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砂浜にて

海辺をうれしそうに走りまわるミニチュア・シュナウザー。その姿を眺めながらさっき会ったばかりの犬好きな二人がかわす他愛のない会話。その内容はサーフィンだったり人生だったり、やっぱり犬だったり…。
柴犬ライフ』編集長・小西秀司氏が著書『どうしてこんなにも犬たちは-犬からもらったたいせつな10の思い出-』から短編を1つお届けします。

その老人は、砂浜に座って海を眺めていた。
彼は荷物も持っていなかった。
ただ、海をまっすぐに見つめていた。 

小春日和といってもよい秋の日だったが、ビーチは人影がまばらで、
何人かのサーファーが沖にちらほら見えるだけだ。

ぼくは愛犬の散歩に来ている。犬の名前はシリウス。
なぜかシリウスはその老人のことが妙に気になるみたいで、
どんどん近づいていって、彼の前でぴたっと止まってしまった。

「……こんにちは」
老人が言った。
すみません、お邪魔してしまって、とぼくは返した。
「この子は、ミニチュア・シュナウザー?」
「そうです。よくご存知ですね」
老人はふふ、と笑って、シリウスを撫でた。
「むかし、一緒に暮らしていました。ずいぶん前の話ですが」
「そうなんですか。犬がお好きなんですね」
「はい。特にシュナウザーは大好きです。彼らの少しだけ気難しいところや、きりっとした態度、それに反するような甘えかた、そうそう、もちろん男爵のようなルックスもね」

この人はほんとうに飼っていたのだな、とぼくは思った。
そう、犬というのは犬種によってさまざまな顔を見せるのだ。
そして個体の数だけ、個性がある。
「うちのもそうですよ。頑固なくせに甘ったれです。
でも、歳を重ねて、ずいぶんと性格は丸くなったかもしれません」

老人はシリウスを見つめた。
「いま、いくつですか?」
「今年の十二月で九歳になります」

老人はポケットからごそごそと、なにかをとり出した。
それはガムのようだった。無言で差し出し、
ぼくはそれを受け取って、包み紙を眺めた。人間用だ。
老人はぷうっとガムで風船をふくらませてみせた。

フーセンガムなのか。へえ、なつかしい、とぼくは思った。
ありがとうございます、と言って、それを自分の口に放り込んだ。
コーラの味がする。

老人は自分の隣を指さして、少しお話しませんか、と言った。
特に断る理由もなかったので、ぼくはそこに座った。
「この子の名前は、なんというのですか?」
「シリウスです」
ぼくはコーラ味のガムを噛みながらそう言った。

老人は近くで見るとかなりお洒落な男性だった。
若い女の子が着てもおかしくない、
軽そうなグレーのハーフコートを羽織り、
清潔な白いショートパンツを履いていた。
足下はドクター・マーティンの黒い編み上げのブーツ。
その服たちは、彼のやせ型の体型にぴったりと合っていた。
似合ってるなあ、とぼくは思った。
長い白髪は後ろに結ばれている。年齢はよくわからない。
けれども七十歳はいっているはずだ。

「シリウス。星の名前なのですね。いい名前だ」
「そんなにこだわってつけたわけじゃないんですけどね。
語呂もいいし、りりしい雰囲気で」

砂浜には人がいないようだし、ぼくはシリウスのリードをそっと外した。
シリウスはうれしそうに波打ち際まで走っていく。

老人はその姿を目で追って、にこにこしながら言った。
「わたしが暮らしていたシュナウザーは昴、という名前でした。
正確に言えば、星ではなく星団ですが」

「へえ! すてきな名前じゃないですか。
今はもう犬を飼っていないのですか?」
「もう、年寄りですからね。いつ自分が死んじゃうかわからないから」
彼はそう言って笑った。

それからぼくたちは他愛もない話をいくつかした。
クラゲに刺された時は浸透圧の問題で傷を真水でなく、
海水で洗わなくちゃいけないことや、
サーフィンはロングボードが美しいけど、
ライディングするのはショートボードが楽しいとか、
海にまつわる話が大多数で、その合間に犬の話が入ってくる感じだった。

