【医療ミステリー】裏切りのメス―第33回―
【前回までのあらすじ】
埼玉県警の湯本利晴刑事によって、チーム小倉の最大の懸念だった尾方肇が逮捕された。
安堵の息を吐くリーダー下川享だったが、尾方の取調べは難航していた。自白も取れず、被害者の安井芳次が一命を取り留めたためだった。結局、尾方の罪状は「殺人未遂」ではなく、「傷害罪」という軽い罪での起訴となった。
陰謀渦巻く病院ビジネスを舞台とした【医療ミステリー】連載。毎週火曜日更新!
-著者プロフィール-
●田中幾太郎/ジャーナリスト
1958年、東京都生まれ。『週刊現代』記者を経てフリー。医療、企業問題を中心に執筆。著書は最新刊として『歯医者のホントの話』(KKベストセラーズ)、その他にも『本当に良い病院 悪い病院』『三菱財閥最強の秘密』(以上、宝島社新書)、『日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊/本日より時間外・退職金なし』(光文社)など多数。
<快進撃の裏で>
2016年5月──。チーム小倉にとって最大の脅威だった尾方肇が逮捕されてから3年がすぎた。
尾方に対する地裁判決は懲役4年。検察、被告双方とも控訴せず、刑が確定した。安井会グループ前理事長の安井芳次に瀕死の重傷を負わせたわりには刑が軽い気もしたが、殺人未遂でなく傷害罪で起訴された時点で、こうした結果も予期していた。
処置を誤れば、命を落としてもおかしくない状況だったが、安井会グループ現理事長の小倉明俊になりすます天才脳外科医、吉元竜馬の執刀によって無事生還。安井は2週間足らずで現場復帰を果たし、後遺症もまったく残らなかったとあっては、検察官が弱気になるのも無理はなかった。求刑も4年6ヵ月とかなり抑え気味だった。
尾方がどんな反撃を考えているかはわからなかったが、その存在を気にしながら、チーム小倉の次の展開を模索するのは正直、しんどかった。さまざまなシミュレーションをしなければならないし、こちらは城をかまえているぶん、どんな夜襲にも備えなければならないのだ。わずか4年の刑期とはいえ、見えない敵が塀の中に閉じ込められているという現実は、非常にありがたかった。
事実、この3年、チーム小倉のプロジェクトは快進撃を続けていた。安井会グループ傘下の病院は7施設から9施設に増えていた。新たに加わったのは栃木県の350床、もうひとつは千葉県の280床だった。いずれも経営がひっ迫しており、運営者の側から救済してほしいとの申し入れがあり、グループ入りが決まった。
安井会グループが他の病院から頼られる存在になったのを実感していた。医療界では「関東に安井会あり」の声も聞こえてくるようになった。チーム小倉の頭脳、蒔田直也の存在が大きかった。彼の経営分析の能力は抜群だった。病院の財務諸表を一瞥(いちべつ)しただけで、どこをどうすれば再建できるか見抜いた。
佐久間君代の看護師人脈も大いに役に立った。傘下に入った2つの病院はいずれも、看護師体制が崩壊していた。千葉県の病院の場合は、人数が明らかに足りなかった。看護師1人にかかる負担が大きくなり、あまりのハードさに嫌気が差して、次々に辞めていく悪循環に陥っていた。険悪な空気の中でいじめも横行し、高賃金で募集をかけて一時的に人数が回復しても、大半がすぐに辞めていった。
佐久間はまず、お局のように振る舞っていた看護部長を役職から外した。いじめの元凶だったからだ。そして、自身のネットワークを使い、とりわけ優秀な看護師を3人、送り込んだ。いずれもリーダーの資質を持った人材で、部下のやりがいを引き出す能力に長けていた。半年後には病院の雰囲気もがらりと変わり、十分な数の看護師も常時、確保できるようになった。
<忙し過ぎる夫婦>
私が佐久間と結婚したのは2013年4月末。これまで、夫婦らしいことはほとんどしてこなかった。「いつか北欧に新婚旅行に行こうね」と話し合っていたが、それも実現できていない。2人とも、あまりに忙しすぎるのだ。
埼玉県北部の安井中央病院で看護部長に就いている佐久間は、安井会グループ全体の看護師体制を統括する役割も担っている。チーム小倉の代表を務める私は、安井会グループでは表立った役職はなかったが、裏方として多方面の調整に奔走する日々を送っていた。
結婚生活にさまざまな制約があったのは、忙しさのせいばかりではなかった。2人が結婚している事実を知っている者はほとんどいないのだ。チーム小倉の他の2人、吉元竜馬(小倉明俊)と蒔田直也にもいまだ、伝えていない。チームの結束力が壊れるのを怖れてのことだった。
