【医療ミステリー】裏切りのメス―第8回―
【前回までのあらすじ】
医療コンサルタント・下川享が画策した元天才脳外科医・吉元竜馬の医師免許を復活させる方法は「なりすまし」という方法だった。下川は小倉明俊という男に目をつけ、その行方を探し始めた。
陰謀渦巻く病院ビジネスを舞台とした【医療ミステリー】連載。毎週火曜日更新!
-著者プロフィール-
●田中幾太郎/ジャーナリスト
1958年、東京都生まれ。『週刊現代』記者を経てフリー。医療、企業問題を中心に執筆。著書は『本当に良い病院 悪い病院』『三菱財閥最強の秘密』(以上、宝島社新書)、『日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊/本日より時間外・退職金なし』(光文社)ほか多数。
<ドヤ街の夏>
2012年7月の終わり、私は東京の日雇い労働者の町、山谷(さんや)地区にいた。人探しのために、やみくもに町を徘徊していた。汗がひっきりなしに溢れ出す。観測史上3位の猛暑だという。地球温暖化の影響なのか、2010年以降、夏になると毎年のように、史上何番目という高温が日本列島を襲っていた。
それにしても暑い。早朝5時、あたりはまだ薄暗いのに、アスファルトは熱を帯び、湯気のような湿気がからだにまとわりついた。こんな早い時間に山谷を訪れていたのは、人探しをするなら、手配師が表通りに顔を出し始める5時までに来ないと難しいと、この地に住みだして半世紀を超えるという70代後半の男から教えられたからだ。
「ここのところ、えらく景気がよくてね。50歳前の山谷の住人は大半、手配師に連れていかれてしまった。あんたの探している人も、もういないかもしれないな」
いまは海外からのバックパッカーや高齢者福祉の町として知られる山谷だが、まだこのころは働き盛りの男がかなりいたのだ。それを目当てに、仕事をあっせんする手配師たちが集まっていた。前年に起こった福島原発事故で、除染作業員のなり手が全然足りず、ひとり連れていくだけで10万円以上のカネが手配師たちに支払われていた。
もしかしたら、私の探す消化器外科医の小倉明俊もすでにここにはいないのだろうか。そもそも、なぜ小倉が山谷にいると思ったのか。関西にいづらくなったとしたら、ここしかないという気がしたのだ。それまで大阪・西成にあるドヤ街の釜ヶ崎に身を潜めていた彼が次に行く場所は山谷しかないだろうと、勝手に思っていた。西が釜ヶ崎なら、東は山谷である。
その一方で、そんなあてずっぽうで人探しをするなんて、我ながらどうかしていると感じていた。西がだめなら東という根拠はどこにもない。もとより、医療過誤刑事裁判で無罪を勝ち取った小倉がなぜ逃げ出さなければならないのだ。精神が疲れ果て、知り合いと顔を合わせたくないからといって、東京のドヤ街に逃げ込む必要はないのである。
だが結果を言えば、私のヤマ勘は当たっていた。ただし、それほど広い町でもないのに、小倉を見つけるまでに3週間も要した。途中であきらめてもよさそうなものだったが、少なくとも1ヵ月は探してみようと自身に課していた。ほかに、あてもなかったからだ。週1回、栃木県大田原市の刑務所に吉元竜馬の面会に行く日を除いて、欠かさず山谷に日参した。
小倉を見つけ出すことに、ここまで執着する理由はただひとつ。吉元の医師資格復活に欠かせない男だと直感したからだ。小倉とは一面識もなかったが、彼の写真を初めて見たとき、ゾクッとするような感覚が背中を走った。
うりふたつとまでは言わないまでも、その輪郭や目鼻立ちがよく似ていたのだ。プロフィール資料を見ると、吉元の4歳上。体格までは書いてなかったが、病院前で立っている全身写真があって、痩せ形で身長は175cm前後と推察された。吉元もそれくらいだったはずだ。なりすますには、格好の相手だった。
小倉と会えれば、説得して医師免許を譲渡してもらうつもりだった。といっても、株券や不動産権利証ではないのだから、名義を書き換えることはできない。小倉名義の医師免許をもらい受け、そのまま吉元が小倉医師になりすませばいいと考えたのである。
医師資格を証明する医師免許は生涯一度しか発行されない。世の中で1枚しかない本物の免許を持っておくことは、吉元が小倉医師になりすますにあたって、ひとつの大きな武器となりうるのだ。
