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チャイニーズ・クリスチャンに救いの日は来るか?-中国の地下教会に行ってきた-

信教の自由がない国で神を信じる中国人

 突然だが、あなたは中国人にどんなイメージを持っているだろうか。
 何事も大雑把でやたらと声が大きく、公共心のカケラもない上に頭の中は金のことばかり…。そんなネガティブな印象を持つ方は少なくないと思う。実際、そういう輩は、少なくない。というか多い。
 でも、すべての中国人がそんなお定まりのテンプレートに当てはまるわけでは決してない。信じがたいかもしれないが「絶対に嘘をつかない」「人を騙したりしない」「困っている人がいたら必ず手を差し伸べる」、まるで聖者のような心美しき中国人というものが、下手したら数千万単位で存在するのだ。

 それが、共産党一党独裁「宗教はアヘン」のお国柄である中国で、弾圧に耐えながら信仰を守るチャイニーズ・クリスチャンの人々である。
 ウイグル人やチベット人の宗教弾圧は日本でも度々ニュースになるためご存知の方も多いと思うが、キリスト教徒の迫害については日本人の関心が薄いのか、欧米メディアに比べると日本の報道量は極めて少ない。
 筆者も元来、宗教には関心がないどころかどちらかというと偏見すら抱いていた口だが、まったくの偶然から中国人のキリスト教徒コミュニティに関わる機会があり、付き合いを深めるうちにチャイニーズ・クリスチャンたちの真摯な姿に惹かれるようになった。
 で、「ちょっと魂の復活、信じてみたろか」くらいのノリで地下教会通いをしているうちに、ほとんどカルトと紙一重の中国人キリスト教原理主義のグループから自分も信者認定されていることに気がついた。

 江戸時代のキリシタン狩りのように信仰がバレたら逆さ磔…などということはないが、当局からマークされるのは確実。外国人とはいえ、中国で暮らす以上は地下教会通いを続けるリスクは極めて高い。実際、牧師や信者が数百人単位で突然姿を消す、なんてことが普通に起きている。でも、中国人クリスチャンたちの優しさと信仰の美しさに触れてしまった以上、自分は十字架を捨てる気にはならない。
 信教の自由があり、同時にトンデモ宗教も掃いて捨てるほどある日本とは全く異なる、がんじがらめであるがゆえに純粋で、ときに命がけですらある中国の宗教事情。ここではキリスト教、特にプロテスタントの人々の信仰の姿を通じて日本の読者諸兄にお伝えしたい。

 哈利路亜(ハレルヤ)!
  

突然受けた先生からの信仰告白

 自分が中国人クリスチャンと関わるようになった直接のきっかけは、留学先のクラス担任の先生がよりによってふたりとも基督教徒=プロテスタントで、なんとなく宗教の話をしていているうちに「教会に一緒に行こう」と誘われたことだった。
 良く言えば取材目的、正直に言うと面白半分で即OKしたのだが、心の中に1割くらい、信仰の持つ力というものへの関心があったのも事実である。
 日本だったら町中で宗教勧誘を受けても絶対ついていったりしない自信があるが、そのときは先生が言ったあるひと言が、自分の心を動かした。先生は自分より年下ながらまるで母親のように優しくて生徒想いな女性なのだが、宗教の話になるといきなり人格が変わる。

 ある日、食堂で一緒にごはんを食べていた時、先生がお祈りしているのに気づき、軽く尋ねたらいきなり信仰の告白が始まった。そして、先生は神の実在について自分に分かるようにゆっくりとした中国語で語りつつ、最後に目を潤ませながら感極まってこう言い切った。

「神の真理はひとつ」

 中国の政治を知っている人ならお分かりと思うが、中国共産党も同じく、というか問答無用のノリで「真理はひとつ」と人民に言っている。むろん、先生が言うものとは真っ向からぶつかる真理である。
 収容人数13億人強、世界最大規模の監獄国家、でもデリケートな部分にさえ触れなければ獄中であることに気づかず暮らすこともできる、そんな中国で、先生は国家公務員であるにもかかわらず、国の指導よりも、もっというと自分の命よりも大切な信仰を持ち、それを隠すことすらしないのだった。

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トランス状態になる中国人クリスチャンたち

 というわけで向かった中国の教会。そこはそもそも教会でもなんでもなく、ホテルの宴会場だった。
 要するに政府非公認のインディーズ教派で、当局の許可が下りないから自分たちの教会を持てない。十字架とか教会にありがちなものも一切なし、というか十字架掲げた時点でアウト。
 むろん、国のお墨付きをもらえば堂々と宗教活動をすることだってできる。だがそのためには共産党の指導への全服従が求められる
「社会主義の核心的価値観を守り、愛国心を発揚して中国の優秀な伝統文化を守りましょう」
 などというお達しを丸呑みする政府公認の教会もあるにはあるが、ほとんどの中国人キリスト教徒は自己の信仰心に従ってリスク覚悟で、政府非公認の教会を選ぶのだ。自分が先生に連れて行かれたのもまさにそんな地下教会のひとつで、信者の皆さんの本気度は高かった。

