アラサー女が将棋始めてみた 第3回
今回は、たまにある「平手で指す」、つまりハンデなしで指すという状況について書きたい。
ふだん、わたしは駒落ちで相手をしていただいているのだが、中には「駒落ちは勉強にならない」が持論のおじいさんもいる。
駒落ちにも定跡があり、六枚落ちではわたしが定跡どおりにやれば簡単に相手の陣地を突破できてしまう。だけれどこれが四枚落ちになると途端に難しくなり、いまのわたしのレベルでは四枚落ちの支部長さんを突破できないのである。つまり本当に、駒落ちで指してもらうだけでは勉強にならず、根本から強くなるためには、平手での定跡や戦術を覚えて総合的な棋力をつける必要があるのだ。
だからわたしも「駒落ちは勉強にならない」には同意しているし、それを持論にしているこのおじいさんと指すときは当然平手での対局になるのだが、なぜかこのおじいさんはいつも矢倉の組み方を教えてくださるのだ。
矢倉というのは昔からある定跡で、金銀でがっちり玉を囲う古くからの戦法である。この矢倉、支部長さんをはじめ四枚落ちで指してもらうようになった今、非常に重宝するようになった。
いつだったか若いプロ棋士の先生が「矢倉は終わった」とおっしゃって話題になったが、その後発言を撤回したらしい。なので、矢倉は純文学なのだと私は考える。矢倉は古くからあり、たくさんの人が愛する戦法だからである。小説の純文学が昔から今にいたるまで研究され愛されてきた、というのは矢倉に通じるものがある気がするのだ。
余談だが、わたしはそのおじいさんを「純文学のおじいさん」と心の中で呼んでいる。矢倉を教えてくださるだけでなく、言動にも純文学の匂いがするのだ。金銀を「カナモノ」と呼ぶとか、香車を「ヤリ」と呼ぶとか、絵に描いたような将棋好きのおじいさんなのだ。
「カナモノ」とか「ヤリ」というのはたいていのおじさんが使う、いたって一般的な呼び方なのだが、そのおじいさんが言うと迫力がある。そして、教えてもらいながら指していく中で、
「それだば、ヤリ突いてみるか? それともこっちの歩突いてみるか?」
とか言われて、
「じゃ、じゃあヤリを突いてみます」
と、わたしまで純文学になってしまうのだった。
不思議なのは、そのおじいさんに次の手を教わりながら指していても、毎回違う局面になることである。いや当然なのだろうけれど、本当に将棋は10の220乗の手がある世界なのだなと思う。
その純文学のおじいさんからすごい名言が飛び出したことがある。
いつものように、純文学のおじいさんに指し手を教わりながら対局してもらっていたときのことだ。おじいさんのアドバイスが的確ゆえに、徐々におじいさんの守り駒が減ってきたのだが、そのときおじいさんは、
「じいさんの王様、じいさんの頭みたいに薄いべ?」
と言ったのであった。
なんという自虐ネタだろうか。いやそんなこと言われてもリアクションに困るではないか。なんと返事をしていいのかよくわからなくてそのときは薄笑いにとどめた。
やはり男性にとって、頭髪が薄くなるのは悲しいことなのだろうなあとしみじみ思うのであった。しかし頭髪の薄かった厳格な大伯父が「大山名人を見ろ。ハゲは頭がいいんだ」とニコニコして言っていたと母から聞いたので、ある意味知性の象徴なのでは……とも考える。
そのおじいさんは、わたしと指すとき、わたしが詰まると次の手の候補を何通りか挙げてくださる。なのでわたしはそれのうちどれかを選んで指せばいいのであるが、ある日、別の人と普通に平手で指してどん詰まりに突入した。誰も次の手を教えてくれないのだから当然である。
何が起こっているのかさっぱり分からなくて、思考停止のどん詰まりに突入するのだ。六枚落ちでも四枚落ちでも「下手の考え休むに似たり」なのだから、もっと相手の手が増える平手なら当然のことだ。
ある日、わたしを入れて三人公民館に集まっていたときのことだ。
もちろんわたしはおじさんたちの対局を見ていたのだが、そこにボーイッシュな女の子がやってきた。その女の子は一見して小学生の男の子にも見えるような、さっぱりした印象だった。
彼女は隣町には指せるところがないから列車で来た高校生だと言い、人数の関係上わたしと、とりあえず平手で指してみることになった。隣で指していたおじさんがわたしについて、
「この人すごい初心者だから、悪手指したら教えてあげて」
と助け船を出してくれた。隣町からわざわざ指しに来る高校生である。きっと将棋がものすごく大好きで、つまりものすごく強い。恐る恐る「よろしくお願いします」と始めると、その高校生の女の子は角道をあけて、それからついーっと飛車を動かした。
ふ、振り飛車だ! いままでいっぺんもやったことも見たこともないぞ!