「昴が死んだのが十年前です。その直前に妻も亡くなりました。
……ああ、こんな話は迷惑かな」
「いえ、ぜんぜんかまいませんよ」

「ありがとう。わたしたちには子どもがいませんでしたので、
昴がその代わりのようなものでした。
彼は十五歳まで生きました。
もしも妻がその時に亡くなっていなかったら、
もう少し生きたかもしれませんね。
かなりショックを受けていたようですから。
おもしろいものですね、犬って」

「犬は、いろいろなことを感じていますよね。
ほんとうは、何もかも理解しているんじゃないかって思う瞬間が
何度もあります」
ぼくはそう言って、波打ち際ではしゃぐシリウスを見た。

「そう、ほんとうに。昴もぜんぶわかっていたのかもしれません。
きっと妻の病気のことも。
妻は、最期は昴に看取ってもらいたい、なんて話してましたから。
そしてそれは叶えられました」

老人はそうつぶやいて、まぶしそうに目を細めた。
そしておもむろにこう言った。

「……ああ、会いたいなあ」

ぼくはその言葉を聞いて、何か胸の奥が熱くなった。
そして、もうすぐ消えてなくなってしまうかもしれない雰囲気を持った、
この老人のはかなさを思った。
人生の終盤とは、どんなものだろう。
何を思い、感じるのだろう。

「もしも、ぼくがあなたの立場だったら……ごめんなさい、
失礼を承知でお話したいのですが、
つまり、ぼくがあなたくらいの年齢になり、家族を失い、
自分の人生の終盤を見つめるようになったら、
そんなふうに『会いたいなあ』って言いたい……です」

老人は少しびっくりした顔をしていたが、
すぐに笑顔になって、ありがとう、と返した。

「あれ、いやもう何を言ってるんだろう、すみません、失礼なことを」
ぼくは急に恥ずかしくなってしまって、彼に謝罪した。

「失礼なんかじゃないですよ。でも、どうしてそう思ったのですか?」
老人がぼくに聞いた。

「……誰かに会いたい、という気持ちって、

きっと根源的なものですよね。相手が犬でも猫でも人間でも。
ぼくは最期にそんなふうにつぶやいて死にたい」
ぼくははっとして、これもまた失礼な言いかただったなと思い、
あわてて手のひらで口を押さえた。

「なるほど。でもなぜ、そうつぶやいて死にたいのですか?」

「……そう言っておけば、いまわの際でそうつぶやいておけば、
ほんとうに会えそうな気がするからです」

老人は愉快そうに大きな声で笑った。
無邪気な、まるで子どものような声だった。

「なるほどなるほど。うん、そうかもしれませんね。
わたしもそうしますよ」
彼はそう言ってぼくにウィンクした。
なかなかチャーミングな目くばせだ。

ぼくは恥ずかしい気持ちを持てあましたまま、シリウスを呼び寄せた。

「シリウス、おいで!」

シリウスはその声に気づき、ちょっとだけ逡巡してから、
こちらへ駆け寄ってきた。まだまだ若い。
砂ぼこりを舞いあげるような、いきいきとした走り。

「……とってもうれしそうに帰ってきますね」
老人がもっとうれしそうに言った。
砂浜での会話は途切れがちになっていたが、
まったく気になることはなかった。不自然さを感じさせない緩い時間。
もう少しだけここにいたかった。
すでにシリウスもぼくの膝の上で、のんびり過ごしていた。

「きっとね」
老人が口を開いた。

「はい」

「またね、と伝えておくのが大切なのかもしれませんね」

「またね」

「そう。どんなお別れでも、誰かとさよならをする時はいつも」

「……今日みたいな日に、再会できたらいいですよね」
ぼくはしみじみとそう言った。

ほんとうに今日は気持ちのよい日で、奇跡みたいなことが起きても、
何ら不思議じゃない気がする。

「そうですね。今日はいい日だ」

沖のサーファーたちは海が凪いでいるせいで、
ただぷかぷかと浮いている。あれはあれで楽しいのだろう。
波はとても穏やかだ。彼らもいい日を過ごしている。

「虹が出ればいいのにな」
老人がまるで少年のような口調で言った。

「出るかもしれませんよ」
そうかな、と彼はやさしそうに笑って言った。
だったらいいな。
たぶん、夕方あたりに虹が出るだろう。
今日はそんな日なのだ。


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あざます!
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