佐久間とはチーム小倉の会議ではしょっちゅう顔を合わせていたが、プライベートでは2週に1回しか会わなかった。ふだんは、チーム小倉が借りている安井中央病院近くの月極マンションのそれぞれの部屋で、別々に寝泊りしていた。このマンションには吉元や蒔田もいるので、彼らに気づかれないよう、相手の部屋を訪ねるのも避けていた。
2人の密会場所は、私が元々住んでいた都心のマンション。第1と第3の日曜日と決めていた。よほどのことがない限り、この日の晩だけは必ず、一緒にすごすようにしていた。夫婦であることを忘れないようにするためだ。
4回目の結婚記念日を迎えた翌日の5月1日(日)、ささやながら2人で祝杯を挙げた。佐久間が持参したのは、私の誕生年である1967年のシャトー・ラトゥール。ボルドーワインの中でも特に熟成が遅く、時間がたてばたつほど、力強さが増してくる。私のほうは、最高級の生のシャラン鴨が手に入ったので、オリーブ油で煮てコンフィにした。
「北欧はまだ無理そうだけど、今度、2泊3日くらいでどこか行ってみるか。韓国とか台湾で美味いものを食ってくるとか、いいんじゃない」
「3日間も2人そろっていなくなると、吉元先生や蒔田さんに怪しまれないかな。群馬県南部の温泉はどう? 土曜日の夜に行って、月曜日の朝、食事をとらないで旅館を出てくれば、何食わぬ顔で出勤できるし……」
「じゃあ、来月、行こうか」
「6月は厳しいかな。東京の病院で看護師同士がうまくいっていないのよね。ちょっと、テコ入れが必要なんだ」
安井会グループが唯一、都内に持つ病院は前理事長の安井芳次が1990年代後半に、地元自治体に依頼されて、再建を引き受けたもの。経営がかなり悪化していた病院を数年で立て直した。これで東京進出を果たし、安井は有頂天になっていたが、このときの過剰投資がたたり、グループの経営が傾き始めるきっかけとなった。
「東京は競争が激しいから、看護師の賃金水準もどんどん上がっていて、よりよい待遇を求めて、入れ替わりが激しい。本当にいてほしい看護師はなかなか定着しないしね。うちの病院はベテランと若い看護師の感覚に大きな齟齬があって、細かいことで何かと意見がぶつかるようになっている。私だけでは手に負えそうにないので、白木みさおさんにも助けてもらおうと思っている」
白木みさおは看護師を中心とするレズビアンサークル「毬子会(まりこかい)」の代表世話人。かつて、佐久間のパートナーだった。私たちの結婚の際は証人になってくれた。
「白木さんか。あの人は明るいからいいよね。人の心をつかむのがうまそうだ。本当は彼女にも、チーム小倉に入ってほしいんだけどな」
「今度、聞いてみる。もし白木さんが前向きな感じだったら、3人で食事をしましょう」
「うん、お願いするよ。でも結局、いつも仕事の話になっちゃうな。君に負担をかけるばかりで申し訳ない」
月2回しかない2人のプライベートな時間は、仕事に関する話はしない約束だった。私はともかく、佐久間にはもう少し息抜きが必要だった。数年前まではイタリアの高級ブランドを好んで身につけていたのに、最近はいつも同じモノトーンのスーツか、白衣のナース姿しか、見ていない気がする。
あまりに仕事が山積みになっているのだ。チーム小倉のメンバーは私(下川亨)、吉元竜馬(小倉明俊)、蒔田直也、佐久間君代。結成以来、まったく変わっていないが、コントロールタワーとしての機能を維持するには、この4人だけでは限界が来ていた。
<メンバー増員の必要>
白木みさおをメンバーに加えようというのも、いまの状況を何とか変えなければと痛感していたからだ。実は、すでに声をかけていた相手がいた。埼玉県北部の警察署に勤務する湯本利晴刑事である。
チーム小倉が安井会グループを掌中に収めたのも、湯本のさまざまなバックアップがあったからだ。尾方肇の計略にはまりそうになっていた安井芳次を湯本が説得してくれなければ、いまごろ間違いなく安井会グループは消滅していただろう。さらには、その尾方を逮捕したのも湯本だった。
信頼できるこの相手をチーム小倉に引き込むことができれば、百人力であるのはいうまでもない。1週間ほど前、湯本に連絡を入れ、明後日、会う約束になっていた。そのことを佐久間に話すと、彼女も大賛成だった。
「あの人なら医療界にもくわしいし、吉元先生も蒔田さんも何度も顔を合わして気心は知れているから、歓迎してくれるはずよ」
「そうだね。ただ、警察を辞めてまで来てくれるかどうか。何とか説得してみるつもりだけど、安定度抜群の親方日の丸に固執するようなら難しい。湯本はそうしたタイプじゃないと見ているが、まあ期待値30%といったところかな。いずれにしても、今年中には必ず、温泉に行こう。そして来年は、北欧で新婚旅行だ」
佐久間は日ごろの疲れがいっぺんに出たのか、まぶたを閉じたまま、小さく頷いた。
(つづく)