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【医療ミステリー】裏切りのメス―第31回―


【前回までのあらすじ】
 埼玉県警の湯本利晴刑事から尾方逮捕の一報を知らされたチーム小倉のリーダー・下川享は、湯本から逮捕までのいきさつを聞くことになった。
湯本はジャイーが新宿の上海パブを辞めた後、中学3年のときの担任・峯田友子という女性教師の養女になったことを突き止めた。そこで、湯本は養母である峯田に会いに行くことにしたのだった。
 陰謀渦巻く病院ビジネスを舞台とした【医療ミステリー】連載。毎週火曜日更新!
-著者プロフィール-
●田中幾太郎/ジャーナリスト
1958年、東京都生まれ。『週刊現代』記者を経てフリー。医療、企業問題を中心に執筆。著書は最新刊として『歯医者のホントの話』(KKベストセラーズ)、その他にも『本当に良い病院 悪い病院』『三菱財閥最強の秘密』(以上、宝島社新書)、『日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊/本日より時間外・退職金なし』(光文社)など多数。

<ジャイーの母の心配>

 それまで、埼玉県警の湯本利晴刑事の思考から、中国人少女・林佳怡(リン・ジャイー)の存在が抜け落ちていたのは当然だったかもしれない。何しろ、一度も彼女と会ったことがないのだ。イメージを構築するための残像が記憶を司る脳の部位に一切なかったのである。写真すら見たことがなかった。湯本の頭にあるのは言葉による情報だけだった。

 だが、峯田友子がオートロックの扉を開け、眼前に姿を現すと、ジャイー本人でないにもかかわらず、湯本の脳細胞は一気に活性化した。

「その姿は想像とはまったく違っていたんです」

 事前に仕入れた情報では66歳のはずだが、湯本はとても信じられなかった。ジルスチュアートの花柄のワンピースを着こなした峯田は40代にしか見えなかったのである。

 それにしても、湯本はなぜ、若い女性をターゲットにしたブランドなど知っているのだろうか。同い年の私はまったく耳にしたことのない名前だった。

「長女にせがまれて一緒に買いにいったことがあるんです」と湯本は照れくさそうに明かした。女子大生の長女は昨年、成人式を迎えたという。すでに私もそういう年なのかと愕然とした。湯本は話を続けた。

「僕が長女に買わされたのとよく似た柄のワンピースだったので、目の前の女性がもしや、いまは31歳になるジャイーかと勘違いしたほどでした」

 湯本の訝しげな表情に気づいた峯田は「娘の服なんです」と恥ずかしそうに言い訳をした。ジャイーのことを「娘」と呼ぶのに、湯本は少々、違和感を覚えながらも、2人はすでに15年間も一緒に暮らしているのだと思い出した。法的に親子になってからも10年以上もたつのだ。しかも、ジャイーのいまの名前は峯田佳子になっている。

 湯本の前で少しおどけた素振りを見せた峯田だったが、すぐに深刻そうな顔になった。

「先ほど、インターホンで娘がたいへんなことに巻き込まれているかもしれないとおっしゃっていましたが、どういう意味でしょうか」

「いま、佳子(ジャイー)さんと一緒にいるかもしれない男は殺人の教唆を行った犯人ではないかと、我々は見ているのです。殺人自体は幸いなことに未遂に終わっていますが、凶悪な犯罪であることには変わりない。男の逃亡を手助けしたり、かくまったりしたら、佳子さんも罪に問われかねません」

「その男性の名前は何と言いますか」

「尾方肇です。この名前を耳にしたことは?」

 峯田友子は安堵の表情を見せたが、それは一瞬にすぎなかった。数秒もしないういちに、目に不安な色が浮かんだ。

「私が知っている名前とはちょっと違う。どんな感じの男性ですか」

「見た目は紳士ですよ。かつては国立大の医学部に通っていたエリートです。あるときから転落してしまったんですがね。年齢はちょうど40歳です」

 湯本は携帯に保存しておいた尾方の写真を見せた。あまり鮮明ではなかったが、峯田の顔はみるみる青ざめていった。

「何度か娘が連れてきたことがあります。私にはヤマガタハジメと名乗っていました。最後に会ったのは3ヵ月前。伊勢丹新宿店で京懐石をごちそうになりました」

 声は震えながらも、淀みない口調には、この場をとりつくろって、やりすごそうという意思はどこにも感じられなかった。

「佳子さん自身は尾方が犯罪を犯して逃げているとは知らない可能性が高い。いまのうちに尾方を確保できれば、佳子さんが罪に問われるようなことはありません。もしどこにいるかご存じならば、教えてください」

「はっきりしたことは知らないのです。ただ、娘があまりに入れ込んでいる感じなので、ちょっと心配にはなっていたのですが……」

<尾方とジャイー>

 ここで初めて、峯田は言葉に詰まった。湯本は言葉を選びながら、尾方が医学部生時代にホストのアルバイトをやっていたこと、16歳のジャイーが貢いでいたことなどを話した。