……当たり前である。おじさんたちとはふだん駒落ちで指しているので、当然おじさんたちには飛車がいない。びっくりして一瞬固まり、さてどうしたものか考える。
とりあえず飛車先を伸ばしたり、角道を開けてみたり、思いつきの手を指して「悪手です」と指摘されたりして、最終的には棒銀を試してみることにした。
棒銀というのは飛車のいる2筋に銀を繰り出していく戦法で、銀が五段目まで出れば作戦成功である。加藤一二三先生がよく使った戦法でもあり、初心者が最初に覚える戦法とも言われる。
けれども、そろりそろりと銀を動かしてみたはいいものの、結局わたしは五段目に銀を進めることはできず、もうなにをどうしていいのかさっぱり分からなくなった。誰かのアドバイスなしに平手で指したことがないからだ。
そのあと支部長さんがやってきて、わたしvs高校生の女の子の対局を観察し始め、結局また教えてもらう方向で進んだ。やっぱり駒落ちだけでは勉強にならないのだなと、純文学のおじいさんの薄い頭髪を思い出した。
将棋が得意な人はリスペクトできるとよく思うのだけれど、この女の子も相当リスペクトできる人だった。「小学生のころからずっと将棋を指している」というその女の子はわたしの悪手をずばり指摘するだけの棋力があるのだ。
というか、この高校生の女の子はそもそもわたしごときが平手で指せる相手じゃなかったのである。
将棋は最善手を指せば勝てるものであると加藤一二三先生はおっしゃる。
その最善手を見つける方法を、わたしはまだよく分かっていない。アプリで指していてもヒントボタンに頼りっぱなしである。
どうすれば強くなれるのか、努力のやり方を覚えるところから始めねばならないのだ。
しかし将棋はその努力をすることすら楽しい。楽しいからこそ「強くなりたい欲」が生じる。強くなりたい欲の無限ループである。
げんに、おじさんたちやその高校生の女の子や純文学のおじいさんも「強くなりたい欲」があって勉強を続けたから強くなったのだろうし、純文学のおじいさんがわたしに矢倉の組み方や平手の指し方を教えてくださるのも、わたしの「強くなりたい欲」をくんでくださってのことだと思う。
だから、角道を開けるつもりで間違えて8六歩と進めて、相手のおじさんに「お、新手か」とからかわれても公民館に通うのである(なおこのときは謝って「待った」させてもらった)。
わたしはもっと考える力を鍛えねばならない。ボーッと生きていてはいけないのである。何度でも言うが、わたしが勉強していくと、おじさんたちはもれなく喜ぶのだ。
道場ではどんな人が集まっているのかわからないので、毎回「今日こそは支部長さんに勝つぞ」などと意気込んでいく。そしてたいてい、優しい若者や手心を加えるのが上手いおじさんに、ふんだんにヒントをもらって花を持たせてもらい、なんとなくしょんぼり帰る。
次に行ったとき、あの高校生の女の子と指したなら、うろたえたり迷ったりせずにきちんと指したいと思う。そしておじさんたちの誰かと駒落ちで指すのなら、ちゃんと勝ちたいと思う。またしょんぼり帰るのはいやだからだ。
そしていつか、このエッセイで、大勝利を報告できたらいいな、と思う。
Profile/金澤流都(かねざわるつ)
平成ヒトケタ生まれ。統合失調症を拾い高校を中退。その後ほんのちょっとアルバイトをしただけで、いまはライトノベル新人賞への投稿をしながら無職の暮らしをしている。両親と猫と暮らしている。
Twitter https://twitter.com/Ruth_Kanezawa