【医療ミステリー】裏切りのメス―第49回―
【前回までのあらすじ】
尾方肇への疑惑は晴れぬまま、日々の仕事に忙殺されるチーム小倉の面々。アクシデントもありながら、4月1日、無事に医療モールがスタートを切った。だが、その半月後、チーム小倉のリーダー下川亨と佐久間君代夫婦に危機が迫っていた。
陰謀渦巻く病院ビジネスを舞台とした【医療ミステリー】連載。毎週火曜日更新!
-著者プロフィール-
●田中幾太郎/ジャーナリスト
1958年、東京都生まれ。『週刊現代』記者を経てフリー。医療、企業問題を中心に執筆。著書は最新刊として『歯医者のホントの話』(KKベストセラーズ)、その他にも『本当に良い病院 悪い病院』『三菱財閥最強の秘密』(以上、宝島社新書)、『日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊/本日より時間外・退職金なし』(光文社)など多数。
<代表に及んだ魔の手>
「気がつきましたか」
ぼんやりしていた輪郭が少しずつはっきりしてくる。湯本利晴が私の顔を心配そうにのぞき込んでいた。
「とにかくよかった」
私は何が起こっているのか、すぐにはわからなかった。ベッドに寝かされていた。周囲を見回すと、白っぽい色がやたらと目立った。どうも病室のようだった。少し頭痛がする。「ここは病院ですか」と私はたずねた。
湯本が名前を挙げたのは、私の都心のマンションから歩いて5分ほどのところにある大学病院だった。
「つい先ほどまで、酸素吸入器がつけられていたのですが、もう大丈夫です。別の病室にいる佐久間君代さんも先ほど、意識を取り戻しました。まったく問題ありません」
言っている意味がさっぱりわからなかった。
「なぜ、私は病院にいるのですか。佐久間まで……。何があったんですか。ところで、今日は何日ですか」
頭はもやっとしたままだったが、私は正常な意識を取り戻そうとあがくように、質問を立て続けに湯本に浴びせた。
「いまは4月17日、月曜日の朝7時です。下川さんたちは一酸化炭素中毒を起こし、ここに運び込まれたのです」
<昨日の出来事>
昨日(2017年4月16日)のことを少しずつ、思い出していた。この日は佐久間と夫婦2人ですごす約束になっている第3日曜日である。正午近くに、銀座の百貨店にあるスペインレストランで落ち合った。パエリアが評判の店だ。鶏肉やササゲ豆が入ったバレンシア地方のパエリアを頼んだ。素朴だが、ローズマリーの風味がよく効いていて、スパークリングワインとの相性も抜群だ。
料理を満喫すると、佐久間が「せっかくだから少しだけ歩かない?」と提案した。空は雲が多かったが、気温は26℃と暖かく、絶好の散歩日和である。だが、少しだけ歩くどころではなかった。2時に店をあとにすると、それから約4時間も歩き続けることになったのだ。
特に目的はなかった。私のマンションのある南西に向かって歩きだしたが、そこまで行こうとは思っていなかった。およそ20㎞はあるだろう。ただ、ひたすら歩いて、飽きてきたら途中でタクシーを拾うつもりだった。
2人は歩きながら、会話に没頭していた。月に2回しかない夫婦の日だから、仕事の話題は厳禁にした。今日だけは、蒔田直也と白木みさおが亡くなった話もNGである。私は、月曜日から土曜日まで忙しく働く佐久間をねぎらいたい気持ちでいっぱいだった。夢中になって語り合ったのは、それぞれがティーンエイジャーだったころのことだ。
私が中学校に入学したのは1980年。佐久間はまだ、この世に生を受けていない。生まれるのはその翌年のことだ。この世代間ギャップは想像以上に大きい。私が大学2年のときにやっと、彼女は小学校に上がっているのだ。
「校内暴力って聞いたことある?」
「言葉は知っているけど、イメージはまったく湧かない」
「中学に入ったころは、そのピークでね。東北の片田舎の県立中学だったので、そんなことはほとんど起こらなかったんだけど、先生たちはピリピリしていた。全国各地の学校で、校舎の窓ガラスがひとつ残らず割られたとか、教師が殴られたというニュースが毎日のように流れていた。いつ、うちがそうならないか、戦々恐々としていたんだろうな」
「私の時代はみんな、おとなしかった。というより、活気がなかったわね。生徒もできる子とできない子の差が激しくて、ひとりひとり、てんでばらばら。他人のことに関心がないのよね。先生もそうだった。生徒に興味がないんだ」
「こっちは萎縮している教師連中を見てきたせいか、『先生』と名のつく人たちに対して、尊敬の念が持てないんだ。医者に対してもそうだけど」
「看護師はもっとそうかもしれない。医者のダメなところや嫌なところばかり見ているから、尊敬どころか、馬鹿にしている子が多いわね」
このテーマをあまり突っ込んでいくと結局、仕事の話になりそうだった。どちらからともなく、昔好きだった芸能人が誰だったかという話題になっていた。私が10代のころは間違いなく女性アイドル全盛の時代だった。一方、佐久間の小中高時代はジャニーズ事務所所属の男性タレントが芸能界を席巻。彼女が挙げる芸能人の半分も名前がわからなかった。
