時に城近くの岡山で採れた結晶片岩を使った野面積の石垣で、天守閣付近に見られる。もうひとつが浅野・徳川期に無人島・友ヶ島等で採れた砂岩でつくられた打込接の石垣。そして熊野地域の火山に由来する花崗斑岩で積まれた切込接の石垣だ。時代が進むごとに敷地を大きくしていったため、城の外側になればなるほど技術が進んだ積み方が見られる。

和歌山城_下

石材が精密に積まれた切込接は、増改築された松の丸台石垣などに使用されている。その高さは圧巻だ。

増改築されたと資料が残る箇所は護国神社の奥手にある高櫓台石垣と、岡口門を入ってすぐの場所にある松の丸櫓台石垣。少し距離を置いて眺めてみると、増築された石垣は明らかに高く、積み方も周囲と異なるためひと目で分かる。その違いは石垣をつくる加工技術の発展の歴史であるため、間近で感じてみてほしい。

和歌山城公園の広さは約20万4500平方メートルで、勾配のある廊下橋「御橋廊下」や、名勝・西之丸庭園、大正時代に開園した「和歌山城公園動物園」なども見どころだ。敷地内には約600本のソメイヨシノが植えられ、桜の時期には同市内だけでなく近隣県や海外からも観光客が押し寄せる。大勢が足を止めて写真を撮るのは、一の橋を渡ってすぐのシダレザクラだ。そのほか桜ビュースポットは敷地内のわかやま歴史館等でもらえる「史跡和歌山城 道案内マップ」に掲載されているので、写真撮影を楽しみたい方はぜひマップを手に入れてほしい。

桜の時期には例年「和歌山城公園桜まつり」が開催。日没後からライトアップが行われるほか、屋台が出て園内が賑やかになる。また、内堀を木舟で巡る遊覧船の運航があり、堀から桜と石垣、天守閣を見上げる非日常体験もできる。


松江城

松江城

【所在地】島根県松江市殿町1-5
【築城年代】慶長16年(1611)完成
【築城主】堀尾吉晴

戦闘重視で実戦的、質実剛健な国宝の城
整然と積み上げられた石垣、黒の下見板張り、入母屋破風に天守。その威風堂々たる姿は、まるで城主が袴姿で背筋を伸ばし、町を見渡しているかのように見える。国宝・松江城は、全国に現存する12天守のひとつで、その規模は2番目。慶長16年(1611)、5年の歳月をかけて地下1階地上5階の城を完成させて以来、松江のシンボルであり続けている。

築城した堀尾吉晴は穏やかな性格で、〝仏〟のあだ名を持ちながら戦においては鬼と恐れられた武将だ。豊臣秀吉、徳川家康、ふたりの天下人に仕え、秀吉と明智光秀が激突した天王山の戦いなどで活躍。温厚ながら武勇に優れ、城の明け渡し交渉をする交渉人を務めるなど調整能力に長けた逸材だった。

その堀尾吉晴は、慶長5年(1600)、関ケ原の戦いの戦功にて出雲・隠岐両国24万石を拝領した息子の忠氏と月山富田城に入城。中世の山城であった富田城では近世の城下町を築くには不利と判断し、忠氏とともに城地を松江に選定した。

しかし忠氏は、あるとき神魂神社の禁足地に足を踏み入れ、城に戻ると床に伏し早世してしまう。その後、吉晴は忠氏が願った現在の場所に松江城を築城し、堀をめぐらすなど城下町を設備した。

松江城は、全国12天守のなかで最も実戦的といわれる望楼型の城だ。入口の大手門では、敵を高石垣の死角から鉄砲で狙う枡形小口→虎口の形状。櫓の出っ張りに設けられた石落からは、石や煮えたぎった油、糞尿を落とし、攻め入る敵を阻止する。そこを突破した敵には、天守外観の下見板張りの黒色の特徴を生かし、遠くから見た際には小さく思わせておき、近寄ると実際の大きさで圧倒する。そして、天守入り口の付櫓には鉄砲の銃口を差し込む四角形の狭間があり、ひるんだ隙に攻撃をする。天守には、こうした狭間が実に95カ所も設置されている。