しかし、小倉が医師免許を紛失したとか、盗まれたと当局に申し出て、真相が暴かれれば、すべてが瓦解する。私のプランは砂上の楼閣とも言えた。小倉への懐柔がうまくいき、医師免許を得たとしても、その後、心変わりされたらおしまいなのだ。そうならないために、どうすればいいか、私は頭の中でいくつかのシミュレーションをしていた。答えを出す前にとにかく、小倉を見つけ出さなければならない。話はそれからだ。
<変わり果てた姿>
だが、人探しは難航した。8月下旬に差しかかるころ、ようやく小倉と出会うことができたのだが、そこまで時間がかかった理由は、あまりにも風貌が変わり果てていたからだった。
夕暮れどき、路地の片隅に敷いたダンボールの上であぐらをかき、ひとりでワンカップの酒をあおっている男がいた。グレーのシャツはよれよれで、首のあたりが垢で黒くなっていた。ここはたびたび通り、すでにその姿も何回か見かけていた。ただ、よもや小倉だとは思わず、いつもそのまま素通りしていたのだ。
小倉は42歳のはずだったが、とてもそうは見えなかった。顔中シワだらけで、70歳近くになっているように思えた。この男がもしかしたら小倉ではないのかと思い始めたのは、目元が写真と似ていたからだ。肉体労働の経験があるようには見えず、どこか男性外科医らしいダンディさを残していた。
2本目のワンカップのふたを開けようとしている男に、私は思い切って「小倉明俊先生ですか」と声をかけた。すると動揺したのか、ワンカップのふたを強く引きすぎてしまい、中の酒がだいぶこぼれた。顔を上げた男はおびえるような目で一瞬、私を見つめたあと、すぐに視線を落とした。
自分は下川亨という医療コンサルタントだと名乗ったあと、「先生の大学時代の同級生だった和歌山の開業医に頼まれて、探していたんですよ」と語りかけた。だが、小倉が顔を上げることはなかった。さらに、こう続けた。
「私は先生を助けることができる。いろいろ話がしたいんで、とりあえず近くの居酒屋で一杯やりませんか」
小倉は無言のまま、首を小さく横に振った。いずれにせよ、完全に無視を決め込むのではなく、こうしてわずかでも相手が意思を示したのは、プラスの兆候だと感じた。私は小倉と会ったら渡そうと思っていたものを鞄から取り出した。スコットランド・アイラ島のシングルモルトウイスキー「ラガヴーリン」の21年物である。小倉がスモーキーでピート臭の強いアイラモルトを好んでいたという情報を事前に仕入れていたので、その中でもとびきりの奴を用意しておいたのだ。
地裁と高裁で計4年半、刑事被告人としてプレッシャーに押しつぶされながら、すっかりアルコール依存症になってしまった相手に、ウイスキーを渡すのは罪な気もした。だが、私としてもなりふり構っていられなかったのだ。吉元竜馬が表に出てくるまでに、あと4ヵ月しかなかった。
黙ったまま、ラガヴーリンのボトルを受け取った小倉に、「明日の同じ時間にまた、ここに来ますから」と言い残し、その場を去った。いろいろ喋りすぎて警戒されるより、少し考える時間を与えたほうが得策だと思ったのだ。
<懐柔>
翌日の夕方、再び路地に行ってみた。いないかもしれないという一抹の不安はあったが、小倉は同じようにダンボールの上であぐらをかいていた。昨日と違うのは、ワンカップを持っていなかったことだ。
「ウイスキー、美味しかったよ」
私の姿を見つけると、小倉のほうから話しかけてきた。
「全部、飲んじゃったんですか」
「いや、あんないい酒は滅多に手に入らないから、まだ半分以上残してある」
私は小倉を探していた本当の理由を正直に打ち明け始めた。吉元という脳外科医が教授にはめられ逮捕され、いま刑務所に入っている。今年末には釈放される予定になっていると話した。「先生の医師免許を譲ってほしいのです」と切り出し、どうすればうまくいくか、考えているプランをこと細かに説明した。医師免許を譲り受ける条件をこれから話そうというとき、小倉は「うん、構わないよ」と口を挟んだ。
「僕はもう医者の世界に戻る気はない。このまま飲んだくれて、ここで野垂れ死にたいと思っているんだ」
あとさきになってしまったが、条件を丁寧に説明した。医師免許の原本の代金100万円、さらには3ヵ月に1回20万円ずつを半永久的に振り込むことを提示した。
「そんなにはいらないけど、くれるんだったら、もらっておくよ。どうせ、ほとんどは酒代に消えてしまうんだろうけど」
3ヵ月ごとの20万円は、小倉が当局に駆け込んだりしないための保険だった。これで吉元の医師資格が復活できるのなら安い買い物に違いなかった。
(つづく)
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