「未成年だった娘が新宿の店で働き、警察に保護されたとき、ほとんど貯金はなかったのですが、そういう背景があったんですね。その尾方という男性と娘が再会したのは、たぶん1年ちょっと前だったと思います」

 多摩地域の警察署の友部隆一刑事が2人を見かけた時期とほぼ符合する。十数年ぶりに出会い、再び深みにはまってしまったのだろう。となると、ジャイーが尾方の犯罪について、まったく知らないということはないかもしれないと、湯本は感じ始めていた。

 養母の前で尾方がヤマガタと名乗った時点で、ジャイーが不審に思っても不思議ではなかった。偽名を使ったのはまだ安井芳次襲撃の前だったが、尾方が後ろめたい気持ちを持っているのは明らかだった。広域暴力団「鈴代組」の企業舎弟であることや、病院乗っ取り屋としての素顔を知られたくなかったのだろう。どこまでジャイーが気づいているかはともかく、少なくとも尾方に犯罪者のにおいは感じていたはずだ。もちろん、湯本は峯田の前でそんなことはおくびにも出さなかった。

「いまでも毎日、佳子さんはお母さんのいるこのマンションに帰ってきているんですか」

「外泊をするようなことはありません。日付が変わってしまう時間帯になることはありますが、必ず帰ってきますし、毎日、外出しているわけではありません。週に2、3度です。家で仕事をしているので」

「何をやられているのですか」

「ウェブデザイナーです。クライアントから信頼されているようで、けっこう注文が来るんです」

「それはよかったです。せっかく仕事が順調なのに、尾方のような男といつまでもつきあうべきではない。いつ、事件に巻き込まれないとも限らないのです。そうした事態にならないためにも、尾方を早く逮捕しなくてはなりません。佳子さんを尾行してもいいのですが、できれば避けたい。もし、あとで自分がつけられたことを知って、そのせいで尾方が捕まったとなると、後悔の念が出てくるでしょうから。彼女が自身を責めるような事態は招きたくないのです」

 半分は本当で、半分はウソだった。湯本はジャイーを尾行したあとの行動を考えたのだ。尾行自体は1組1~2人の3チームで行うとして、尾方の潜伏先がわかったときにどうするか。できれば、そのまま踏み込みたいが、尾方がその場で逃走を図ったときにやっかいだ。やはり、さらなる応援が必要である。その場合は人数を確保するために日を改めなければならない。時間に余裕ができてしまうと、尾方が警察の動きに気づいて、再び行方をくらますかもしれない。

 埼玉県が東京都に隣接しているといっても、湯本の所属する警察署は群馬県との県境に近い場所にある。できるだけ人数を抑え、日数もかけたくない。だが、尾行が1回で成功するとは限らないのだ。というより、ジャイーが外出するとき、いつも尾方のいる場所に向かうわけではないだろうから、複数回かかると見ておかなければならない。何より、警視庁の縄張りで、あまり派手に立ち回りたくないのだ。やるなら一気に決めてしまいたい。

 いろいろ想定すれば、最初から目星がついていたほうがいいに決まっている。ある程度、範囲が狭められれば、湯本ひとりだけでも、尾方の居場所をつきとめることができる。ひとりなら、尾方に気づかれることもないだろう。そのあとで、応援を頼めばいいのだ。

<一枚の名刺>

 湯本は「ヒントになるようなことはありませんかね。何でもかまわないのですが」とたずねた。峯田はいくつもの記憶の糸をたどっているようだった。

「一度、娘がかなり酔っ払って帰ってきたことがあったんです。かなり気持ちが高揚していて、『お母さん、私、結婚してもいいかな』と言い出した。『もちろん、佳子の自由よ』と答えたんですが、たぶんその晩、ヤマガタさんというか、尾方さんと飲んでいたんじゃないかしら」

「その店の名前、わかります?」

「どこかに名刺があったはずだわ。娘のジーパンを洗濯するとき、ポケットに入っていたんです」

 自分の部屋に名刺を探しにいった峯田が5分後に「ありました!」と1階エントランスフロアに戻ってきた。その名刺にはスナックの名前と中野の雑居ビルの住所が記されていた。

「あとで佳子さんに話を聞くことになるかもしれませんが、尾方を逮捕する際には彼女がいないときを見計らって行いますので、心配しないでください」

 湯本はその足で、中野に向かった。この新宿御苑近くのマンションを訪ねたのは午後5時近くだったが、それから2時間もたち、外は宵闇が迫っていた。

 スナックは店を開けたばかりで、70歳近いと思われるママがひとりいるだけだった。携帯の尾方の写真を見せると、「あっ、ヤマガタさんね。うちの店によく来てくれますよ」と言った。湯本は警察であることを名乗り、尾方の住まいを知っているかたずねた。

「口が軽いママさんで、この近くの賃貸マンションに住んでいると教えてくれたんです」

 安井中央病院の理事長室で私たちチーム小倉のメンバー4人に向かって、ここまで話すと、湯本はふぅと長い息をついた。
(つづく)





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