松江城_2

出雲国はたたら製鉄が盛んであったことから、包み板矧合(つぎあわ)せ鉄輪締工法を採用している。荷重を分散させる互入式通し柱は横揺れに強く、耐震性にも優れている。

戦国の世にあって幾多の戦を経験してきた吉晴は、敵に囲まれた際に長く籠城できることも重視した。地下一階の「穴蔵の間」に深さ26mの井戸を設けたのも、そのため。この穴蔵の間には平成27年に国宝指定される決め手のひとつ、「祈祷札」がかかっていた。完成年の「慶長十六年」という文字が書かれた札と、それを掛けた柱の釘穴が一致したのだ。加えて「互入式通し柱」など、城の荷重を分散させる緻密な構造の発見が国宝決定へと導いた。

別名「千鳥城」と呼ばれるのは、外壁上部の三角形の破風が、鳥が羽を広げたように見えるからとか。三月末には城内の桜が蕾をほころばせ、千鳥とともに春を運んでくる。


岡城

岡城

【所在地】大分県竹田市大字竹田字岡
【築城年代】文治元年(1185)初期築城、慶長元年(1597)本丸完成
【築城主】緒方惟栄、志賀親次、中川秀成

唱歌『荒城の月』の世界観が随所に感じられる
大野川の支流、稲葉川と白滝川が合流する地点にある、海抜325mの舌状台地上に築かれた岡城。川岸からそそり立つその勇姿は、見る者を圧倒する。この城は文治元年(1185)、大野郡緒方荘の武将・緒方三郎惟栄が、源頼朝と不仲になった弟の義経を迎えるために築城したと伝えられている。

その後、豊後国守護の大友氏の分家である志賀氏が城主となった。戦国時代の末、天正14年(1586)から翌年にかけて行なわれた豊後の大友氏と薩摩の島津氏の戦いである豊薩戦争の際、18歳の青年武将・志賀親次(親善)は、わずか1千の兵で城を守り、3万の島津軍を撃退。親次は豊臣秀吉から感状を与えられた。以来「難攻不落」と称えられるようになった。

文禄3年(1594)、親次に代わり播磨国三木城から中川秀成が新しい城主として入部。3年がかりで城の大規模な修築を行ない、近世城郭としての形を整えた。以来14代、277年にわたり中川氏が城主を務めた。

城の建物は明治7年(1874)に大分県による入札・払い下げが行なわれ、すべてが取り壊された。残された石垣だけが、当時の姿をしのばせる。少年時代を竹田で過ごした滝廉太郎は、荒れ果てた岡城に登って遊んでいた記憶が強く、その印象を曲にしたのが有名な『荒城の月』である。

大手門へと向かう坂道から見上げる石垣や西の丸御殿北側の石垣、西中仕切から見た三の丸高石垣の見事な曲線など、他の城跡を圧倒する石垣群が、多くの城好きを虜にしている。

「大手門入口にある大きな桜は見事です」と、竹田市観光協会の藤野めぐみさん。今年は4月5日に「岡城桜まつり」が開催される。桜花の下を史実に基づいた大名行列、甲冑武者行列が練り歩く時代絵巻も素晴らしい。


松山城

松山城_2

【所在地】愛媛県松山市丸之内5番地
【築城年代】慶長7年(1602)から築城
【築城主】加藤嘉明

猛将が築いた現存12天守のひとつ
松山市の中心部にある、標高132mの勝山の頂に聳える松山城。城下を一望する要害に築城したのは、賤ヶ岳の七本槍として名を馳せた猛将・加藤嘉明である。伊予国正木城主で10万石を領していた嘉明は、慶長5年(1600)に起こった関ケ原の戦いで、徳川家康率いる東軍として参戦。戦功を上げて20万石に加増された。その石高に見合う城として、嘉明は慶長7年(1602)、築城に着手。だが寛永4年(1627)、城が完成する直前に会津藩に転封となり、代わって蒲生忠知が24万石の松山藩主となった。

完成した城は門や櫓、塀を多数備え、狭間や石落、高石垣などを巧みに配した、攻守の機能に優れた連立式天守を構えた平山城であった。ところが忠知は7年後の寛永11年(1634)8月、参勤交代の途中で死去し蒲生家は断絶。そこで翌寛永12年、徳川一門の松平定行が15万石の藩主として入城。

寛永19年(1642)、定行は建築当初は五重であった天守を三重に改築する。その理由は、幕府に遠慮して低くした、というのだ。天明4年(1784)、落雷により天守を含む本壇のおもな建物が焼失した。安政元年(1854)に12代藩主の松平勝善が天守以下、本壇の建物を再建している。それが今の天守で、現存12天守のひとつである。現存天守はもちろん、二之丸史跡庭園の大井戸の遺構も見逃せない。