こうした他愛ない話をしながら歩いているうち、麻布の有栖川宮記念公園まで来ていた。ここから私のマンションまではまだ3㎞ある。日はだいぶ延びたが、あたりは少し暗くなってきた。
公園内を散策したあと、タクシーでマンション近くの行きつけの定食屋をのぞくことにした。4時間前にスペイン料理をたらふく食べたはずなのに、もう空腹が襲ってきたのだ。店では、私が銀だらの西京焼きの定食、佐久間は穴子飯を頼んだ。銀だらはアラスカ産だが、この店では魚介の大半は江戸前のものを使っている。穴子も前日の夜に東京湾で獲れたものを専門業者から生きたまま仕入れ、店の主人が自らさばいている。佐久間は「美味しい」と何度も繰り返した。
マンションに戻ってからは、赤ワインを2人でボトル1本飲み、そのまま就寝。久しぶりに、かなりの距離を歩いたせいだろう。佐久間が先に寝息をたて、続いてまもなく私も眠りの世界に入った。
ここまでが、私の記憶に残っている昨日の出来事である。それにしてもなぜ、病院にいるのだろう。一酸化炭素中毒を起こす原因など、どこにも見当たらない。
<湯本のファインプレー>
蒔田と白木が命を落としたのも、一酸化炭素中毒だった。それが事故なのか、誰かの手によるものなのか、結論は出ていないが、少なくとも私と佐久間はどこかに犯人がいると見ている。そして、元刑事の湯本も私たちに引きずられるように、事故ではなく事件だという考えに傾きつつある。私たちチーム小倉を狙った犯行なのか。
それより前に、湯本にたずねなければならないことがある。蒔田や白木と違って、私たちはどうして助かったのだ。
「なぜ、一酸化炭素中毒を起こすような事態になったのか不思議ですが、その前に、どうやって私と佐久間は病院まで運ばれたのかを教えてくれませんか。そもそも、誰が私たちの危機に気づいたのでしょうか」
「僕です」
ベッドの横の椅子に座っている湯本はほとんど寝ていないのか、疲れ切った顔をしている。少し間をおいてから、こう続けた
「第1と第3の日曜日に、下川さんたちが東京のマンションですごすというのは知っていましたが、心配していたんです。尾方肇が犯人かどうかは別にして、下川さんを狙っている者がいるとしたら、チーム小倉のメンバーたちが普段いる埼玉県北部の安井中央病院近くのマンションではなく、東京のねぐらにいるところを襲うに違いないと思っていたのです」
いまから約2ヵ月前、私、佐久間、湯本の3人は尾方の新宿御苑近くのマンションを訪ねている。私たちは尾方が蒔田と白木を殺した犯人ではないかと疑い、探りを入れるために本人と直接、対面したのである。だが結局、めぼしい成果は得られなかった。そしてその日、湯本は帰り際に私の東京のマンションに寄った。彼が来るのは初めてだった。
「あそこが下川さんのマンションだと知っている人はほとんどいない。逆に言えば、その情報さえつかんでいれば、絶好の犯行現場になりうるわけです。実際に行ってみてわかったのですが、ロケーション的にも犯人にとって都合のいい条件が揃っていた」
言われてみれば、確かにその通りだ。マンションは前の妻と結婚する1990年代半ばに購入したもの。そのときすでにかなりの中古で、格安で手に入れた。今年、築54年になる。とっくに建て替え時期が来ていたが、管理組合もほとんど機能しておらず、入居者の誰もそのことを言いださない。というより、入居者同士のつきあいもほとんどなく、顔を合わせてもあいさつを交わすことすらないのだ。
オートロックシステムもないため、出入りは自由。非常階段も外から見えにくい位置にあり、犯行のあと、逃げるルートにも困らない。
「ドアの鍵も古いタイプで、簡単にピッキングできてしまう。これは危険だと直感した僕は、できる限り、第1と第3の日曜日はマンションの付近を見張りに来ようと思ったのです」
「せっかくの休日に、自分の時間をつぶしてまで、東京に来られたんですか」
「いやいや、そんな威張れたものでもないんです」と湯本は苦笑した。
「実は今回が2回目。3月までは群馬の医療モールの準備で、それどころではありませんでしたから。4月1日に無事、開館セレモニーが終わり、翌日の2日は第1日曜日だったので、夜にドライブがてら、来てみたのが最初です。そして昨晩──。何となくあたりの様子がおかしく、胸騒ぎもして部屋に入ったら、下川さんと佐久間さんがベッドでぐったりなっていた。これは単純に眠っているのではないと気づき、すぐに救急車を呼んだのです」
ひとつだけ疑問があった。湯本はどうやって、部屋に入ったのか。
「鍵はかかっていなかったんです。犯人はピッキングでドアを開け、犯行後、そのまま部屋を出ていったのでしょう。ドアが開いていたという事実は、今回の件が事故ではなく、事件性が高いことを示しています」
私は心拍数が一気に上昇するのを自覚した。
(つづく)