 宗教全般に関しても言えることだが、特にキリスト教は迫害を受ければ受けるほど信仰が深まる傾向が強く、先生を含めて教会に集まった信者の熱気が半端ない。会場を包む高揚感と一体感はさながらレイブパーティーそのものだった。
 その日、会場に集まった中国人信者は大体500〜600人くらい。普通、これだけの中国人が一同に集まると収拾がつかなくなるものなのだが、説教中に携帯でゲームをしている輩なんぞひとりもおらず、全員総立ち、皆真剣。
 さらに牧師(ただし私服)の説教は長渕剛ばりの絶叫系。面食らいながらもふと隣の先生を見たら、涙を流し、賛美歌に合わせて可愛く踊ったりしながらもバキバキのトランス状態になっていた。

 教室では見られない先生の素顔に圧倒されているうちにやがてミサが終わり、さてこれで帰れると思いきや、小グループに分かれて会場のあちこちでお祈り(中国語で「祷告」)が始まった。お祈りといっても日本人がイメージするキリスト教の厳かなイメージとは全く異なり、声が大きければ大きいほど主に届くとばかりに、ほとんど選手宣誓のノリで全身全霊を込めて神を称える叫びである。
 もちろん全てのチャイニーズ・クリスチャンがお祈りで絶叫するわけではなく、担任の先生が所属している教会が中国でもかなり過激な部類に属する教派だったことが関係しているのかもしれない。その教会では「聖書の教えは全て生活の上で守らなければならない」と説いていた。聖書に書いてあることは全て事実、ということらしい。

 なんじ、姦淫するなかれ、人を裁くなかれ、隣人を愛せよ。
 といった程度のことに留まらず、教会通い初日の自分に対して「偶像崇拝は絶対ダメよ♪」とか可愛く言ってくる先生。神様からもらった身体を自分で傷つけるのは反キリスト行為、今日からたばこもやめなさいとたしなめられた。さらに「洗礼はいつ受けるの?」と畳み掛けてくる先生。さすが中国人、話が早い、というか早すぎる。
「こんな感じで洗礼を受けるのよ」と動画を見せてもらったら、部屋にアクリル製のバスタブみたいなのがあって、私服のおっさん(牧師)に何か言われながら頭を沈められるといったものだった
 これが日本人の自分からするとどう甘く見ても「熱湯コマーシャル」以外の何物でもなかったりして、その場ではちょっと考えますと答えておいた。でも今は「押すなよ! 絶対押すなよ!」と言いながら沈められるのも悪くないのではないかと思っている。

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現実か、それとも信仰か

 こんな風に書くと中国人クリスチャンってやばい人たちなのでは?と誤解される方もいるかもしれないが、それは全く逆。教会通いを始めて半年経つのだが、誰かに騙されたことなど一度もないし、1円としてお金を求められたこともない。
 そもそもこの人たちは損得勘定でキリスト教をやっていないし、もし大金を眼の前に積まれたとしても絶対自分の信仰を棄てないだろう。金が何よりものを言う中国で、意外なほどに拝金主義の匂いを感じないのがチャイニーズ・クリスチャン(政府非公認の教会に限る)なのだ。
 天国に行けるのはイエス・キリストを信じる者だけ、キリスト者としてひとりでも多くの人を救いたい。天に召されるその日まで、ただひたすら聖書の教えを守って生きていく。そんな純粋な心を持つ中国人が、度重なる共産党の弾圧にもかかわらず中華の大地で、今この瞬間も叫ぶようにして神に祈りを捧げているのである。
 むろん、中国人クリスチャンにも日々の暮らしがあり、守るべき家族がいる。信仰が絶対であったとしても、ときに現実と折り合いをつけなければならない

 中国でも最もクリスチャンが多い都市のひとつとして知られる温州出身で、先祖5代プロテスタントという一家にお邪魔した際に、信仰にまつわる家族間の大激論を目撃したことがある。学校で宗教に関する調査があり、正直に書くべきかどうかということで親子の意見が真っ二つに分かれていたのだった。
 両親は「自分の将来のことを考えて無宗教と書きなさい、きっとイエスさまも許してくださる」と諭すのに対し、学校で宗教について聞かれた張本人である自分の友人は「嘘をつくのは絶対ダメ、ましてイエスさまを信じていないなんて死んでも言えない」と大反発。
 結局その友人は、学校に対して信仰告白をしたと聞いている。
 中国ではクリスチャンだけでなく信仰を持つ全ての人が、人生のさまざまな場面でこの家族と同じような葛藤を強いられていることだろう。そしてそれは共産党による統治が続く限り、または信仰を捨てない限り終わることはない

 苦悩は人を、そして信仰を磨く。
 自分にとってはチャイニーズ・クリスチャンひとりひとりの心の中に、小さな聖母マリアがいるように感じられる。いつの日か彼ら&彼女らに自由がもたらされることを祈って、この稿を終えたいと思う。

 奉耶稣的名祷告,阿们(アーメン)!

<執筆者プロフィール>
もがき三太郎
出版業界で雑誌編集者として働いていたが、やがて趣味と実益を兼ねた海外風俗遊びがライフワークとなる。現在は中国を拠点に、アジア諸国と日本を行き来しながら様々なメディアに社会問題からドラッグ事情まで、硬軟織り交ぜたリアルなルポを寄稿している。


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