そんな松山城内の桜は、「ほとんどがソメイヨシノですが、早咲きのツバキカン桜や遅咲きのオオシマ桜、ボタン桜など約200本があります。3月から4月にかけて、さまざまな桜が楽しめます」と、松山市観光・国際交流課の武井昭憲さん。頂上の本丸広場に立つと、桜と天守の見事な競演を愛でることができるのだ。眼下に広がる松山市内の風景も素晴らしい。


丸岡城

丸岡城

【所在地】福井県坂井市丸岡町霞町1-59
【築城年代】天正4年(1576)、昭和30年(1955)古材を利用して復元
【築城主】柴田勝豊

戦国時代の気風を今に伝える古式の城
現存天守閣では最古の建築様式を持つという丸岡城。戦国時代の勇壮な姿を今に伝える平山城で、一向一揆への備えとして天正4年(1576)、織田信長の命により柴田勝家が甥の勝豊に築かせた。城が完成した後も、一向宗の残党が城を襲うことがあった。そのたびに天守横の井戸から大蛇が現れ、城に霞をかけて城の危機を救ったと伝えられている。このことから、丸岡城は別名「霞ヶ城」と言われている。

勝豊は間もなく近江長浜に移り、その後は安井家清、青山宗勝、青山忠元を経て慶長18年(1613)に、本多成重が入城。しかし本多氏は4代で改易。元禄8年(1695)、越後糸魚川から有馬清純が5万石で入城し、幕末に至るまで8代続いている。

天守の外観は二層、内部は三層の望楼型天守で、石垣は野面積を採用。一階の壁際には石落や、鉄砲や弓のための狭間が見られる。

狭間に関しては他の階にもさまざまな形をしたものが残されていて、豪華さや優美さより、いたる所にある敵に対する備えが目を引く。階と階を結ぶ階段も、綱がなければ安心できないほど急なのだ。これも、敵が容易に侵入できなくするための工夫。こうした当時をしのぶ見どころが多い。

また築城400年を記念して造られた日本庭園式公園があり、歴史民俗資料館には歴代城主ゆかりの品が展示されている。園内には約400本のソメイヨシノが植えられ、「霞ヶ城」の別名の通り満開の桜の中に浮かぶ姿は、霞がかかったようでひときわ美しい。

丸岡観光協会では「少し離れた場所から見ると、桜の花の上に天守が浮き上がっているように見えます。園内の『一筆啓上 日本一短い手紙の館』の開館時間ならば、そのテラスから見るのもいいですね」とお薦めしている。



高田城

高田城

【所在地】新潟県上越市本城町6-1
【築城年代】慶長19年(1614)築城、平成5年(1993)高田城三重櫓再建
【築城主】松平忠輝

平城では珍しい土塁造り
高田城は慶長19年(1614)、徳川家康の六男である松平忠輝の居城とするために、天下普請によって築かれた城である。城の縄張は忠輝の舅である伊達政宗が担当している。すでに江戸時代に入っているにもかかわらず、石垣ではなくすべての曲輪で土塁が採用されている。その理由はいろいろ言われているが、当時は大坂の豊臣家との間が一触即発の状態になっていたため、完成を急いだというのが有力な説となっている。実際、その年のうちに大坂冬の陣が起こっている。

高田平野の菩提ヶ原に築かれた平城で、約230m四方の本丸を取り囲むように二の丸、三の丸、北の丸が配されている。近くを流れている関川や青田川などを外堀に利用。天守はなく、三重櫓をその代用としていた。寛文5年(1665)、高田地震により建物が倒壊するが、三重櫓はすぐに再建された。明治3年(1870)に本丸御殿、三重櫓などが焼失する。

その後、城は陸軍第13師団の駐屯地となり、入城時に3000本を超すソメイヨシノが植栽された。そして平成5年(1993)には、上越市発足20周年を記念して三重櫓が再建。平成14年(2002)には二の丸から本丸へと渡っていた極楽橋も、発掘調査の資料をもとにして再建された。しかも工事中には、旧極楽橋の木杭などの遺構が発掘されている。城好きには垂涎もののニュースと言えよう。

上越観光コンベンション協会によれば「現在はソメイヨシノが4000本ほど植えられています。櫓と堀がライトアップされると、桜も見事に浮かび上がり見事のひと言です。昼は残雪の妙高山を背景に、美しい土塁の堀と桜が楽しめます」とのこと。「日本三大夜桜」に数えられるだけあって、夜の光景は見逃せないようだ。


弘前城

弘前城

【所在地】青森県弘前市下白銀町1
【築城年代】慶長16年(1611)完成、文化8年(1811)天守再建
【築城主】津軽信枚、津軽寧親

さまざまな桜が城内を彩る
弘前城の桜と言えば、多くの雑誌やポスターで取り上げられるほど美しく、また毎年200万人を超える人が開花を迎える頃に訪れることでも知られている。厳しい冬の間、雪に閉ざされていた北国津軽では、5月の連休頃に一気に春を迎え、桜だけでなく梅やコブシなども一斉に花開くのだ。それも人気の要因なのである。

弘前城は天正18年(1590)に津軽地方統一を成し遂げた津軽為信が、慶長8年(1603)に徳川幕府が成立すると、その許しを得て高岡(現在の弘前)に新たな町割を開始しつつ、建設計画を進めた。しかし為信が築城途中で亡くなったため、慶長14年(1609)に二代目の信枚が再開。堀越城、大浦城の遺材を転用し急ピッチでの築城を行い、わずか1年と数カ月で完成させてしまった。

当初は五層の大天守であったが、寛永4年(1627)に落雷により焼失し、以来約200年も天守がないままの状態が続いた。九代藩主・寧親が文化7年(1810)、天守櫓移築という名目で幕府の許可を取り、隅櫓を改造する形で新築されたのが、御三階櫓と称される現存の天守だ。

「天守と下乗橋、それに内濠が桜の花に彩られた姿は、大変素晴らしい光景です。ただ現在は石垣の修復のため、天守が本丸内にある仮天守台に移動しています。しばらくは岩木山と桜を背景にした、今しか見られない天守の姿をお楽しみ下さい」(弘前観光コンベンション協会・三上芙喜子さん)

弘前城には約50種類、2000本を超える桜が植えられている。本丸広場にはシダレザクラ、濠際にはソメイヨシノが咲き誇る。樹齢100年を超えるソメイヨシノも300本以上ある。西濠にある「桜のトンネル」と呼ばれる通路からの眺めも格別だ。


五稜郭

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【所在地】北海道函館市五稜郭町44
【築城年代】文久3年(1864)完成
【築城主】江戸幕府、武田斐三郎(設計)

独特な形の城を俯瞰で眺められ
五稜郭は江戸末期に幕府によって築かれた、国内初の西洋式城郭である。設計は蘭学者の武田斐三郎が担当。安政4年(1857)に工事が始まり、元治元年(1864)に一応の完成を見た。その4年後に起きた箱館戦争では榎本武揚率いる旧幕府軍に占領され、樹立した箱館政権の本拠となった。しかし翌年には新政府軍の反撃が開始され、市街地でも激戦が繰り広げられた。ただし五稜郭自体は戦いの舞台とはならず、旧幕府軍降伏後に接収された。

その後、陸軍省の練兵場として使われたが、大正3年(1914)に五稜郭公園として一般に開放された。その頃、函館毎日新聞が発行1万号を記念して数千本のソメイヨシノを城内に植樹。この桜が現在も約1600本残っていて、北海道有数の花見スポットとして知られるようになったのだ。そして昭和27年(1952)に、北海道唯一の国指定特別史跡に指定された。

函館市観光部によれば「毎年ゴールデンウィーク前後が見頃です。独特な星形の城跡が桜色に染まる姿を見るなら、隣接する五稜郭タワーの上から眺めるのが一番」とのこと。現在のタワーは2006年4月1日に開業した2代目。近くに函館空港があるため建物の高さは98m、避雷針まで入れて107m、展望室は地上90mに抑えられている。それでも初代は展望室の高さが45mだったので、より俯瞰で五稜郭の独特な形を堪能できるのだ。

加えて城内の土塁上の散策路も、桜の季節は花のトンネルになる。桜の花越しに五稜郭タワーを見上げてみるのも一興だ。また公園の中心部には、かつての箱館奉行所が忠実に再現されていて、その周囲にも桜の木が多く植えられている。期間限定で行なわれる、提灯でほのかに桜をライトアップする「花見電飾」も、ぜひ味わいたい。


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